「土門拳記念館」と「拳湖」
山形県酒田市飯森山
このブログの本サイト『P・M CLIP~風の記憶~』を始めて6年になろうとしています。
サイトを立ち上げるにあたって、こっそりと端の方に私的な写真論みたいなものを書いています。
------------------------------------------------------------
写真は「記憶」ではないか、と感じています。
人は皆、何かに感じてシャッターを押します。
被写体を見て、カメラを構え、構図を考え、シャッターを切ります。
そのどの段階においても自分の中の何かがそれを決定させるのです。
自分にその写真を撮ることを決定させるもの。
それは究極的には「記憶」ではないのでしょうか。?
私の心の中には様々な記憶のかけらたちが彷徨っています。
それらは、自分が意識しているものもあれば、全く不意に突然顔をのぞかせ自分自身を愕然とさせるものもしばしばあります。
自分の奥底に積もった記憶のかけらたちが、レンズを通し入ってくる光に一瞬またたき、自分にシャッターを切らせるのではないか、と感じています。
何故この景色が気になったのだろう?何故この写真を撮ってしまったのだろう?
そんな事を感じるときが、ありませんか。?
------------------------------------------------------------
今読むとアマチュアのくせに偉そうな書き方で恥ずかしいのですが、この拙い文章の主旨については今でも変わらずそう感じています。と言うか、ますますそんな感じがしています。
写真を撮るとき、カメラを構えた人がどのような性格で、どのような考え方をし、どのような人生経験をしてきたか。何が好きで、何が嫌いで、何に関心があり、何に心を動かすのか。そういったものの全てが根底にあり、その上である対象に反応し、その対象を切り撮る。たとえ同じ対象物であっても撮られた写真は人によって微妙に違うのです。
つまりは、写真はまさにその人の「生き様」が現れるものなのだと思うのです。
どうもうまい具合に言い表せないのですが、私が密かに尊敬している郷里の先輩であるtakさんのブログの7月17日のエントリー『「写真論」の入り口』にとても適切に写真の本質について書かれた文章がありました。
takさん曰く、
>写真とは「どのような状況に出会うか」ということである。
>「出会う」ということは「選択」でもある。選び取らなければ出会っていないことになるからだ。
>その人が何を選択したかということは、その人がどのような人生を生きたかということと同じであり、だから写真はその人の人生を現す。
是非、全文ご一読下さい。→ " tak-shonai's Today's Crack 2 "
今回エントリーした写真、これはHPを始めるずっと以前に撮った写真なのですが、今でも何か印象に残っている写真です。
この写真をある人に見せたら、その人が言いました。
「伊藤さんらしいね。」
自分の写真のことはなかなか客観的に見れないものです。でも、写真を始めたばかりの頃の写真でも、そこはかとなく撮った私という人間が現れているのでしょうね。
そう思うと、写真を公開しているのが何だか恥ずかしい気がします・・・。(^^;
この写真の少女と湖の向こう側に立っている建物は「土門拳記念館」です。
土門拳氏はリアリズムを確立した写真界の巨星。その全作品を生まれ故郷の山形県酒田市に贈り、酒田市はこの「土門拳記念館」を建ててそれに応えました。
日本で最初の写真専門美術館(個人のものとしては世界で唯一)です。
![]() |
土門拳の伝えたかった日本 毎日新聞社,毎日新聞=,土門拳記念館 毎日新聞社 このアイテムの詳細を見る |
