何となく啄木の歌 口遊む大森浜の初恋の歌
(本文とはまるで関係がありません。いつも勝手に啄木の歌が口から出てしまうのです。)
昨年(12月)最後のリモート・オンライン講義が無事終了した。画像左上が講義中の私。マスクをしてパソコン画面に向かって講義している。他の5画面は各会場でご参加風景。
終活の日々(ひび)、日々(にちにち)の終活に勤しんでいる私にとって、ブログを書くこと、或いは他者のそれを読むことも、その優先順位は随分と後方に遠ざかった。昔から他人(ひと)様の私生活には関心が薄いこともあるのだが。人皆等しく与えられている1日24時間の「時」の配分がブログにはあまり使えなくなった。やっておきたいこと、やらねばならないことが限りなく多いのである。
近年は年相応に目も見えにくくなり、右手指が第2関節変形症で痛くなり字が書きにくくなった。それでも愛用の万年筆は離せない。紙の上をすべるように、なめらかな書き心地は何とも言い難い。手紙や葉書は勿論、短歌や俳句もワードで打っても始まらない。
スマホやパソコンで字を書く(打つのだが)ばかりだと、漢字のゲシュタルトが崩壊する。私は字を書いていて、ある字が思い出せない時は躊躇わず辞書を引く。若い頃から辞書を買うのが好きであった。広辞苑や大言海からポケットサイズまで大小様々なものを持っている。最近は辞書を見るのにルーペを使うこともあるが、件の字をメモ紙に写して、序でにその前後の字を読むのも面白い。
長年多くの研究会・勉強会や講演会の講師をしてきた。いつもご参加の方より「何でもよくご存じですねぇ」なんて言われたが、未だに知らないことの多さに内心忸怩たる思いである。
今更遅きに失したが、それでも辞書は元より膨大な蔵書を読み漁っている。
閑話休題
近年、賀状は極力出さないことにしてきた。今年は往時の10分の1にも満たない程度で殆どを失礼した。生来、手紙や葉書を書くのは好きだ。特に昨年はメールなどのやり取りの無い方々に便りを認めた。頂いた返信も沢山あり、やはり自筆の便りは味わい深くよいものだ。
(この画像は12月に届いたもの)
中には巻紙に毛筆で認められたお便りもある。墨痕鮮やか、墨絵調の冬木立にも趣がある。スマホの画像も悪くはないが、このような人の心や温もりには程遠い。
私にとっては、このような方々が「友」と呼ぶに相応しい。ブログのコメントなど、どのように書いた(打った)としても、お顔は勿論、名前も住所も分からないのは何だか寂しい。所詮はバーチャル、何かの弾みに瞬時に消えてしまう。まあ、匿名性の中の慰みであるのかも。
「ブロ(グ)友」等と言う言葉があるようだが、私にとってそのように表現できる方はごく少数である。そのいずれの方もお顔(写真)は勿論、住所氏名も名乗り合っている。時にはお便りやメールでの交信もある。(私なりに)友と呼ぶにはその辺りが必須条件と思っている。当然のことながら、それは皆それぞれなので一向に構いはしない。
末筆ながら、冒頭の啄木の歌は
砂山の砂に腹這(はらば)ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出(い)づる日
ご存じ「一握の砂」の1首である。
何故か、年が改まっても殊更何の感慨もなきこの頃のyo-サンでした。
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