明恵(みょうえ)上人のことをふと。
長年に亘りカウンセリング研修や、その研究会等の講師を務めてきた。
単発の講演などは別にして、1年以上の継続学習では、短歌や俳句、或いは文学作品を紹介して講義もしてきた。
それは「文学に触れずしてカウンセリングを語る勿れ」という私の思いからであった。「なぜ文学なのか?」は長くなるので別の機会に譲る。また乞われれば仏教の話にも時間を割いた。
私自身、短歌が好き(特に啄木には傾倒してきた)なので、折に触れて紹介したり、実作もしてきた。啄木が何故好きなのか、何処がいいのか・・・などと問われても答えられない。物心ついた頃から啄木を読んでいたからなのかも知れない、なんて思っている。(w)
とは言いながら大した歌も作れない私である。
実は啄木以外にも好きな人が沢山ある。その一人が明恵上人である。どなたもご存じ、デューク・エイセスのあの、
京都 栂尾 高山寺恋に疲れた女がひとりの高山寺の明恵上人である。
以前、講話の中で下記のようなことを話したことがある。
明恵上人は歌人として知られた方ではないが、私は上人のお人柄は勿論のこと、御歌も好きである。上人の言葉に「和歌はよく詠まんなんどするからは、無下にまさなきなり。ただ、何となく読み散らして、心のまことに好きたるは、苦しくもなきなり」がある。
和歌は上手に詠もうなどと思って作ることではない。何となく、心に思うように詠むのがいい。とのことかと。(勝手な意訳ですが)
更には「詩頌(しじゅ)を作り、歌連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうの事にも心数寄たる人が、やがて仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」(明恵上人遺訓)
下手な訳は止して、原文のまま味わって頂きたい。まことにその通りだと思う。文中の「仏法」を「カウンセリング」と置き換えたい。
上人がお月様をご覧になっての御歌に、
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
本当に明るい月が目に浮かぶようである。また、
山寺に秋のあかつき寝ざめして虫とともにぞなきあかしつる
夜半に目が覚めて、虫の鳴き声と一緒に明け方まで泣かれていたのである。
「あかつき」は現代では明け方という意味だが、古くは夜半、つまり夜中を言っていた。
上人は9歳で両親を亡くされていて、虫の声にもあの世の両親のお声かと思われて、涙なさったのではないかと思う。
明恵上人については、仏教上のことは元より、記したいことは沢山あるのだが、またの機会に改めたい。
長年に亘りカウンセリング研修や、その研究会等の講師を務めてきた。
単発の講演などは別にして、1年以上の継続学習では、短歌や俳句、或いは文学作品を紹介して講義もしてきた。
それは「文学に触れずしてカウンセリングを語る勿れ」という私の思いからであった。「なぜ文学なのか?」は長くなるので別の機会に譲る。また乞われれば仏教の話にも時間を割いた。
私自身、短歌が好き(特に啄木には傾倒してきた)なので、折に触れて紹介したり、実作もしてきた。啄木が何故好きなのか、何処がいいのか・・・などと問われても答えられない。物心ついた頃から啄木を読んでいたからなのかも知れない、なんて思っている。(w)
とは言いながら大した歌も作れない私である。
実は啄木以外にも好きな人が沢山ある。その一人が明恵上人である。どなたもご存じ、デューク・エイセスのあの、
京都 栂尾 高山寺恋に疲れた女がひとりの高山寺の明恵上人である。
以前、講話の中で下記のようなことを話したことがある。
明恵上人は歌人として知られた方ではないが、私は上人のお人柄は勿論のこと、御歌も好きである。上人の言葉に「和歌はよく詠まんなんどするからは、無下にまさなきなり。ただ、何となく読み散らして、心のまことに好きたるは、苦しくもなきなり」がある。
和歌は上手に詠もうなどと思って作ることではない。何となく、心に思うように詠むのがいい。とのことかと。(勝手な意訳ですが)
更には「詩頌(しじゅ)を作り、歌連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうの事にも心数寄たる人が、やがて仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」(明恵上人遺訓)
下手な訳は止して、原文のまま味わって頂きたい。まことにその通りだと思う。文中の「仏法」を「カウンセリング」と置き換えたい。
上人がお月様をご覧になっての御歌に、
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
本当に明るい月が目に浮かぶようである。また、
山寺に秋のあかつき寝ざめして虫とともにぞなきあかしつる
夜半に目が覚めて、虫の鳴き声と一緒に明け方まで泣かれていたのである。
「あかつき」は現代では明け方という意味だが、古くは夜半、つまり夜中を言っていた。
上人は9歳で両親を亡くされていて、虫の声にもあの世の両親のお声かと思われて、涙なさったのではないかと思う。
明恵上人については、仏教上のことは元より、記したいことは沢山あるのだが、またの機会に改めたい。
先生のご講義やご法話は、お優しい眼差しの中にも、熱い情熱が感じられて引き込まれてしまいます。
私は和歌のことはよくは存じませんが、明恵上人のお歌は本当に心に響いてまいります。
いつかまた、先生のお話を何処かの片隅で拝聴させて頂きます。
寒中、どうぞお身体おいとい下さいますよう心よりお祈り申しております。
どうもありがとうございました
いつも私の拙い講演や法話のお席に、そっと控えめにご聴講下さるお姿が瞼に浮かびます。
心の中で感謝申しながら演台に上らせて頂いております。
どうぞお気軽にお声をお掛け下さいませ。どうも有難うございました。
心の素肌を暖かく紐解く講話は読む者を慰め・・励ましてくれ・・生きる道標を示してくれますね。
未開拓の心の世界・・・
もやもやした言葉の世界
未知なる脳を開拓する講話・・・
感動を呼びます。
生きる支えとなる杖を頂く想いです。
拙い歌にコメント頂き恐縮して居ます。
身を洗い・・視線を洗いながら
ご教授して頂く講話と照らし合わせながら心の鏡を磨きたいと思います。
こんにちは
春待つ心にひとひらの歌を頂きますと
歌の蕾が言の音を燃やしてくれます。
青春のような言の葉に燃える
冬日の午後です。
感謝します。
キーワードは、「好きになる!」「遊ぶ!」ということでしょうか?
先日、友人から“宿業” “宿縁”について尋ねられました。
お手上げ!降参!の体たらくでした。(笑)
この頃、思うのですが、「宿業とはなんぞ?」「宿縁とはなんぞ?」と問うても、答えに出会えそうにありません。(おバカなボクの証明。笑)
道元さんの、「仏道をならうというは 自己をならうなり」が気になっています。
ボクの屁理屈。
道元さんに対抗して…(笑)
「仏道が好き。自己を遊ばせる」としてみました。
マア、ボクは何もできませんので、「親鸞和讃」をうたい、楽談仲間と遊ぼうと思います。
宿業は何だか暗い感じがしますね。
宿縁は親鸞聖人の仰せの「遇獲行信獲遠慶宿縁慶・・・」だけが脳裏に。
この宿縁は何だか暖かさを感じますね。
くりのみ先生には釈迦に説法になりますし、ヘンなことを申しますとボロが出そうです。
・・・自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり
でしたね。今は昔、JCの研修会にお招きした講師のお一人日蓮宗の井上日宏師から、その言葉を
お聴きしました。師曰く「米沢君は丁度今この研修を成功させるために自己を忘るる境地なんだ
よ」って。一同爆笑でした。本当に私など何もかも忘れてしまって、頭はサッパリ空っぽです。
コメント頂く度に感激と同時に恐縮です。
感謝します。
日々の時の流れの襞ひだに歌心の調べを奏でながら潤いを持ち生きたいと思いながら拙い歌を詠んで居ます。。
暗くなりがちな視線に歌の調べを載せて
命を紡ぎたいですね。
どうぞ風邪など曳きませんように大寒を
お過ごしくださいませ。
祈って居ます。
春はもうすぐだと思いますよね。
感謝します。
素晴らしい歌を頂き歌の命に言の花を咲かせて頂きました。
感激と興奮です。
感動の花・・感激の花・・・
興奮の花が歌を増殖させ命を増殖させる泉となりました。
巡り合う言の命の花が咲く
冴えた月観る大寒の朝
返歌を詠めるように頑張ります。