【本日は小難しい仏教の話なので、興味無き方はどうぞスルーされたし】
元はと言えばブログで知り合ったのだが、私の畏友であり、法友でもある、くりのみさんこと、釈真聴さんという方がある。彼が先日、下記のようなコメントを残してくれた。
>こんにちは。ご講演のテーマ、「生きる力を育むお念仏」の由。ボクも、聞いてみたい内容です。先日、東京新聞《今週のことば》で安田理深師の言葉が引かれていました。
「生活の中に念仏があるのではなく、念仏の中に人間生活があるのです」と。ボクは、くりのみ会のお仲間に、
「念仏は 声のある坐禅(只管打坐)
坐禅は 声のない念仏(念仏三昧)」と、お伝えしています。
講演会の成果を、ブログで更新してください。楽しみにしています。なむあみだぶつ
(以上、コメント欄:2018.8.02より転載)
彼と私とはやっていることが、とても良く似ている。まずは、長年に亘り、カウンセリングの実践(臨床というとメデイカル的なので)と、カウンセリング研究会を主宰していること。次いで、彼も私も得度をしていて僧籍を持っていること。それもお互い、在家者(寺の人間ではない)であること。そして何と言っても親鸞に傾倒していることである。彼は真宗大谷派(東本願寺)、私は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、いずれも親鸞を開山とし、教義などもほぼ同じである。今の私にとっては、もう宗派はさほど意味を持たない。親鸞宗、いや親鸞は宗派など作ってはいない。親鸞教に帰依する者とでもしておきたい。
でも、ちょっと違うところがある。彼は、お念仏の人(浄土教の流れは全てそうである)であるとともに、道元禅師の禅の世界にも造詣が深く、坐禅の実践もされていることである。
ふつう、禅と念仏は相反するもののように思われているが、極めると(私なんぞ極めていませんが、インスピレーションで解るのです。w)同じところに行きつくのである。
あるとき、道元さんは「念仏を唱えているのは春の田んぼで、蛙が鳴いているようなもの」と言われた。(・・・とか、言われないとか。w)親鸞さんは「禅のような聖道門にあっては、なんぼやっても致し方ない」と言われた。(・・・とか、言われないとか。w) まあ、後世のたとえ話でしょうが・・・。
道元さんは親鸞さんより20年ぐらい後にお生まれになり、親鸞さんよりも10年ぐらい早く遷化されている。当時(12c~13c)と言えども53歳は早い。もう少し長く生きて頂きたかったと思う。
道元禅師の大本山・永平寺は隣町、私の家より車で30分もあれば楽に行ける。小学校の遠足に初めて参詣し、以来数えきれないほどに。勿論、少しばかりは坐禅も体験した。私は道元さんも親鸞さんも好きである。
そこで、お二人の共通点であるが、道元さんは、くりのみさん仰るところの「只管打座」つまり、ただ坐ることのみである。不立文字と言い、経典なども重要視はしない。
親鸞さんは「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 と喝破される。
つまり、ただ一つの道を一心に進まれたことは当に共通点である。更にはお二人の仏教の根本は「無我」にあることだ。
以前、くりのみさんとも話したのだが(先年、伊豆稲取で、くりのみさん主催の夏季ワーク:クリックしてみてね:に参加させて頂いた。)、道元さんは「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。」と言われている。私たちは如何に「自分が、自分が」と「が・我」から離れられないことか。(蛾から蝶にはなれぬものだよねぇ。w)
親鸞さんは、小賢しい人間の計らいを超えた仏の眼差しから見れば、自分は自我にとらわれて、何とあさましい存在なのか、と、改めて我(わ)が身を凝視された。この、我が計らいを超えた不可思議光のはたらきの中に我が生命(いのち)があるということへの、気づき、いや、気づかされである。結論として、「我」の否定なのだ。
先日、偶然あるブログを見た。「あるお寺の奥さんの・・・」なんて銘打ったものだった。「仏教によって如何に私が幸せになるか」的な、仏教とは対極的なことや、聞いたふうなことばかりを連ねている。「無我」どころか「有我」そのものだ。まあ、実名を書かないのはいいとして、せめて何処のどういう寺なのかぐらいはあってもよさそうなもの。都道府県は設定しない、コメントも受けないことになっていた。だったら「お寺の奥さんの」とは書かなければよいと思うのだが。私も、くりのみさんも、きちんと名を名乗っている。書いた内容にもそれなりの責任を持っているからである。
秋の夜長と言うにはちと早いが、最近感じていたことを記してみた。今宵はこれにて。
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今昔物語、枕草子など、じっくりと読めば読むほどに味わいがありますね。何分、浅学菲才、今後ともご指導賜りますよう宜しくお願い申しあげます。
前後しましたが、今昔より少し早い成立かと思いますが、「日本霊異記」も仏教説話が面白いのですが、なかなか読み熟すところまで行きません。残された人生、読みたいものばかりですが、間に合いそうもありません。
また、いつもコメントを頂き恐縮しております。ご教示いただきましたことなどは、今後に生かしたいと思っております。
ご自愛いただき、素敵な作品を続けていただきますよう期待しております。
本当に、あの頃が懐かしいです。婦人センターの常任講師として、前期、後期の午前、夜の講座など、私は40代でした。一番輝いていた頃かしら!?。婦人センターはもうありませんが、当時から今でも続いている自主サークルが一つあります。皆さん子育てから孫育ての年代ですが。(w)
「切に念う」、「念ずれば花ひらく」、よく覚えていて下さいました。それは、今もなお私の心の灯でもあります。それでは、どうぞよき日々をお過ごし下さいますよう念じます。どうも有難うございました。
先日は私の拙い話をお聞き下さいましてどうも有難うございました。
>「仏法は聴聞に極まる」。仰る通り、さすがです。いつも、貴方の感性と申しますか、豊かな情操に感じ入っております。それはやはり、ご両親をはじめ、環境(人的にも)の中より育まれてこられたのでしょうね。
また、お目に掛かれます日を楽しみにしております。どうぞいい秋をなさって下さいね。
いつも交流を頂きましてどうも有難うございます。ゆり様のブログは、なかなか読ませます。お人柄もよく伝わって参ります。何か共通するところや学ばせて頂くことも多くあり、有難く存じております。
さて、ブログは、、それぞれの書き方でいいのです。好みや価値観が違って当然です。匿名性の中で楽しまれるのも、それはそれで一向に構わないのです。件のブログは、啓発(啓蒙かもしれない)のつもりのようなので、私には極めて違和感がありました。コメントも受け取らないのも何だか・・・。
末筆になりましたが、「我以外皆我師也」、吉川英治の言葉ですね。けだし名言と思います。貴方も素晴らしい師と存じソロ。今後ともヨロシクです。
いつも交信(交心)を有難うございます。貴ブログ、ユーモアありペーソスありで、いつも楽しく拝読しております。
そうですねぇ。仏教思想は消えた訳ではないのですが、教団や宗派自体が、如何にあるべきかを問い直す時代ではないかと思います。仏教は一度(二度でも三度でも)釈尊に、或いは祖師に返るべきかと。
ブログは別に決まりがある訳ではありませんが、件のブログは敢えて「寺の奥さん」を標榜され、啓発の意味をもたれるのでしたら、そのくらいのことはマナーかと思います。そのようなブログを書いてる暇があったら境内や本堂のお掃除に精出されたら如何かと。
私の場合は何度か書いていますが、PCなど無かった(私には)時代から、「コミュニケルーム通信」と題して、四季報をワープロで作り(ワープロも出始めから3台(代))、勉強会や講座、或いは講演や研修を受講して下さる方々に送っておりました。その流れがこのブログです。勿論、今でも少部ですが、PCなどやらない方々には「コミュニケルーム短信」として紙印刷のものを送っています。それではまた。どうも有難うございました。
ある日、先生は道元禅師のお話をされ、「切に念(おも)うことは叶うなり」と仰いました。
この時初めて、「念」は思うことだと知りました。ずっと私の心の中に残っています。
また、ある時、坂村真民さんの詩、「念ずれば花ひらく」を紹介されたことがありました。それも
「念」という言葉でした。
講座の修了後、先生から受講生の私たちに頂戴いたしましたお手紙の中に「・・・念じており
ます。」と、したためて下さいました。今、先生のブログを拝読いたしまして、「念」は「お念仏」に
通じているのだと改めて思いました。それは「カウンセリングマインド」でもあるのですね。
本当に、たくさんの人たちが、センターで先生に学ばせて頂き、きっとそれぞれの心の中に、
懐かしい思い出とともに、大事なものが息づいていることと、思います。
先生、どうぞご自愛下さいますよう念じさせて頂き、尊いご縁を感謝申し上げます。
どうもありがとうございました。
心に入ります。実家の母がいつも申しておりました。「仏法は聴聞に極まる」の
言葉の通りですね。いつもお優しい先生が、大事なところは毅然となさってお話し
されます。皆さんの心が引き締まるひと時です。ほんの少しでも「我」が折れる思い
です。この秋の歎異抄のお話を、とても楽しみにさせて頂いております。
どうもありがとうございました。
色々勉強になりました。
きなこママさん、
>仏教思想が日本から消えたせいで(宗教として もう機能していない)日本人は迷っている気がしています。
神にしろ仏にしろ人間はそういう見えない力で律するようなことが必要ではと思います。
私など、県名も素性も明かさず…止めよう止めようと思いながら1年半ブログを続けてます。
只の主婦ですから人を導こうなんて思いませんから良いとは思うのですが(;^_^Aまた自意識過剰ではないですが(;^_^A
ブログ世界に入り、ブロ友さんに元気を頂いたり、学べることばかりで、「我以外皆師」でひたすら感謝です♡
色々考えさせられました。
yo さん ちゃんと名前を出されていて 立派です。
お寺の奥さん、
yo さんが 変に思われるくらいだから
きっと 自意識過剰なんでしょうよ。
ま ブログ書く人は そういうタイプ多いです。
仏教思想が日本から消えたせいで
(宗教として もう機能していない)
日本人は迷っている気がしています。