自分にとって、大事なことについて、じっくり考えました。
私にとって大事なことは、健康であること。自分を、家族を、周りの人たちを、楽に、そして丈夫にしたい。
そして、その現状ありのままで、活動すること。生活すること。生きていく営みをすること。
生きていくためには、自分で稼ぐか、家族に養ってもらうか、どこからかお金を引き出してくるか、しかありません。
今の私は何とか自分の稼ぎと各種福祉制度給付で、いわゆる労働者階級の地位と収入を確保しています。ありがたいことにアンダークラスではありません。しかしこれも偶然の幸運と努力のなせる技、だと思っています。
もちろん、生活保護レベルでも健康で文化的な生活をすることはできます。家族で生きていけることは、べてるの実践で実証済みです。自分の所属する団体の利用者さんたちにそのような方々が何人もいます。福祉のプロとして利用者さんの生活を体を張って支援し、家に帰れば自分や家族の生活を必死で生きています。だから、経済的に何とか手当する、ということは、自分にとっては大変プライオリティーの高いことです。
発達障害が治ればいい。もちろんそうです。定型発達と言わざるを得ない状態になれるのが一番いい。空気が自動的に読めて、自動的に周りを察して適切に配慮して言動できることが一番いい。今のように社会学習に基づいて人の空気読んで忖度して配慮して、というのはどうしてもぎこちない。間違いが多い。誤解も多い。苦労多くミス多く失敗多く、自分の体験によるとこれは「個性」ではなく「障害」です。
「治る」とは何なのでしょうか。私はすべての、障害者を含めて自らの困難と障壁に対峙する人間存在を尊敬します。治ろうが治るまいが。その人がどうであろうが、回復していくことは素晴らしいこと。治ったとか治ってないとか。自分の価値判断には関係ないと思いました。
逆に、医療が必要なのに周りの圧力で「治った」と宣言して福祉制度から離脱し、正規労働に就くことができず自分のこずかい程度の稼ぎしかなく、家族に依存せざるを得ない方々のことを、私は考えます。彼らは統計的には貧困層だけれども、それさえ自ら認められない認知状況にあり、医療を必要としているのに「治った」と言い、「愛国者は国に負担をかけない」と言って「健康で文化的な生活」を犠牲にすることを自ら選び、生活保護以下の生活を勇ましく生きている当事者もいます。
彼らの自己選択を尊重するわけですが、私は貧困問題を発祥とするソーシャルワーカーの端くれとして、何とか彼らの心理的障壁を低くして、生活を少し楽にして余裕を作り、しっかり病気を治してもっと自由に生きれるように、営利法人ではなく社会福祉法人だからこそできる多少採算を度外視した支援を考えるものです。
いろいろやりました。精一杯のことをしました。今の私はだれがどう見ても精神症状はありません。しかし発達障害傾向は簡単には治らない、治る道筋もありません。成功している発達障碍者は定型発達に「治る」なるのではなく、自分の凸凹を利用し環境とも非常にマッチすることのできた人たちだと感じています。
これからもできる限りの努力はし続けると思います。あきらめはしません。
しかしここらで「脳の特性と発達の凸凹があるという現実を踏まえて、あるがままの自分を見据えて、現在の状況でできること、継続できることに挑戦する」という路線を確固とするものとしたい、と思うに至りました。
今まで自分に対して無理を強いてきたことを認め、受けられる援助はすべて受け、配慮はありがたく頂戴することにしました。そうやって、これからも何としてでも生活を維持すると。覚悟しました。
自分も「降りていく生き方」となりました。自分もどうしようなくな弱くなり、ようやく障害の仲間たちに仲間と認められるのかなあと思いました。
近々、ブログのタイトルを「現実を踏まえ、あるがままを認め、できることを精一杯行う」という方向性のものに変更します。自分の弱さの情報公開をするワーカーとして恥じないよう、生きていきます。
※追記…ブログタイトルはむしろふさわしいと思われたので、変更していません。