ひょんなことから、アドリブで、多動な子供さんの相手をした。
公共の場で、好きにはしゃがせることは、不適切な場面。
もちろん、しかりつけるなど、不適切極まりない。
ぐずりたそうな子供さん本人の気持ちもあるが、公共の場で、様々な人たちの「気持ち」も、配慮しなければならない。
かつて培った杵柄が、効を奏した。
私は笑うのではなく、怒るのでもなく、
子供さんと多少距離を取りつつ、お母さんのところに行くよう促すと、
多動でぐずりたい子供さんは、従ってくれた。
時々、かつて培った介護職経験が、福祉以外の仕事をしていても役に立つことがある。
そういうことがあると、「もったいないのでは」と思ったりもする。
今の自分は、若かりし頃、必死に習得した「技術」を、ほとんど活かしていない。
しかしながら、やはり、私の感覚は独特で、同調性を強く求める人たちと摩擦が生じるのだ。
同調圧力の強い日本社会に「多様性」など、ない。
私の独特の体感は、「自閉症」という言葉で説明できる。
しかし「自閉症」の「症状」は様々。
私のように社会秩序を強く求める人もいれば、
ブリミッティプで「マイルール」に固執する障害当事者もいる。
やはり、「こういう行動は、自閉症という言葉で説明できる」はあっても、
「自閉症診断ある人の、次の行動が予測できる」は、ない。
人は多様だから。
診断名が同じでも、そもそも精神科の診断基準は医者個人の主観だから、
診断基準が自然科学ではなく社会科学、または政治学指標、なのだ。
人によって氏も育ちも千差万別。何一つ同じではない。
診断名で人間行動を予知できるとか、平気で言う自称専門家が福祉方面にはいるが、
医者たちが言うように福祉系の人たちの専門知識は怪しいと感じることがままある。
そういうでたらめな理論を専門家から振りかざされると、私はもう、いやになる。精神症状が出現する。
離れるしかない。人と接する仕事はリスクが高すぎるように感じる。
パワハラ上司やお局様、カスハラ客などとは、距離を取れることが、今の私には何よりも大事。
となると、今のポジション取りは妥当だと感じる。