(9月22日)
昨日の投稿(=9月21日、神話学 生と調理 4)で原文19頁の引用がすっかり抜けていた。幾度か再編集を試みてもなぜか原文(フランス語)のみ反映されない。その部分を本日、再投稿し、幾行かの解説を加えた。
<A l'hypothese d'un entendement universel, il prefere l'pbservation empirique d'entendements collectifs dont les proprietes lui sont manifestes par d'innombrables systems concrets de representation>
訳の方は前投稿に載っているのだが付け加えます。
拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの仮説をもとにして、彼(レヴィストロース)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中にその(entendementの)特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。
なぜこの一文を再投稿したかというと、これこそレヴィストロース構造主義を理解するに最重要と信じるので。少し長くなりますが解説します。
entendementは白水社大辞典で一義に「理解力」と出てきます。頼みのRobert(petit)では「faculte de comprendre」これは前者と同じ。二義に「fonction de l’esprit qui consiste a relier les sensations a systeme coherent=カントの用法」とあります。投稿子はここではまず一義をとり、投稿子の独自解釈でその訳を「考える力」とします。
デカルトは考える(penser)、考えたらこうなった(raison)の2元のみを語ります。考えるに至らせる理性の押し、あるいは力 (悟性と言うらしい) は「神から授かった」から言及する用意などさらさら持たない。無神論者のレヴィストロースには、困ったときの「神頼み」のカードは配られない。しかし、未開(とされる)民族は文明人と思考の仕組みを共有すると論じているから、その仕組みを証明しなければならない。錦の御旗「idee対existence(思想VS存在)」なる構造主義は「悲しき熱帯」および「親族の基本構造」で立ち上げられたが、サルトルなんかの予期せぬ「外野」には評判がイマイチだった。(歴史性に欠ける、思弁に流れているとか=4回目の投稿9月21日を御参照)しかし表看板「idee対existence」に修整を加えたら、構造主義の根幹で妥協してしまうからありえない。そこでカントentendementを持ち出してきた。疑われまくりの「対立する構造」を、レヴィストロースは畢竟の奥の手、カントで安堵させた。
上記の辞書robertでのentendementの二義fonction de l’esprit ...にもどります。
訳を試みると「覚知した感性を、整合する思考体系に結びつける精神機能」。これはまさに「カオスを見つめて秩序を理解する」構造主義の方法論に結びつく。これを打ち出せば、実存主義者の小うるささを一瞬にして沈黙に押し潰すにつながる!それに気付いて尊師レビストロースは歓声を上げただろうか。
未開人と西洋人は、考える力はuniverselで同一、考えた結果の様態が幾分異なるだけだ(例えば病気になって呪術で悪魔を払う治療対西洋の診察と病名、治療の医学)。
考える至る過程は構造主義で解明できる、その考えを生み出す力とは未開人も西洋人もカントが教えるentendementだと伝えている訳です。

写真はハゲワシ(Urubu)Bororo族の神話で重要な地位を占めます(作者の著作から)
補)レヴィストロースは1985年に来日しての講演で「私は根っからのカント主義者」と語っている。サルトルなどをヤッつける為にカントを持ち出したとの印象を拙文から受けたら投稿子(蕃神ハガミ)文意の至らなさです。
昨日の投稿(=9月21日、神話学 生と調理 4)で原文19頁の引用がすっかり抜けていた。幾度か再編集を試みてもなぜか原文(フランス語)のみ反映されない。その部分を本日、再投稿し、幾行かの解説を加えた。
<A l'hypothese d'un entendement universel, il prefere l'pbservation empirique d'entendements collectifs dont les proprietes lui sont manifestes par d'innombrables systems concrets de representation>
訳の方は前投稿に載っているのだが付け加えます。
拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの仮説をもとにして、彼(レヴィストロース)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中にその(entendementの)特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。
なぜこの一文を再投稿したかというと、これこそレヴィストロース構造主義を理解するに最重要と信じるので。少し長くなりますが解説します。
entendementは白水社大辞典で一義に「理解力」と出てきます。頼みのRobert(petit)では「faculte de comprendre」これは前者と同じ。二義に「fonction de l’esprit qui consiste a relier les sensations a systeme coherent=カントの用法」とあります。投稿子はここではまず一義をとり、投稿子の独自解釈でその訳を「考える力」とします。
デカルトは考える(penser)、考えたらこうなった(raison)の2元のみを語ります。考えるに至らせる理性の押し、あるいは力 (悟性と言うらしい) は「神から授かった」から言及する用意などさらさら持たない。無神論者のレヴィストロースには、困ったときの「神頼み」のカードは配られない。しかし、未開(とされる)民族は文明人と思考の仕組みを共有すると論じているから、その仕組みを証明しなければならない。錦の御旗「idee対existence(思想VS存在)」なる構造主義は「悲しき熱帯」および「親族の基本構造」で立ち上げられたが、サルトルなんかの予期せぬ「外野」には評判がイマイチだった。(歴史性に欠ける、思弁に流れているとか=4回目の投稿9月21日を御参照)しかし表看板「idee対existence」に修整を加えたら、構造主義の根幹で妥協してしまうからありえない。そこでカントentendementを持ち出してきた。疑われまくりの「対立する構造」を、レヴィストロースは畢竟の奥の手、カントで安堵させた。
上記の辞書robertでのentendementの二義fonction de l’esprit ...にもどります。
訳を試みると「覚知した感性を、整合する思考体系に結びつける精神機能」。これはまさに「カオスを見つめて秩序を理解する」構造主義の方法論に結びつく。これを打ち出せば、実存主義者の小うるささを一瞬にして沈黙に押し潰すにつながる!それに気付いて尊師レビストロースは歓声を上げただろうか。
未開人と西洋人は、考える力はuniverselで同一、考えた結果の様態が幾分異なるだけだ(例えば病気になって呪術で悪魔を払う治療対西洋の診察と病名、治療の医学)。
考える至る過程は構造主義で解明できる、その考えを生み出す力とは未開人も西洋人もカントが教えるentendementだと伝えている訳です。

写真はハゲワシ(Urubu)Bororo族の神話で重要な地位を占めます(作者の著作から)
補)レヴィストロースは1985年に来日しての講演で「私は根っからのカント主義者」と語っている。サルトルなどをヤッつける為にカントを持ち出したとの印象を拙文から受けたら投稿子(蕃神ハガミ)文意の至らなさです。