蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レビストロースを読む 神話学 生と調理 4 

2017年09月21日 | 小説
はじめに:当投稿は原文(フランス語)を引用しながら、その訳を通してレビストロースの思想に迫ります、しかし原文の引用が投稿に反映されていません。とりあえず不完全ながら4回目を再投稿します。(本日12時30分に投稿して発覚、削除していました)

(2017年9月21日)

前回までは神話学をでは「頭をどのように回転させるか」の課題を説明している。要約すると雑多なカオスの中から秩序を見いだし、「精神活動の基本」を見抜くのが構造主義の狙いであると。そして説明の殿軍にカントを引用している(ouverture P18~19)。引用すると、
<En se laissant guider par la recherche des contraintes mentales, notre problematique rejoin celle du kantisme="後略">
文列のなかで解釈に頭を捻る=contraintes mentales=が難関。直訳すれば=メンタルな強制=これは何の事やら分からない。投稿子(蕃神ハガミ)は“考え方の基準“をひねり出した。そして次の語”problematique”が同様に難しいけれど「成就するかは不明な取り組み」とすれば上記引用は;
拙訳;<考え方の基準に導かれるままに思考をゆだねると、私の取り組みは成就するかは未だ不明ながらもカントにたどり着く>

その能力を持ち合わせないので投稿子はカント哲学を語らない。ただ「認識は主観の所与を秩序として見分けできる事によって成立する=広辞苑」を引用するのみ。だがこれで何となく分かった(気を覚える)。さらに先ほどのcontraintes mentalesをentendements(理解する力、カントの用語でもある)と結びつければ、(錯覚かも知れぬが)なお理解が進む。

引用を続ける;
拙訳;いわゆる民族学者とは(レヴィストロース自身のこと)は省察するに一定の基準をとって、己の説や主張を、一種の「思考する力」に敷衍するとは強制されていない。いわゆる哲学者(カントのこと)とは異なるのはその点である。ここは前提で、レヴィストロースはかなりへりくだっている。次行がより重要、<>(P19)

拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの仮説をもとにして(なにしろカントが言ってる)、彼(民族学者を受けるがレヴィストロースのこと)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中に、その特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。
=どんな民族にあっても考える力は普遍なので、婚姻の仕組みや贈答しきたりなどが似通う理由はその普遍に立脚している(=親族の基本構造で論証)。その手順で神話を解析するとの宣言である。

雑誌Magazine litteraireに掲載されたレビストロースの論文(1985年12月号)表題は「哲学者の役目」顔写真の左側にサルトルへの言及が読める。「彼には多大な尊敬を抱いているが、面と向かって図らずも論争してしまった。彼の考えが科学の思考に背をむけているからである」と書かれている。尊師の御歳77歳。


神話学の論証の根底にカントのentendementを位置づけた背景とは、当時のレヴィストロースに降りかかった批判への回答である。悲しき熱帯の成功の後に、彼は2のグループから批判された。
その1はサルトルを筆頭とする「実存」主義者。
存在=existence=が思考に先立つという実存主義は、「思考と存在は対立するが相互依存だ」とする構造主義と両立しない。しかしサルトルが主に批判したのは「非歴史性」である。なぜ「存在と思考」という西洋伝統の哲学論争に入らなかったかを推察すると、当時(1960年代)のサルトルはengagemant=作家の政治闘争=に力を入れており、「政治と歴史」に論評を重ねていた。こちらの側面から構造主義を批判したと投稿子は観察している。
もう一派はプラグマティズム系の実証主義民族学者である。北米を中心としていた。レヴィストロースが伝える人類学は思弁的、観念的に過ぎると。

レヴィストロースは構造主義の骨格を「悲しき熱帯」から一部変更した。
時間の余裕ある読者は投稿子の過去分「猿でも分かる構造主義」にブラウザしてください。悲しき熱帯でレヴィストロースが論じた構造主義を取り上げています。それは純粋に「イデー=思考」対「存在=existence」が美しく対立する簡素な図式でした。その世界は「膨張しない宇宙」みたいで時間が流れません。サルトルはその「完結性」「非時間性」を突きました。
生と調理=Le cru et le cuitでは思考(表象)と存在を対立させているのですが、その根底に普遍のentendement、思考する力を持ち出してきました。それによって思考(調理)と生(存在)の対立の様が自立的に変遷する考えました。ただし、その対立式を普遍として考えているentendementは変わらないとも。この論法で同時に民族学での実証主義派へも返答しました。

(2017年9月21日)
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