(表題第一回投稿 2017年 9月13日)
レビストロースの構造主義への理解を深めたく、昨年(2016年)10月以来その著作を継続し読んでいます。最初に取りかかった「悲しき熱帯」TristesTropiquesについては当ブログにて読後の感想を投稿しました(2017年4月5日~5月1日=「猿でも分かる構造主義」、および「猿でも構造、悲しき熱帯」を読む5月~7月)。投稿カレンダーから溯って照会してください。
しかし、多くの方は過去ブログを開くゆとりは持ち合わせていないと推察します。それらの趣旨を紹介すると;
1 構造主義が伝える構造とは主体と客体の相互依存関係です。すなわち思考(主体)と物(客体)を水平に対峙させる。この2者は対立し=oppositionかつ相互に依存する=reciprocite関係にある。単なる構造機能論(例えばタテ社会の構造と言った分析論)とは異なります。
(上記の解説:デカルトは思考が絶対とした。対象=物を上から見下ろす視線を持った。物を要素(elements)に分解して本質(substance)に肉薄する。神から授かった「思考」なのだから、物の本質を曝くのは必ず可能だ、なぜなら物とは全て神の被創造物だから)
2 思考と物の対峙構造に気付くには、自然と芸術を思いをはせればよい。人が目にする周囲とは、色と形態の雑然とした混乱にある、音であれば自然とは雑音、不協和音の重なりでしかない。芸術家はその混乱から秩序、美を抜き出し作品(絵画、音楽、詩)とする。作品にまとめる過程とは、まず己の頭に秩序だった「思考」を持たなくてはならない。自身がはぐくむ思考=美を周囲の混乱から抜き取り、キャンパスや五線譜に再現する過程が芸術家の創造である(=メルロポンティ)。
(解説:レヴィストロースはメルロポンティの「知覚の現象学」を大いに参考にしている。特に生体解剖するかのデカルト的、上から分析する視線を否定し、周囲(メルロポンティはchampフィールドと語る)を水平に見つめる観察手法を取り入れている。
一方、メルロポンティは「秩序はあくまで周囲、無秩序に内包されている」と語る。美も混乱も物なので、これらは神の創造物。神は対立など創造しないから、周囲の中に美も混乱も漫然と同居(coexistance)している。メルロポンティは敬けんなカソリック教徒、彼ならではの論考であろう)
(写真の二冊は悲しき熱帯左と生と調理、裏表紙に45F(フラン)とあった。1フラン72円の固定レートの換算で3200円ほど。当時私は高校生で、母親から月に1000円を貰っていた)
3 これに対して無神論のレヴィストロースは、この世を混乱と秩序に対立に分けた。秩序は思考、芸術、社会制度、結婚制度、服飾などに表されている。混乱は行動、上下区別を知らない社会制度、近親婚、反乱、殺戮など。これらの対比、相克、破壊創造、放浪と復帰がBororo族を始めとする南米(マトグロッソおよびアマゾニア)原住民族の神話の主題となっている。原住民族の200弱の神話群を、構造主義を駆使して、レヴィストロースが神話学としてまとめた。それが「生と調理」(LecruetLecuit)である。
悲しき熱帯を読み終えたのが本年(2017)5月だった。流れとして野生のスミレ(PenseesSauvages)に挑戦したが、なぜか関心を呼び起こさなかった。多くが民族誌的な記述である。例えばトロブリアンド諸島での贈り物交換の制度(Kulaと言うらしい)の意義などが長く続くのだが、投稿子(蕃神ハガミ)には読み切れない。そこで一気に神話学に挑戦した。手始めにと邦字で紹介している書冊を手にしたが、何のことやらさっぱりつかめない。おそらく投稿子の頭回転の錆びつき塩梅に問題があるのだろう。あるいはそれら著者がレヴィストロースの神話学を語るのではなく、自身の「神話観」を述べているせいかもしれない。そこで一気に原本に取りかかった。手に入れた版はPlon出版、奥付がないから年月は分からないが、最終頁に1963年6月の年月があった、校了年月を教えている。
読み始めて3月、読了したが、非常に分かりやすい。文の構成は哲学用語で受け取る修辞法が頻繁に現れる。これが本論で難しいが長くは続かない。本論をプロトコルがうける。これは「批判が出る筈だ。前もって予想して答えておこう」、言い訳ととれる。「悲しき熱帯」の反響は賛否両論だった。大御所(サルトルなど)からの批判、否定にレヴィストロースは苦しんだから、予防処置。
本論はしっかり読んで、特に修辞法(言い換え)が出てくると、その語を辞書Robertなどでしっかり解析して、自分なりに辻褄を合わせ次節に進む。辻褄の拠り所が上記1~3の構造主義解釈である。
次回から解説に入る。
(2017年 9月13日、第二回は9月15日を予定)
レビストロースの構造主義への理解を深めたく、昨年(2016年)10月以来その著作を継続し読んでいます。最初に取りかかった「悲しき熱帯」TristesTropiquesについては当ブログにて読後の感想を投稿しました(2017年4月5日~5月1日=「猿でも分かる構造主義」、および「猿でも構造、悲しき熱帯」を読む5月~7月)。投稿カレンダーから溯って照会してください。
しかし、多くの方は過去ブログを開くゆとりは持ち合わせていないと推察します。それらの趣旨を紹介すると;
1 構造主義が伝える構造とは主体と客体の相互依存関係です。すなわち思考(主体)と物(客体)を水平に対峙させる。この2者は対立し=oppositionかつ相互に依存する=reciprocite関係にある。単なる構造機能論(例えばタテ社会の構造と言った分析論)とは異なります。
(上記の解説:デカルトは思考が絶対とした。対象=物を上から見下ろす視線を持った。物を要素(elements)に分解して本質(substance)に肉薄する。神から授かった「思考」なのだから、物の本質を曝くのは必ず可能だ、なぜなら物とは全て神の被創造物だから)
2 思考と物の対峙構造に気付くには、自然と芸術を思いをはせればよい。人が目にする周囲とは、色と形態の雑然とした混乱にある、音であれば自然とは雑音、不協和音の重なりでしかない。芸術家はその混乱から秩序、美を抜き出し作品(絵画、音楽、詩)とする。作品にまとめる過程とは、まず己の頭に秩序だった「思考」を持たなくてはならない。自身がはぐくむ思考=美を周囲の混乱から抜き取り、キャンパスや五線譜に再現する過程が芸術家の創造である(=メルロポンティ)。
(解説:レヴィストロースはメルロポンティの「知覚の現象学」を大いに参考にしている。特に生体解剖するかのデカルト的、上から分析する視線を否定し、周囲(メルロポンティはchampフィールドと語る)を水平に見つめる観察手法を取り入れている。
一方、メルロポンティは「秩序はあくまで周囲、無秩序に内包されている」と語る。美も混乱も物なので、これらは神の創造物。神は対立など創造しないから、周囲の中に美も混乱も漫然と同居(coexistance)している。メルロポンティは敬けんなカソリック教徒、彼ならではの論考であろう)
(写真の二冊は悲しき熱帯左と生と調理、裏表紙に45F(フラン)とあった。1フラン72円の固定レートの換算で3200円ほど。当時私は高校生で、母親から月に1000円を貰っていた)
3 これに対して無神論のレヴィストロースは、この世を混乱と秩序に対立に分けた。秩序は思考、芸術、社会制度、結婚制度、服飾などに表されている。混乱は行動、上下区別を知らない社会制度、近親婚、反乱、殺戮など。これらの対比、相克、破壊創造、放浪と復帰がBororo族を始めとする南米(マトグロッソおよびアマゾニア)原住民族の神話の主題となっている。原住民族の200弱の神話群を、構造主義を駆使して、レヴィストロースが神話学としてまとめた。それが「生と調理」(LecruetLecuit)である。
悲しき熱帯を読み終えたのが本年(2017)5月だった。流れとして野生のスミレ(PenseesSauvages)に挑戦したが、なぜか関心を呼び起こさなかった。多くが民族誌的な記述である。例えばトロブリアンド諸島での贈り物交換の制度(Kulaと言うらしい)の意義などが長く続くのだが、投稿子(蕃神ハガミ)には読み切れない。そこで一気に神話学に挑戦した。手始めにと邦字で紹介している書冊を手にしたが、何のことやらさっぱりつかめない。おそらく投稿子の頭回転の錆びつき塩梅に問題があるのだろう。あるいはそれら著者がレヴィストロースの神話学を語るのではなく、自身の「神話観」を述べているせいかもしれない。そこで一気に原本に取りかかった。手に入れた版はPlon出版、奥付がないから年月は分からないが、最終頁に1963年6月の年月があった、校了年月を教えている。
読み始めて3月、読了したが、非常に分かりやすい。文の構成は哲学用語で受け取る修辞法が頻繁に現れる。これが本論で難しいが長くは続かない。本論をプロトコルがうける。これは「批判が出る筈だ。前もって予想して答えておこう」、言い訳ととれる。「悲しき熱帯」の反響は賛否両論だった。大御所(サルトルなど)からの批判、否定にレヴィストロースは苦しんだから、予防処置。
本論はしっかり読んで、特に修辞法(言い換え)が出てくると、その語を辞書Robertなどでしっかり解析して、自分なりに辻褄を合わせ次節に進む。辻褄の拠り所が上記1~3の構造主義解釈である。
次回から解説に入る。
(2017年 9月13日、第二回は9月15日を予定)