(2017年9月18日)
前回の<混乱カオスの世界だが見つめることで秩序が見えてくる>を続けます。
<il s’agit de dresser un inventaire des enceintes mentales, de reduire des donnes apparemment arbitraries a un ordre, de rejoindre un niveau ou une necessite se releve, immanente aux illusions de la liberte>(ouverture P18)
拙訳:心の中で知っているだけの事柄の在庫目録を立ち上げる。するとこれらの事象明らかに気ままに見えているのだが、うまく整理すれば、ある種の必要性が基準なるものの上で立ち上がり、その基準に「自由であるとの幻想」を結びつけられる。
読者皆様にはフランス語を理解する方も多いと存じます。< >を原文で読めば簡潔。しかし日本語にするとワケが見えない「クセジュ文庫」的になっている。この段は「生と調理」さらに構造神話学の方法論を理解するキモとなります。
取りまとめるコツは文言を「秩序=イデー」側と「混乱=forme、見える形」側とに区別するに尽きます。それは;
<知識の在庫は目録のみで整理されていないから(混乱)状態。それらを一見するとarbitraire(気まま)がまず見える。見ただけでは混乱と判断してしまう。しかし上手いやり方で整理すればそこに秩序=ordre=が隠れるとわかる。そのやり方とはune necessiteある必要性が、ある基準(un niveau)に沿って立ち上がり、「自由であるとの幻想」と結びつければ、知識の在庫の混乱状態が解決される。
若干の寄り道ながら「自由の幻想」について;
自由を論じた哲学者はデカルトです。libre arbitreとは自由意志の意で何にも制約を受けない、あらゆる事に自由である神に近づく状態です。レヴィストロースがここで「自由の幻想」と記するとは、その様な自由は無いと全否定している訳です。自由な思考行動はillusions幻想にすぎないと片付けています。
それを曝くには必要性(necessite)と基準(niveau)が必要。それらを打ち上げられれば「気まま、無秩序の極み」に秩序に終止符を立て神話が解析できる。
構造主義とは縁のない写真をご容赦。陋屋は丘の中腹、少々足を伸ばし見晴らし点に立つ。近景は旭が丘、遠景は久しぶりに姿を現した山の連なり、中央やや左に三頭山、その右に大岳、そして雲取。
P18を続けます。
<Derriere la contingence superficielle et la diversite incoherante, des regles de marriage, dans 「les structure elementaires de la parente」,un petite nombre de principles simples, au premier abord absurdes, etaient ramenes a un systeme significant>
拙訳:例えば結婚の行動など表面上は偶然、辻褄が合わない行動にしても、一見して(そんな解釈は)absurde不条理(=カミユ、サルトルの用語。サルトルとの論争は続いていた)とされるだけだけれど、背後に幾つかの原理が見え隠れしている。そして偶然なる行動が意味深い一つのシステムに統合され、秩序が見えてくる。
「les structure…」はレヴィストロース著の「親族の基本構造」。その成果に言及すると;
イトコ婚は世界各地で見られる。イトコ婚でも交差イトコと分類される仕組みが圧倒的に多い。交差とは父親の姉妹の子、あるいは母親の兄弟の子のイトコ。その風習を持つ民族は交差イトコを「イトコ」と呼び、平行イトコ(父の兄弟、母の姉妹の子どうし)を「兄弟姉妹」と呼ぶ。平行イトコ婚は、兄弟姉妹の間だから近親婚として禁止されている。財産が男系で相続される民族で男系の平行イトコが結婚すると富が集中する。母親と姉妹系統には相続が無く財産が偏在する。偏在、不安定を避けるための制度で、制度のみならず言語、居住形態、男女の役割分担、通過儀礼など多岐の実例を上げて「交差イトコ婚と富の交換」を証明した。
一方で、その様な部族で交差イトコの結婚が、あまねく実行されているわけではない。禁止の近親婚こそ避けるけれど、イトコ以外の結婚は頻繁である。婚姻と財産の移動の原則は「contingence superficielle=表面上の偶然」の背後に潜む、かくあれと願う秩序として解明した。彼がが論証したのは交差イトコ婚ではなく、婚姻のイデー、思想である。
次の文節に移る。同じく18頁で
<plus decisive sera donc l’experience sur la mythologie. Celle-ci n’a pas de function pratique evidente; a l’enverse des phnomenes precedemment examines>
拙訳:神話学とはより決定的である必要にせまられる。なぜなら、神話には(社会への関与で)直接的でもなく、明確性も持たない。前回(イトコ婚の分析)とは大きくことなっている。
そして論証する拠り所、「必要性」と「基準」を展開するなかであの「カント」が出てくるのだ。(第3回の了)
(過去投稿は2017年 9月13、15日)
補遺;本日は台風一過、投稿子は多摩(日野市)の陋屋にて雨露を凌いでおります。今朝は西の遠方に霞む三頭山、大岳(多摩の山岳)まで抜けた空の青さが見事です。本年最後であろう暑さを汗で耐え本投稿に至った。
前回の<混乱カオスの世界だが見つめることで秩序が見えてくる>を続けます。
<il s’agit de dresser un inventaire des enceintes mentales, de reduire des donnes apparemment arbitraries a un ordre, de rejoindre un niveau ou une necessite se releve, immanente aux illusions de la liberte>(ouverture P18)
拙訳:心の中で知っているだけの事柄の在庫目録を立ち上げる。するとこれらの事象明らかに気ままに見えているのだが、うまく整理すれば、ある種の必要性が基準なるものの上で立ち上がり、その基準に「自由であるとの幻想」を結びつけられる。
読者皆様にはフランス語を理解する方も多いと存じます。< >を原文で読めば簡潔。しかし日本語にするとワケが見えない「クセジュ文庫」的になっている。この段は「生と調理」さらに構造神話学の方法論を理解するキモとなります。
取りまとめるコツは文言を「秩序=イデー」側と「混乱=forme、見える形」側とに区別するに尽きます。それは;
<知識の在庫は目録のみで整理されていないから(混乱)状態。それらを一見するとarbitraire(気まま)がまず見える。見ただけでは混乱と判断してしまう。しかし上手いやり方で整理すればそこに秩序=ordre=が隠れるとわかる。そのやり方とはune necessiteある必要性が、ある基準(un niveau)に沿って立ち上がり、「自由であるとの幻想」と結びつければ、知識の在庫の混乱状態が解決される。
若干の寄り道ながら「自由の幻想」について;
自由を論じた哲学者はデカルトです。libre arbitreとは自由意志の意で何にも制約を受けない、あらゆる事に自由である神に近づく状態です。レヴィストロースがここで「自由の幻想」と記するとは、その様な自由は無いと全否定している訳です。自由な思考行動はillusions幻想にすぎないと片付けています。
それを曝くには必要性(necessite)と基準(niveau)が必要。それらを打ち上げられれば「気まま、無秩序の極み」に秩序に終止符を立て神話が解析できる。
構造主義とは縁のない写真をご容赦。陋屋は丘の中腹、少々足を伸ばし見晴らし点に立つ。近景は旭が丘、遠景は久しぶりに姿を現した山の連なり、中央やや左に三頭山、その右に大岳、そして雲取。
P18を続けます。
<Derriere la contingence superficielle et la diversite incoherante, des regles de marriage, dans 「les structure elementaires de la parente」,un petite nombre de principles simples, au premier abord absurdes, etaient ramenes a un systeme significant>
拙訳:例えば結婚の行動など表面上は偶然、辻褄が合わない行動にしても、一見して(そんな解釈は)absurde不条理(=カミユ、サルトルの用語。サルトルとの論争は続いていた)とされるだけだけれど、背後に幾つかの原理が見え隠れしている。そして偶然なる行動が意味深い一つのシステムに統合され、秩序が見えてくる。
「les structure…」はレヴィストロース著の「親族の基本構造」。その成果に言及すると;
イトコ婚は世界各地で見られる。イトコ婚でも交差イトコと分類される仕組みが圧倒的に多い。交差とは父親の姉妹の子、あるいは母親の兄弟の子のイトコ。その風習を持つ民族は交差イトコを「イトコ」と呼び、平行イトコ(父の兄弟、母の姉妹の子どうし)を「兄弟姉妹」と呼ぶ。平行イトコ婚は、兄弟姉妹の間だから近親婚として禁止されている。財産が男系で相続される民族で男系の平行イトコが結婚すると富が集中する。母親と姉妹系統には相続が無く財産が偏在する。偏在、不安定を避けるための制度で、制度のみならず言語、居住形態、男女の役割分担、通過儀礼など多岐の実例を上げて「交差イトコ婚と富の交換」を証明した。
一方で、その様な部族で交差イトコの結婚が、あまねく実行されているわけではない。禁止の近親婚こそ避けるけれど、イトコ以外の結婚は頻繁である。婚姻と財産の移動の原則は「contingence superficielle=表面上の偶然」の背後に潜む、かくあれと願う秩序として解明した。彼がが論証したのは交差イトコ婚ではなく、婚姻のイデー、思想である。
次の文節に移る。同じく18頁で
<plus decisive sera donc l’experience sur la mythologie. Celle-ci n’a pas de function pratique evidente; a l’enverse des phnomenes precedemment examines>
拙訳:神話学とはより決定的である必要にせまられる。なぜなら、神話には(社会への関与で)直接的でもなく、明確性も持たない。前回(イトコ婚の分析)とは大きくことなっている。
そして論証する拠り所、「必要性」と「基準」を展開するなかであの「カント」が出てくるのだ。(第3回の了)
(過去投稿は2017年 9月13、15日)
補遺;本日は台風一過、投稿子は多摩(日野市)の陋屋にて雨露を凌いでおります。今朝は西の遠方に霞む三頭山、大岳(多摩の山岳)まで抜けた空の青さが見事です。本年最後であろう暑さを汗で耐え本投稿に至った。