(9月13日)
午前の仕事をかたづけてちょうどお昼、飯にすると事務所を出たK氏と同僚の一行は4人、降り立った街路はJR豊田イオンモールの横。昼飯の選択であれやこれかに話の華も開くのだが、K氏はカツ丼を譲らない。毎日カツ丼だと主張する。
配膳されたカツ丼の、指先もおもむろに、蓋を開けての湯気霞、沸き立ちあがるその香りに鼻先出して一息吸い込む。その安心感が
「カツ丼の自由、生きる証明なのだ」と説明した。
カツ丼自由が命の担保となるのか。「自由の名」でカツ丼を選ぶK氏に対して投稿子は向き直った。
「それは自由とは言えない」思わぬ否定は投稿子から、K氏は腹の底から反論した。
「老人の数少ない願いを叶えようとする行動なのだ、それを自由ではないと。なぜだ」
写真:K氏は天丼からは生きる証を得られない。しかし天丼がこれほどにも存在性を主張すれば、食う楽しみにはなりうる(写真はネットから)
自由とは仏語liberte,あるいは英語libertyの和訳である。訳者は福沢諭吉、著作「西洋事情」に初めて出てくる(らしい)。一方、すでに漢語の「自由」は使われていて本来の自由に福沢がliberteをひも付けしたとの説明を目にした(Wikipedia)。角川大字源には1気まま思うまま(漢文の引用が続く)2(哲)他から拘束を受けずに自身の意志によって行動できること、2の義を伝える。1が明治以前から使われている自由で2の(哲=哲学)は福沢の導入した「西洋」の自由と定義しても道理にかなうだろう。
そしてここでの留意は1と2は、その意味されるところ、すなわちレヴィストロースの語る言葉に対する「思想」であるが、そこに大きな落差が認められる点にある。このあたりは後に説明する。
西洋で初めてliberte自由を語ったのはデカルト(Descartes)とされる。それ以前には自由なる語は(ラテン語に)あったとしても、行動としてはなかった。すべてが「神の意志」なので人は疑う、考える、追求する余地などない。耶蘇は人が考えるなどを禁じていた。
ではデカルトの自由の追求に挑戦してみよう。ググってみると;
(サイト名はPHILOPHORE、主宰Eric Chevet, Le doute et liberte chez Descartesなる頁を見つけた)
<<Le doute atteste d’une « faculté positive » que Descartes nomme le libre-arbitre (ou liberté d’indifférence):
こうした思索過程(le doute)はデカルトが自由意志(libre arbitre)と呼ぶ実在する力(faculte positive)に裏うちされるものである。自由意志は無関心の自由(libre d’indifference)でもある。
引用はないが前段でchevet氏はvolonteを解説している。これを意志と訳す。疑いの思考の中に、人には意志(volonte)と力(capacite)が備わる。デカルト的2元論に当てはめれば、意志は(考える)となり、力はfaculte positive(実在する)ので本質である。その本質は行動する、選択する力なのである。人はこの能力を持つのだ。それが自由意志で、無関心なる自由でもあるとしている。
さて、Indifferenceを無関心と訳したのでワケが分からなくなる。これを(一方に)与しない選択とすれば、投稿子にも概念が掴めてきそうだ。先入観、前判断、偏見などに惑わされない(=これがindifference)で選択するのが自由意志(libre arbitre)なのだとデカルトが語った。
選択は必ず二者択一である。AかBか。比べるまでもなくAよりBが良い、それならBを選ぶ。この思考過程にはA,Bの価値の善し悪しを判断しているという前提が潜り込んでいる。それ故、自由から遠ざかっている。そうした過程で選択をした者は、Bの僕(シモベ)であると批判できよう。
ではMeditationsから。
<< Pour le libre arbitre, je désire que l’on remarque que l’Indifférence me semble signifier cet état dans lequel la volonté se trouve lors qu’elle n’est point portée, par la connaissance de ce qui est vrai ou de ce qui est bon à suivre un parti plutôt que l’autre=後略
拙訳:自由意志について申すと、余は、偏見、前判断なし、さらにはどちらを選ぶのが正なのか良しなのかに、人の知(volonte)が一切影響されていない状態が「無関心」なのであって、この点に注目していただきたいと願う。
<<c’est en ce sens que je l’ai prise lorsque j’ai dit que le plus bas degré de la liberté consistait à se pouvoir déterminer aux choses auxquelles nous sommes tout à fait indifférents. Mais peut-être que, par ce mot d’Indifférence, il y en a d’autres qui entendent cette faculté positive que nous avons de nous déterminer à l’un ou à l’autre des deux contraires, c’est-à-dire à poursuivre ou à fuir, à affirmer ou à nier un même chose.
拙訳:無関心の自由を念頭に入れた時に、もっとも初原的な(le plus bas degre)自由は、初めは無関心であったそれら物事に対して、まず、なにがしらかを特定する(選択する)とした。
おそらく無関心にはさらなる意味合いがあると気づいている。それは、選択する力を持って、眼前の2の物事をあれかこれかに特定して、肯定か否定し、受け入れるか退けるかして、いずれかを選ぶ。そのいずれかの選択をして、同じ事(un meme chose)であると受け入れる。
すなわち無関心の自由には2段階あって、先入観なしに虚心坦懐にいずれかを選択して(これが原初の自由)、選択した結果についても(後悔、後からの批判などせずに)無関心であることである。
無関心の自由がもたらす精神状態「libre arbitre自由意志」は、神の自由に限りなく近づくとデカルトは信じていた。何事にも決定において神は自由、その結果についても責任を問われる事などない。
デカルトは知において神に近づいた(本質の解明)。いまや精神においてより神に近づく、これがデカルトの自由なのじゃ!
「ところでKさん、あんたはカツ丼食うのは初めから決まっていると言った。その理由につきカツ丼湯気に身を託し生きる証を確認したいと聞いた」
「そのとおり、私に残された唯一の自由なのだ」
「それは自由ではない」
カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 3 の了
(次回予定は9月15日)
午前の仕事をかたづけてちょうどお昼、飯にすると事務所を出たK氏と同僚の一行は4人、降り立った街路はJR豊田イオンモールの横。昼飯の選択であれやこれかに話の華も開くのだが、K氏はカツ丼を譲らない。毎日カツ丼だと主張する。
配膳されたカツ丼の、指先もおもむろに、蓋を開けての湯気霞、沸き立ちあがるその香りに鼻先出して一息吸い込む。その安心感が
「カツ丼の自由、生きる証明なのだ」と説明した。
カツ丼自由が命の担保となるのか。「自由の名」でカツ丼を選ぶK氏に対して投稿子は向き直った。
「それは自由とは言えない」思わぬ否定は投稿子から、K氏は腹の底から反論した。
「老人の数少ない願いを叶えようとする行動なのだ、それを自由ではないと。なぜだ」
写真:K氏は天丼からは生きる証を得られない。しかし天丼がこれほどにも存在性を主張すれば、食う楽しみにはなりうる(写真はネットから)
自由とは仏語liberte,あるいは英語libertyの和訳である。訳者は福沢諭吉、著作「西洋事情」に初めて出てくる(らしい)。一方、すでに漢語の「自由」は使われていて本来の自由に福沢がliberteをひも付けしたとの説明を目にした(Wikipedia)。角川大字源には1気まま思うまま(漢文の引用が続く)2(哲)他から拘束を受けずに自身の意志によって行動できること、2の義を伝える。1が明治以前から使われている自由で2の(哲=哲学)は福沢の導入した「西洋」の自由と定義しても道理にかなうだろう。
そしてここでの留意は1と2は、その意味されるところ、すなわちレヴィストロースの語る言葉に対する「思想」であるが、そこに大きな落差が認められる点にある。このあたりは後に説明する。
西洋で初めてliberte自由を語ったのはデカルト(Descartes)とされる。それ以前には自由なる語は(ラテン語に)あったとしても、行動としてはなかった。すべてが「神の意志」なので人は疑う、考える、追求する余地などない。耶蘇は人が考えるなどを禁じていた。
ではデカルトの自由の追求に挑戦してみよう。ググってみると;
(サイト名はPHILOPHORE、主宰Eric Chevet, Le doute et liberte chez Descartesなる頁を見つけた)
<<Le doute atteste d’une « faculté positive » que Descartes nomme le libre-arbitre (ou liberté d’indifférence):
こうした思索過程(le doute)はデカルトが自由意志(libre arbitre)と呼ぶ実在する力(faculte positive)に裏うちされるものである。自由意志は無関心の自由(libre d’indifference)でもある。
引用はないが前段でchevet氏はvolonteを解説している。これを意志と訳す。疑いの思考の中に、人には意志(volonte)と力(capacite)が備わる。デカルト的2元論に当てはめれば、意志は(考える)となり、力はfaculte positive(実在する)ので本質である。その本質は行動する、選択する力なのである。人はこの能力を持つのだ。それが自由意志で、無関心なる自由でもあるとしている。
さて、Indifferenceを無関心と訳したのでワケが分からなくなる。これを(一方に)与しない選択とすれば、投稿子にも概念が掴めてきそうだ。先入観、前判断、偏見などに惑わされない(=これがindifference)で選択するのが自由意志(libre arbitre)なのだとデカルトが語った。
選択は必ず二者択一である。AかBか。比べるまでもなくAよりBが良い、それならBを選ぶ。この思考過程にはA,Bの価値の善し悪しを判断しているという前提が潜り込んでいる。それ故、自由から遠ざかっている。そうした過程で選択をした者は、Bの僕(シモベ)であると批判できよう。
ではMeditationsから。
<< Pour le libre arbitre, je désire que l’on remarque que l’Indifférence me semble signifier cet état dans lequel la volonté se trouve lors qu’elle n’est point portée, par la connaissance de ce qui est vrai ou de ce qui est bon à suivre un parti plutôt que l’autre=後略
拙訳:自由意志について申すと、余は、偏見、前判断なし、さらにはどちらを選ぶのが正なのか良しなのかに、人の知(volonte)が一切影響されていない状態が「無関心」なのであって、この点に注目していただきたいと願う。
<<c’est en ce sens que je l’ai prise lorsque j’ai dit que le plus bas degré de la liberté consistait à se pouvoir déterminer aux choses auxquelles nous sommes tout à fait indifférents. Mais peut-être que, par ce mot d’Indifférence, il y en a d’autres qui entendent cette faculté positive que nous avons de nous déterminer à l’un ou à l’autre des deux contraires, c’est-à-dire à poursuivre ou à fuir, à affirmer ou à nier un même chose.
拙訳:無関心の自由を念頭に入れた時に、もっとも初原的な(le plus bas degre)自由は、初めは無関心であったそれら物事に対して、まず、なにがしらかを特定する(選択する)とした。
おそらく無関心にはさらなる意味合いがあると気づいている。それは、選択する力を持って、眼前の2の物事をあれかこれかに特定して、肯定か否定し、受け入れるか退けるかして、いずれかを選ぶ。そのいずれかの選択をして、同じ事(un meme chose)であると受け入れる。
すなわち無関心の自由には2段階あって、先入観なしに虚心坦懐にいずれかを選択して(これが原初の自由)、選択した結果についても(後悔、後からの批判などせずに)無関心であることである。
無関心の自由がもたらす精神状態「libre arbitre自由意志」は、神の自由に限りなく近づくとデカルトは信じていた。何事にも決定において神は自由、その結果についても責任を問われる事などない。
デカルトは知において神に近づいた(本質の解明)。いまや精神においてより神に近づく、これがデカルトの自由なのじゃ!
「ところでKさん、あんたはカツ丼食うのは初めから決まっていると言った。その理由につきカツ丼湯気に身を託し生きる証を確認したいと聞いた」
「そのとおり、私に残された唯一の自由なのだ」
「それは自由ではない」
カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 3 の了
(次回予定は9月15日)