本稿は投稿子が主宰するホームページ「部族民通信」に書き下ろした同名の一文のブログ同時掲載です。ブログとHP同時投稿は今回が初めて、これからも続けようとがんばって下ります。なお本稿はブログ記事としては長すぎるので上下としました。下は近日に公開。部族民通信HPではすでに前文が投稿されている。「部族民通信」HPにアクセスは左コラムのブックマークをクリック、ないし「部族民通信」でググってください。(2019年8月25日)
裸の男L’homme nu(レヴィストロース神話学第4巻1970年発行)の最終章Finaleフィナーレに作者自らが構造主義を語る段落に出会った。
御大自らが「教える」内容は後記にするが、これまでの作品で「構造主義」についての解釈を述ぶる行句は著作のどこにも読みあたらず、まして己を「構造主義者」として標榜する(サルトルなんかが得意とする)思想の売り込みなどもなかった。
世間で語られるソシュール構造言語学を土台に「構造主義」なる思想を形成したなど、由来と概念の攻略本的説明も(小筆の知る限り)これまでの著作で一行もない。それゆえこの1頁は希有です。この辺りの外周から事を語ろう。
入門書として精読した「悲しき熱帯TrietesTropiques」のある一行(ポケット版169頁)を「手の内の証し」として小筆は留意していた。その一文を引用すると<le melentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord semantique : les formules que nous y colportons impliquent des signifies absents ou differents>
訳;西洋と東洋の誤解の原因は(言語の)意味論から納得できる。我々(西洋)があちら側(東洋)に売り込んだ公式(ソシュールの意味する・意味される対峙関係)が、そこでは(意味する言葉だけを訳して)意味される実体のモノ(signifie)が異なる、あるいは不在である。
これだけながら「構造主義」の全貌が掴めた。

裸の男は神話学4部作の最終巻、その最後の章となるフィナーレのそのまた最終部に「自ら語る構造主義」の幾行かがあった。
「signifieの不在」の指摘を小筆は自由liberteに当てはめた。
実はこの頁でも誤解の例証にliberteを用いているから、この語ほど西洋にて独自に発展し、他地域の文化人に蠱惑的に受け止められる言葉は他に無いのかも知れない。デカルトが説いたliberte(後にスピノザ、ヘーゲルそしてサルトルも説いた)を諭吉翁が「自由」と訳し、新しい言葉として流布する。しかるに対応する形(意味されるモノsignifie)が日本社会の概念には無い。レヴィストロースの指摘はまさに「思想」を導入しても土台を作れない東洋の限界に誤解の元があると指摘している。別の言い方では東洋独自の哲学体系を打ち崩せない西洋。誤解根源は両極の思考のあり方にある。
(ちなみにK氏がカツ丼を食う自由を実践するため苦難の昼食アワーを過ごした経緯は本ホームページに載せている。老人とはいえ令和の男、しかし彼が信ずる自由はデカルト、サルトルが説く西洋の自由とは大違いだった。未読の御仁はカツ丼の自由をクリック)
上記引用の解釈を拡大発展させて、小筆は構造主義とはなんぞやをこれまでにBlog、HPで開陳した(猿でも分かる構造主義、ジンジャンがカントに先験を教えた)をクリックご参照。部族民解釈の構造主義とは;
>存在に本質はない、モノが存在する形状はsignifieでしかない。人の持つ思想と存在が対峙する(ソシュール意味論的)構造の中に本質が宿る<。この例証をレヴィストロースは著作「親族の基本構造」「野生の思考」「構造人類学」で綿々と展開し、そのベクトルの向かう彼方に構造神話学が花と開いた。されど4部作を通じても「構造主義とは」の攻略本的解説はどこにも読めなかった。冊に冊、それらを読むに年余を越してようやく昨日(2019年8月ある夕べ)、最終4作目「裸の男」の最終章の最後尾、これだとぶち当たった。上記(部族民としての解釈)での論旨を行間に当てるとなんと、隠喩換喩だらけひねくりまくりのレヴィストロース修辞法がすっかり読み解けた。
「ヒャッホー」魂の叫び、慎ましながら雄々しさの裏声地なりの歓声が、裏山なるタマ丘陵に響き渡った。その動物園に棲むと伝わるウータンどもは胆でも潰したか。
<En acceptant ces postules , le structuralisme propose aux sciences humaines un modele epistemologique d’une puissance incomparable a ceux dont ells disposaient auparavant.>(同書614頁)
訳;上記の公式を展開するに辺り、構造主義は人文科学に一つの認識論モデル(modele epistemologique)を提供したのである。その効果たるや、これまで人文科学が展開していたそれらよりも強力だった。
上記の公式とは前文にある;
<une rationalite preexistante sous deux formes ; l’une immanente a l’univers, sans laquelle la pensee ne parviendrait pas a rejoinder les choses et aucune science ne serait possible ; et, incluse dans cet univers, une pensée objective qui fonctionnne de manierre autonome et rationelle avec meme de subjectiviter cette rationalite ambiante, et de se l’aservir pour la domestiquer>(同)
訳;理性力とは全人類(univers)にそもそも備わっており智として2の形態を見せる。一つの智は人に本来的(immanante)で、それ無しでは思考は物事を取り纏められず、科学の発生など考えられない。もう一つは人に内包(incluse)される智で、客観性を持ち自律に理性的に発展し、不確かな理性力に論理性を与えるうえに、思考を自家薬籠中のモノにするため手なずけてしまう。
本来的と内包を使い分けているが、これは繰り返しを避ける筆法と見て、実際は同じ。居場所は人の中で、働きが異なる。
rationaliteを理性力とした。これが人に潜む初原の智の能力で、2の働き様を見せる。1は事象を理解して紐付けて総括する。2は思考に客観方法を植え付け、それを自身の確立に利用する。この分析はまさにカント哲学です。小筆は以下に解釈する。
1 rationalite preexistante=>先験(transscandantal)
2 une immanente=>物事を取り纏める内在する智、これがdialectique弁証法または演繹思考。
3 une incluse=>自律する思考、これはanalitique分析思考または帰納思考。
レヴィストロースはカント云々を一言も漏らしていない、いわば拡大解釈であるが根拠は;
構造主義を形成するにあたり「近代知識人として自然にカント哲学をならった」(月の裏側のどっか)。ここまでを前提の理解としよう、初めの引用に戻る。
気になる語句のEpistemologiqueは認識論であるが、上記の流れでこれをカント認識論の敷衍としよう。(以前から小筆はBlogとHPでこの解釈を喧伝していた)
下に続く。
裸の男L’homme nu(レヴィストロース神話学第4巻1970年発行)の最終章Finaleフィナーレに作者自らが構造主義を語る段落に出会った。
御大自らが「教える」内容は後記にするが、これまでの作品で「構造主義」についての解釈を述ぶる行句は著作のどこにも読みあたらず、まして己を「構造主義者」として標榜する(サルトルなんかが得意とする)思想の売り込みなどもなかった。
世間で語られるソシュール構造言語学を土台に「構造主義」なる思想を形成したなど、由来と概念の攻略本的説明も(小筆の知る限り)これまでの著作で一行もない。それゆえこの1頁は希有です。この辺りの外周から事を語ろう。
入門書として精読した「悲しき熱帯TrietesTropiques」のある一行(ポケット版169頁)を「手の内の証し」として小筆は留意していた。その一文を引用すると<le melentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord semantique : les formules que nous y colportons impliquent des signifies absents ou differents>
訳;西洋と東洋の誤解の原因は(言語の)意味論から納得できる。我々(西洋)があちら側(東洋)に売り込んだ公式(ソシュールの意味する・意味される対峙関係)が、そこでは(意味する言葉だけを訳して)意味される実体のモノ(signifie)が異なる、あるいは不在である。
これだけながら「構造主義」の全貌が掴めた。

裸の男は神話学4部作の最終巻、その最後の章となるフィナーレのそのまた最終部に「自ら語る構造主義」の幾行かがあった。
「signifieの不在」の指摘を小筆は自由liberteに当てはめた。
実はこの頁でも誤解の例証にliberteを用いているから、この語ほど西洋にて独自に発展し、他地域の文化人に蠱惑的に受け止められる言葉は他に無いのかも知れない。デカルトが説いたliberte(後にスピノザ、ヘーゲルそしてサルトルも説いた)を諭吉翁が「自由」と訳し、新しい言葉として流布する。しかるに対応する形(意味されるモノsignifie)が日本社会の概念には無い。レヴィストロースの指摘はまさに「思想」を導入しても土台を作れない東洋の限界に誤解の元があると指摘している。別の言い方では東洋独自の哲学体系を打ち崩せない西洋。誤解根源は両極の思考のあり方にある。
(ちなみにK氏がカツ丼を食う自由を実践するため苦難の昼食アワーを過ごした経緯は本ホームページに載せている。老人とはいえ令和の男、しかし彼が信ずる自由はデカルト、サルトルが説く西洋の自由とは大違いだった。未読の御仁はカツ丼の自由をクリック)
上記引用の解釈を拡大発展させて、小筆は構造主義とはなんぞやをこれまでにBlog、HPで開陳した(猿でも分かる構造主義、ジンジャンがカントに先験を教えた)をクリックご参照。部族民解釈の構造主義とは;
>存在に本質はない、モノが存在する形状はsignifieでしかない。人の持つ思想と存在が対峙する(ソシュール意味論的)構造の中に本質が宿る<。この例証をレヴィストロースは著作「親族の基本構造」「野生の思考」「構造人類学」で綿々と展開し、そのベクトルの向かう彼方に構造神話学が花と開いた。されど4部作を通じても「構造主義とは」の攻略本的解説はどこにも読めなかった。冊に冊、それらを読むに年余を越してようやく昨日(2019年8月ある夕べ)、最終4作目「裸の男」の最終章の最後尾、これだとぶち当たった。上記(部族民としての解釈)での論旨を行間に当てるとなんと、隠喩換喩だらけひねくりまくりのレヴィストロース修辞法がすっかり読み解けた。
「ヒャッホー」魂の叫び、慎ましながら雄々しさの裏声地なりの歓声が、裏山なるタマ丘陵に響き渡った。その動物園に棲むと伝わるウータンどもは胆でも潰したか。
<En acceptant ces postules , le structuralisme propose aux sciences humaines un modele epistemologique d’une puissance incomparable a ceux dont ells disposaient auparavant.>(同書614頁)
訳;上記の公式を展開するに辺り、構造主義は人文科学に一つの認識論モデル(modele epistemologique)を提供したのである。その効果たるや、これまで人文科学が展開していたそれらよりも強力だった。
上記の公式とは前文にある;
<une rationalite preexistante sous deux formes ; l’une immanente a l’univers, sans laquelle la pensee ne parviendrait pas a rejoinder les choses et aucune science ne serait possible ; et, incluse dans cet univers, une pensée objective qui fonctionnne de manierre autonome et rationelle avec meme de subjectiviter cette rationalite ambiante, et de se l’aservir pour la domestiquer>(同)
訳;理性力とは全人類(univers)にそもそも備わっており智として2の形態を見せる。一つの智は人に本来的(immanante)で、それ無しでは思考は物事を取り纏められず、科学の発生など考えられない。もう一つは人に内包(incluse)される智で、客観性を持ち自律に理性的に発展し、不確かな理性力に論理性を与えるうえに、思考を自家薬籠中のモノにするため手なずけてしまう。
本来的と内包を使い分けているが、これは繰り返しを避ける筆法と見て、実際は同じ。居場所は人の中で、働きが異なる。
rationaliteを理性力とした。これが人に潜む初原の智の能力で、2の働き様を見せる。1は事象を理解して紐付けて総括する。2は思考に客観方法を植え付け、それを自身の確立に利用する。この分析はまさにカント哲学です。小筆は以下に解釈する。
1 rationalite preexistante=>先験(transscandantal)
2 une immanente=>物事を取り纏める内在する智、これがdialectique弁証法または演繹思考。
3 une incluse=>自律する思考、これはanalitique分析思考または帰納思考。
レヴィストロースはカント云々を一言も漏らしていない、いわば拡大解釈であるが根拠は;
構造主義を形成するにあたり「近代知識人として自然にカント哲学をならった」(月の裏側のどっか)。ここまでを前提の理解としよう、初めの引用に戻る。
気になる語句のEpistemologiqueは認識論であるが、上記の流れでこれをカント認識論の敷衍としよう。(以前から小筆はBlogとHPでこの解釈を喧伝していた)
下に続く。