蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース自ら語る夕日考 上

2019年08月28日 | 小説
(2019年8月28日)本投稿は部族民通信のHP記事を同期しています。当ブログでは(長すぎるので)上下に分けました。下は明日出稿します。部族民通信HPには左コラムブックマークをクリック、あるいは部族民通信でググってください。

L’homme nu裸の男(レヴィストロース神話学第4巻、1970年発行)の最終章Finaleフィナーレに「夕日考Le Coucher du Soleil、悲しき熱帯の一節」についての一節が載っている。書きつづった背景、雲の沸きたちと天啓、その後の著作を通しての思考の展開、思い起こすまま、とつとつとこれらを回顧している。
神話学4巻は1963年の「生と調理」に始まる一連の作品の最終巻で、レヴィストロースの思考(いわゆる構造主義)集大成である。本巻、裸の男は神話学としてのみならず哲学・人類学の著作においても「締めくくり」に当たる。これ以降の作品は思索というか批評への志向が強く多くは短編である。著述活動の、ある意味では終着点に立ったレヴィストロースの精神を探るにFinale解読は必須となるが、そこにおいて初期作品の軽いエッセイ風の一節をその章の名と共に引用していたとは驚きだった。
著述家として学職としての後のキャリアにおいて、レヴィストロースは「夕日考」を念頭に入れ執筆、活動していたかの疑念が生じた。読み進めてそれは真逆、夕日考が後々に表出した提題をすでに予言していたのであった。夕日現象の「解明」に取りかかるために「構造主義に則る神話学」をあらたに創出する必要、船上デッキチェアーに寄りかかりがそのためで、まさにこれを悟ったのだと。
後の著述が夕日考を語るのではなく、夕日考が後々著作を予告した。
この回顧は思想人の告白であると畏れ入った。
「夕日考」については本年(2019年)5月30日のホームページ部族民解釈はこちら(5月30日に本HPに投稿した)なお小筆は夕日を眺めるとは「一日の仕事の振り返り」と牧歌解釈した。すっかり勘違いだった。文末に彼我の落差を語る。

夕日考について語る。
「悲しき熱帯TristesTropiques1956年」第2部(feuilles de route旅の断片)の7章coucher du soleil(落日が直訳)。Ecrit en bateau(船上にて)と命題された書き流しの日記風語りが、この作品中でイタリック体となっている。午後の遅くからの一時をデッキで過ごす。船の周りが大西洋、波と空、水平線のみが目に入る。光と陰、雲の移ろい風のささやき、うねりと波の移り変わり。小さな雲の連なりが水平に横たわる。夕べは迫る、盛んな太陽が午後のかげりに曇る。雲はふくらみ、高く登ったその頂が西日を受けて輝いて暗がりの水平から浮かんだ。それでもなおも脈動する旺盛さを誇らしげに、天に君臨する巨大建造物(edifice)のごとく、最期に海を睥睨した。薄暗がりが闇に溶け、大伽藍がはたとその闇に消える。海は今、照明の消えた舞台。幕裏暗がりに着飾りを垂らすだけ、役目を終えた役者(portant)は居場所を失いたたずむだけ。
(川田訳はportantを(舞台装飾を支える)柱と正しく訳している。「着飾りを垂らす役者」は小筆の意図的誤訳である、沸きたつ雲を擬人化したかった)

引用しよう;
<(ce mythe supreme)….rejoint donc l’intuition qui, a mes debuts et comme je l’ai raconte dans Tristes Tropiques, me faisait chercher dans les pahses d’un coucher de soleil , guette depuis la mise en place d’un décor teleste qui se complique progressivement jusqu’a se defaire et s’abolir …>(L’homme nu 620頁)
この一文(そして後文)をして「後の著述が夕日考を語るのではなく、夕日考が彼の後々を予告した」根拠とする。
注)括弧内のce mythe supreme(この至高の神話)とはこの前の段で規定されている。「人間社会、その歴史のみならず(動物界、自然界など)森羅万象の来し方を含み人間が代表してそれ(森羅万象来し方行く末)を語る」神話であると、
訳:至高神話は(私の)直感に結びつき、著作活動の最初期の「悲しき熱帯夕日の状景」の文中で、それ(事柄のモデルle modele des faits)をして私に語らせるに及んだ。至高神話(なる主題)は天の舞台に潜み陽光ちりばむ装飾を一身に受け、身姿を変えながら消えていった…。
事柄のモデルとは、それ自身が夕日に浮かびそして消えゆく雲の情景だが、船上で眺めていたその時に<le modele des faits que j’allais etudier plus tard et des problemes qu’il me faudrait resoudre sur la mythologie「この事柄のモデルは後々に取り組んだ課題で、神話学で解決すべく提題であるとわかった」とある。上2の引用で理解できるのは;


考えても猿は構造主義を完璧に理解するまでに行かない。

1 普通の神話は(個人の担い手)が語るけれど、至高神話を語るのは「人間社会」である。人間社会が声を出すワケがないから、それは語られない。すると無言の神話か。あるいは普通の神話の総合体の中に森羅万象「来し方…」の主題がメッセージとして籠めているのだろうか。
2 その主題「事柄のモデル」を夕日の移り変わりを眺めてレヴィストロースが気づいた。雲の立ち上がりと、輝き影と旺盛さ、そして突然の消滅が移り変わりなのだが、そこに「森羅万象、事柄のモデル」が暗喩されている、それを知ったと解釈できる。
3 至高な神話は「始まりから隆興、消え去り」の筋があって、それが夕日に託され天上に描かれていた、夕日に潜む至高さをレヴィストロースが見つけたと理解できる。

(1~3)の前提として;未開人も西欧文明人も同じ思考論理を持つ。未開人が「経験的な言葉」を用い、神話を通して説明した「思考」と、文明人が抽象的言葉と修辞法で語る「思考」は根底において共通する思考である。ゆえに至高な神話とは未開文明を問わず人間社会が語り、全人類に共通の思想を訴えている。

<le modele des faits que j’allais étudier plus tard et qu’il me faudrait résoudre sur la mythologie : vaste complexe edifice, lui aussi irise de mille teintes , qui se deploie sous le regard de l’analyste, s’epanouit lentement et se referme pour s’abimer au loin comme s’il n’avait jamais existe.(620頁)
訳;(事柄のモデルはのちに学び始めたのだが、私にとってそれは神話学により解決されるものであった=この文は前出)。続いて;
複雑な大建造物で、解析者(レヴィストロースのこと)の目には(夕日と)同じく千の色彩に飾られ、緩やかに展開し、遠くで壊れあたかも実在していなかったかに完結してゆく。
雲が立ち上り闇に消える様を夕日に見て、物事の発生、興隆そして滅亡を感じ取った。夕日の雲は宇宙の成り立ち滅亡の換喩であったのだ。

自ら語る夕日考 上の了
コメント
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