悪は何処に棲むかには二通りの信心があり、1悪は外部、人はそもそも無垢の性状で、外部悪に感化され悪行をなす。この信心では人を殺す悪人にしても、外部悪の犠牲者となります。その2悪は身のうち、心の内に棲みふと油断すると悪が頭をもたげる。悪人は悪の主犯ですーと投稿しました。PDFでまとめております。
日本人が心に持つ信心にして、それを教義とした神道も2を奉る。ホームページ投稿では傍証として水垢離、滝うたれ等を数えました。
「明治天皇」(ドナルドキーン、新潮社)で興味深い例に出会いました。明治政府・神祇官とは日本にあるあらゆる神社の「目付」です。その方が「悪は身のうち」の悪祓いを実践した例を挙げます。
明治天皇が始めて海外から表敬を迎えたのは、英国軍艦ガラティア号の船長アルフレッド大佐、実はヴィクトリア女王の第2王子にしてエジンバラ公爵、その時は若干22歳、太平洋遠洋航海の任務を終えて帰国の途上であった。明治2年(1869年)8月31日に横浜入港し、天皇謁見は9月3日。これは外務省のネット航海の記録から。

ガラティア号 3本マスト2本の煙突、鉄骨木造の外皮、端正なフィリゲート艦 拡大は下に
発足間もない明治政府には降って湧いたか、パークス英公使から突然の公爵訪問の申し出であった。ご維新となり明治帝が江戸に行幸したのは明治元年(1968年)10月、一旦京都に戻り(還幸)東京に帰った(再幸)のは2年3月となった。さらに太政官の移設など首都としての機構の整備、充実に数月を経て、8月にもいまだ完了せずであったと推察する。皇城(皇居)をして政所の整えには10月を待たねばならなかった。皇后、内廷女官らの合流には年末となる。9月の公爵謁見には美子皇后にあられ同席おられなかった事になる。
ガラティア号の航海旅程を調べると;
1968年1月にプリマスを出港、南ア、インド、オーストラリア、ニュージーランドなど植民地を巡回、当時は独立王国ハワイに1868年末に投錨した。ハワイ王国カメハメハ5世への表敬訪問が続いたはずだ。時間の制約などで全てのネット情報など掴めないが、1869年の帰航の記録は小筆には見えていないから、ハワイで公式行事は終わったと思える。
公式任務から離れたらアルフレッド大佐がエジンバラ公爵に戻った。本文の出だしでは船長にて公爵としたが、日本に向かう航海の船上では船長の役目はさしおき、身分は公爵である。

ハワイで帰航の船体整備に入った。同船は「機帆船」、写真(ネットから)を挙げる。鉄骨木造蒸気機関、スクリュー付きの最新フリゲート艦であった。水、食料以外に石炭の手当も必須となるから7月まで入港していた。半年を越える逗留の理由とは、機帆船ならば整備箇所もいろいろと出てくるのかも知れない。さらに勘ぐれば補修や物品の手当を恣意的に遅らせ、7月末までの時期を見計らっていたかも知れない。8月の初に出港、4週で日本に到着した。
日本の状況は;
元年1868年となれば新体制の先行きは見えてきた。王政復古(1月)、戊辰戦争は8月には幕府側は函館を残すのみ。江戸の治安も安定に向かう、10月には行幸と重ねて江戸が東京と改名し、ここに執政地が置かれると決まった。パークスにしても新政府の先行き、見通しが定まったであろう。維新進行具合とガラティア号日程のすきまを外交に使った。
そもそもの予定はハワイで日程を終えインド経由で帰航する、この通りとの連絡が1868年末にはパークスに寄せられていた筈である。1868年末の時点はアルフレッド大佐が本貫とする身分エジンバラ公爵に戻り、帰途に日本を訪れる。
太平洋航海の帆船、機帆船は日本に立ち寄り、必ず水食料、石炭を補給する行程をとる。開国の圧力が補給だった。すると課題は何時に訪れるかであった。パークスにしても海軍大佐が天皇を訪問したいとは言い出せまい。しかし船上には肩書きを変えたエジンバラ公爵アルフレッドである。
想像を越えないが;
ニュージーランドを離れる時期(1868年8月)には維新の先行きが見えていたから、公式に決まっていたハワイ訪問にして、長すぎるかに思える逗留日程はこの段階で画策されていたのかもしれない。「早めに来日しても帝には会えない」戊辰戦争の終結を見てとの思惑がパークスによぎったかも知れない。英国は積極的に皇朝側、薩長を支援していたから、パークスには情報も多く入ってきたのであろう。
これらの通信の手段は1850年代から隆盛を迎えているクリッパー船(茶、ウールなど英連邦を結ぶ高速貨物帆船)などであろか。香港に基盤を置く英国系商社(ジャーディンマセソンなど)も日本開国は商機とみて、横浜開港(1858年)翌年には日本支店を設けている。船舶の往来数は増えていただろう。
インターネットメールの瞬時性には及ぶべくないが、予定と部分変更を仕掛けにして読み次第で思惑の矢が正鵠を射ることもある。そうなら無ければ戦も経済も負ける。パークスの読みはこの時正しく、函館の戦闘が終結したのは2年6月末であった。
(68,69年の江戸、京都の騒乱、戊辰戦争粉塵の舞い散り模様のふとした終焉の狭間に公爵の表敬日程が納まった。正鵠としたが、これほど読みの当たった外交の例は少ないか、個人の見解です)
パークスは天皇と公爵の「対等」の対面を申し入れていた。

エジンバラ公爵、公ながら「国賓」で訪日、明治天皇と対等な対面の接遇を果たした。その代償はお祓い。
「対等」が懸念になった。
天皇と「対等」、そんな存在は日本に無い。
天皇には臣下しかいない。臣以下を雑とするがこれらは土民の範疇なので無視しておく。謁見のしきたりとは平身低頭した臣の伺候を「御簾」の内から帝が聞く。「玉体不可視」が決まりであった。御簾を間にはさむには宗教的理由もある。これは神道根本の教条とからみ冒頭に挙げた「悪」の居場所と絡まって、思いがけない展開を後に導く。
子細は後述する。
「対等」とは帝が御簾の外に出てその存在を見せ、立席し客を迎える。客は握手を求めるから身分が釣り合わなくとも「対等に」握手に応じる。すなわち帝が夷荻と接触する事になる。接触が政府、内廷に相当の波紋を巻き起こした。
<however the decision to accord appropriate honor to the Duke has been the subject of much debate in the Japanese government .Iwakura Tomomi observed to Sir Hurry (Parkes) that the reception of the Duke had caused the government much anxious consideration; (Britain & Japan biographical portraits より。ネット採取)
太政官岩倉具視の名が見える。「公爵の受け入れ次第が議論になった。取りまとめに相当苦労した」と政権内部の諍いを愚痴っぽくパークスに告げている。数行の後には(公爵離日後に)式典の無事終了をパークスが澤外務卿に感謝したとの記述も見える。
(ブログの形式から本稿は上下に分けて投稿します。なおHP=WWW.tribesman.asia あるいは部族民通信で検索、においては本日(12月23日)に全容を投稿しております。蕃神)
日本人が心に持つ信心にして、それを教義とした神道も2を奉る。ホームページ投稿では傍証として水垢離、滝うたれ等を数えました。
「明治天皇」(ドナルドキーン、新潮社)で興味深い例に出会いました。明治政府・神祇官とは日本にあるあらゆる神社の「目付」です。その方が「悪は身のうち」の悪祓いを実践した例を挙げます。
明治天皇が始めて海外から表敬を迎えたのは、英国軍艦ガラティア号の船長アルフレッド大佐、実はヴィクトリア女王の第2王子にしてエジンバラ公爵、その時は若干22歳、太平洋遠洋航海の任務を終えて帰国の途上であった。明治2年(1869年)8月31日に横浜入港し、天皇謁見は9月3日。これは外務省のネット航海の記録から。

ガラティア号 3本マスト2本の煙突、鉄骨木造の外皮、端正なフィリゲート艦 拡大は下に
発足間もない明治政府には降って湧いたか、パークス英公使から突然の公爵訪問の申し出であった。ご維新となり明治帝が江戸に行幸したのは明治元年(1968年)10月、一旦京都に戻り(還幸)東京に帰った(再幸)のは2年3月となった。さらに太政官の移設など首都としての機構の整備、充実に数月を経て、8月にもいまだ完了せずであったと推察する。皇城(皇居)をして政所の整えには10月を待たねばならなかった。皇后、内廷女官らの合流には年末となる。9月の公爵謁見には美子皇后にあられ同席おられなかった事になる。
ガラティア号の航海旅程を調べると;
1968年1月にプリマスを出港、南ア、インド、オーストラリア、ニュージーランドなど植民地を巡回、当時は独立王国ハワイに1868年末に投錨した。ハワイ王国カメハメハ5世への表敬訪問が続いたはずだ。時間の制約などで全てのネット情報など掴めないが、1869年の帰航の記録は小筆には見えていないから、ハワイで公式行事は終わったと思える。
公式任務から離れたらアルフレッド大佐がエジンバラ公爵に戻った。本文の出だしでは船長にて公爵としたが、日本に向かう航海の船上では船長の役目はさしおき、身分は公爵である。

ハワイで帰航の船体整備に入った。同船は「機帆船」、写真(ネットから)を挙げる。鉄骨木造蒸気機関、スクリュー付きの最新フリゲート艦であった。水、食料以外に石炭の手当も必須となるから7月まで入港していた。半年を越える逗留の理由とは、機帆船ならば整備箇所もいろいろと出てくるのかも知れない。さらに勘ぐれば補修や物品の手当を恣意的に遅らせ、7月末までの時期を見計らっていたかも知れない。8月の初に出港、4週で日本に到着した。
日本の状況は;
元年1868年となれば新体制の先行きは見えてきた。王政復古(1月)、戊辰戦争は8月には幕府側は函館を残すのみ。江戸の治安も安定に向かう、10月には行幸と重ねて江戸が東京と改名し、ここに執政地が置かれると決まった。パークスにしても新政府の先行き、見通しが定まったであろう。維新進行具合とガラティア号日程のすきまを外交に使った。
そもそもの予定はハワイで日程を終えインド経由で帰航する、この通りとの連絡が1868年末にはパークスに寄せられていた筈である。1868年末の時点はアルフレッド大佐が本貫とする身分エジンバラ公爵に戻り、帰途に日本を訪れる。
太平洋航海の帆船、機帆船は日本に立ち寄り、必ず水食料、石炭を補給する行程をとる。開国の圧力が補給だった。すると課題は何時に訪れるかであった。パークスにしても海軍大佐が天皇を訪問したいとは言い出せまい。しかし船上には肩書きを変えたエジンバラ公爵アルフレッドである。
想像を越えないが;
ニュージーランドを離れる時期(1868年8月)には維新の先行きが見えていたから、公式に決まっていたハワイ訪問にして、長すぎるかに思える逗留日程はこの段階で画策されていたのかもしれない。「早めに来日しても帝には会えない」戊辰戦争の終結を見てとの思惑がパークスによぎったかも知れない。英国は積極的に皇朝側、薩長を支援していたから、パークスには情報も多く入ってきたのであろう。
これらの通信の手段は1850年代から隆盛を迎えているクリッパー船(茶、ウールなど英連邦を結ぶ高速貨物帆船)などであろか。香港に基盤を置く英国系商社(ジャーディンマセソンなど)も日本開国は商機とみて、横浜開港(1858年)翌年には日本支店を設けている。船舶の往来数は増えていただろう。
インターネットメールの瞬時性には及ぶべくないが、予定と部分変更を仕掛けにして読み次第で思惑の矢が正鵠を射ることもある。そうなら無ければ戦も経済も負ける。パークスの読みはこの時正しく、函館の戦闘が終結したのは2年6月末であった。
(68,69年の江戸、京都の騒乱、戊辰戦争粉塵の舞い散り模様のふとした終焉の狭間に公爵の表敬日程が納まった。正鵠としたが、これほど読みの当たった外交の例は少ないか、個人の見解です)
パークスは天皇と公爵の「対等」の対面を申し入れていた。

エジンバラ公爵、公ながら「国賓」で訪日、明治天皇と対等な対面の接遇を果たした。その代償はお祓い。
「対等」が懸念になった。
天皇と「対等」、そんな存在は日本に無い。
天皇には臣下しかいない。臣以下を雑とするがこれらは土民の範疇なので無視しておく。謁見のしきたりとは平身低頭した臣の伺候を「御簾」の内から帝が聞く。「玉体不可視」が決まりであった。御簾を間にはさむには宗教的理由もある。これは神道根本の教条とからみ冒頭に挙げた「悪」の居場所と絡まって、思いがけない展開を後に導く。
子細は後述する。
「対等」とは帝が御簾の外に出てその存在を見せ、立席し客を迎える。客は握手を求めるから身分が釣り合わなくとも「対等に」握手に応じる。すなわち帝が夷荻と接触する事になる。接触が政府、内廷に相当の波紋を巻き起こした。
<however the decision to accord appropriate honor to the Duke has been the subject of much debate in the Japanese government .Iwakura Tomomi observed to Sir Hurry (Parkes) that the reception of the Duke had caused the government much anxious consideration; (Britain & Japan biographical portraits より。ネット採取)
太政官岩倉具視の名が見える。「公爵の受け入れ次第が議論になった。取りまとめに相当苦労した」と政権内部の諍いを愚痴っぽくパークスに告げている。数行の後には(公爵離日後に)式典の無事終了をパークスが澤外務卿に感謝したとの記述も見える。
(ブログの形式から本稿は上下に分けて投稿します。なおHP=WWW.tribesman.asia あるいは部族民通信で検索、においては本日(12月23日)に全容を投稿しております。蕃神)