太政官岩倉具視の名が見える。「公爵の受け入れ次第が議論になった。取りまとめに相当苦労した」と政権内部の諍いを愚痴っぽくパークスに告げている。数行の後には(公爵離日後に)式典の無事終了をパークスが澤外務卿に感謝したとの記述も見える。
ネット百科で調べると外務省の設立は2年7月、澤宣嘉は初代外務卿(大臣)。(前回12月23日投稿の末尾)
<天保6年(1836年)、姉小路公遂の五男として誕生。後に澤為量の婿養子となる。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。尊皇攘夷派として活動した>Wikipedia
そもそも澤は「尊皇攘夷」の要人。ならば貴顕であろうが異国人が帝の前面に立ち握手するなどは「以てほか」だが、宮廷内の反対異見を抑えた。
岩倉にしても維新の高官の誰も、安政の勅許(開国)に「攘夷」を掲げ反対した。政権取得のあとの変わり身の速さで建前も本音も無い、時の利益を取ればよい。身も蓋もない柔軟さが維新成功の原動力であったわけだ。
立王子(イギリスならばウエールズ王子)ならまだしも相手は一王子。待遇を一段落として公賓で迎えるさえも、皇帝(天皇)との格差からして破格。しかし明治政府は天皇と「対等」で迎えると決断した。
政府には別方向の政治ベクトルが働いていた。「対等」などは格違いとはねつけるではなく、なんとしてでも受け入れようの作戦である。その目的とは先進諸国にこの明治政府を認識してもらいたいに尽きる。
周到に用意し準備ぬかりなく進め、拝謁(公爵が天皇に訪問するわけなのでこの語を用いたが実際は接遇、対等の段取りだった)にもパークス同席を認め無事に終え、相撲、能狂言の出し物などの歓待にも取り立てての失態もなく、日程を消化した。
なお外務省ネット資料では公爵訪問を「国賓」としているが、英国側の資料にその記述は(ネット上での限り)見えない。元首である天皇との対等を突き詰めれば公爵をして国賓でしかあり得ない。破格待遇にやましさをぬぐえない省の後日の「格上げ」ではなかろうか。
さて岩倉が愚痴った「much anxious consideration」とは何か。小筆のネット検索範囲ではこれに対しての記述はない。そこで想像も含めて;
1 維新の主義は「尊皇攘夷」である。攘夷とは外国を排撃し野蛮として排除する実行動である。排撃思潮はいまだに健在である。過激武士が実力行使すれば刃傷沙汰につながる。横浜から東京への遠出は危険でないか。
2 東京にしても遷都直後にして受け入れ施設に不都合があってはまずい。
などであろうか。
しかしそれらはいずれも解決した。
1にしては、前述とおりで政権樹立後、当の本人達がたちどころに攘夷などすっかり忘れているし、今にして言う「原理主義」はご都合が優先するこの国に、根付く土面は寸土もない。2にしては公爵一行の宿泊所を浜離宮ときめ、什器設備、内部の拵え一式を上海に発注している。これら全てがパークスの肝いり、ジャーディンマセソンの仲介(商取引)をも呼び込んだ。同社が大儲けしたともネット情報には書かれる。
パークスは娘二人をジャーディン支配人に嫁がせるなど、両者の関係は公私ともに密であった。表層に見つかった外交プロトコルの懸念をパークスが、個人的関心を抑えずにかく解決したのである。
埋まらないのが「御簾」外しである。御簾の一つが岩倉卿にして取りまとめに苦労をし強いた。
明治天皇の江戸行幸の図 拡大は下に
パークスも1868年に謁見を許されている(京都パークス襲撃事件の発端)。謁見次第の記録は見当たらない。玉座への平身低頭については不明だが、御簾の内に鎮座していたとは傍証がある。>明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日、ミットフォードは首席随行員として再来日。 ... そして昔の御簾の中の存在だったことを知っているだけに、国賓のために新橋の駅で明治天皇が出迎えられたのになにより驚愕した(桜木健二氏のブログから)<
この不可視をパークスが否定したのである。(東洋的外交儀礼を西欧は常に卑屈であると否定した。清ではこの不平等が顕著で、皇帝の拝謁儀礼は三跪九叩頭である。清と西欧外交使との紛糾の種となっていた)
ドナルドキーン著「明治天皇」(新潮社)を参考にエジンバラ公爵の拝謁(接遇)次第を再現しよう。
横浜から品川への道程には随行員に騎乗が許され、公は差し向けの篭に乗り込んだ。街道に面する家屋の2階窓は板が張られ厳重に封戸された(英語資料ではピーピングトムを防止したとも)。これは大名行列の格式に準じている。
品川宿に到着した一行を迎えたのは勅使(宮家)、政府の歓待振りを見せたのだが、待ちかまえていた神主(姓名不詳)を隠す仕掛けでもあった。神主(神祇官であれば有栖川宮となるが不詳)は大幣を取って、一行、その中でも公爵にむけて幾度も「幣」祓えを実行した。儀礼は皇城に入る寸前でも実行された。
公爵側はそれが何事かを理解にいたらず「歓迎を表す儀礼」と好意に解釈した節も読める。
幣による祓えの決まりは、振りまわす幣(白紙の束ね)が対象者に当たりかすれを規範とする。あたかも水垢離の冷水が身体を打つかの様である。
エジンバラ公爵を幣が打ったかについては、「幾分離れて祓った」だけとする記述もあるが、その妥協策では効果が望めない。幣の端が身体に触れないといけない。
しかし実際は分からない。
祓えとは何か;
身体に淀む穢れを封ずる目的である。先ほどは水垢離と比較したが、神域に入るためには滝打たれ、川(海)面に身を沈めるなどの「祓え」儀礼を経る。神社参り(神域に入る)に祓えは必須だが、水垢離などは修験者に専用と課しおいて、一般氏子には実際的ではない。故に幣で祓うのである。祓うときには身体を幣が打たなければ効果が出ない。
天皇派遣の神主さんが品川と宮中の門前で丁寧に、しつこくも祓えを実行した訳が「御簾」外し対策である。対等ならば対面し問答して握手する。夷狄が身中に持つ害毒は強力と噂される。汚らわしい悪の感染予防である。
攘夷の背景とは「夷狄」は穢れている。神州日本に立ち入るべからずの排他思想がある。政治は開国と決めても、信心はすぐには変わらない。その夷狄に玉体不可視が破られた上に、握手までする。入念に「穢れ」を祓うべしと2度のお祓いが設けられた。
二度の儀式は「公爵を悪から守るためではなく、外国人の穢れから帝を守るためだった」事の次第を聞いた福沢諭吉は「笑うどころではない、泣きたくなった」嘆きの様は福翁自伝に読める。
小筆は日本人の信心は「穢れは身のうち=l’enfer, c’est nous-meme」であるとGooBlog、および当ホームサイトに投稿している。生まれたての政府のしきたり破り、そのなりふり構わずに、宮中が入念なお払いで対抗した。その行動はまさに「悪は身の内、身の穢れ」を信じていたに他ならない。
地獄は他者「l’enfer, c’est le autres」の西欧世界と神道教条の初めての邂逅でした。 了
(ブログの形式から本稿は上下に分けて投稿した。HP=WWW.tribesman.asia あるいは部族民通信で検索、においては昨日(12月23日)に全容を投稿しております。サイトのHP(index頁)に入り表題の頁続きをクリックしてください。蕃神)
ネット百科で調べると外務省の設立は2年7月、澤宣嘉は初代外務卿(大臣)。(前回12月23日投稿の末尾)
<天保6年(1836年)、姉小路公遂の五男として誕生。後に澤為量の婿養子となる。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。尊皇攘夷派として活動した>Wikipedia
そもそも澤は「尊皇攘夷」の要人。ならば貴顕であろうが異国人が帝の前面に立ち握手するなどは「以てほか」だが、宮廷内の反対異見を抑えた。
岩倉にしても維新の高官の誰も、安政の勅許(開国)に「攘夷」を掲げ反対した。政権取得のあとの変わり身の速さで建前も本音も無い、時の利益を取ればよい。身も蓋もない柔軟さが維新成功の原動力であったわけだ。
立王子(イギリスならばウエールズ王子)ならまだしも相手は一王子。待遇を一段落として公賓で迎えるさえも、皇帝(天皇)との格差からして破格。しかし明治政府は天皇と「対等」で迎えると決断した。
政府には別方向の政治ベクトルが働いていた。「対等」などは格違いとはねつけるではなく、なんとしてでも受け入れようの作戦である。その目的とは先進諸国にこの明治政府を認識してもらいたいに尽きる。
周到に用意し準備ぬかりなく進め、拝謁(公爵が天皇に訪問するわけなのでこの語を用いたが実際は接遇、対等の段取りだった)にもパークス同席を認め無事に終え、相撲、能狂言の出し物などの歓待にも取り立てての失態もなく、日程を消化した。
なお外務省ネット資料では公爵訪問を「国賓」としているが、英国側の資料にその記述は(ネット上での限り)見えない。元首である天皇との対等を突き詰めれば公爵をして国賓でしかあり得ない。破格待遇にやましさをぬぐえない省の後日の「格上げ」ではなかろうか。
さて岩倉が愚痴った「much anxious consideration」とは何か。小筆のネット検索範囲ではこれに対しての記述はない。そこで想像も含めて;
1 維新の主義は「尊皇攘夷」である。攘夷とは外国を排撃し野蛮として排除する実行動である。排撃思潮はいまだに健在である。過激武士が実力行使すれば刃傷沙汰につながる。横浜から東京への遠出は危険でないか。
2 東京にしても遷都直後にして受け入れ施設に不都合があってはまずい。
などであろうか。
しかしそれらはいずれも解決した。
1にしては、前述とおりで政権樹立後、当の本人達がたちどころに攘夷などすっかり忘れているし、今にして言う「原理主義」はご都合が優先するこの国に、根付く土面は寸土もない。2にしては公爵一行の宿泊所を浜離宮ときめ、什器設備、内部の拵え一式を上海に発注している。これら全てがパークスの肝いり、ジャーディンマセソンの仲介(商取引)をも呼び込んだ。同社が大儲けしたともネット情報には書かれる。
パークスは娘二人をジャーディン支配人に嫁がせるなど、両者の関係は公私ともに密であった。表層に見つかった外交プロトコルの懸念をパークスが、個人的関心を抑えずにかく解決したのである。
埋まらないのが「御簾」外しである。御簾の一つが岩倉卿にして取りまとめに苦労をし強いた。
明治天皇の江戸行幸の図 拡大は下に
パークスも1868年に謁見を許されている(京都パークス襲撃事件の発端)。謁見次第の記録は見当たらない。玉座への平身低頭については不明だが、御簾の内に鎮座していたとは傍証がある。>明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日、ミットフォードは首席随行員として再来日。 ... そして昔の御簾の中の存在だったことを知っているだけに、国賓のために新橋の駅で明治天皇が出迎えられたのになにより驚愕した(桜木健二氏のブログから)<
この不可視をパークスが否定したのである。(東洋的外交儀礼を西欧は常に卑屈であると否定した。清ではこの不平等が顕著で、皇帝の拝謁儀礼は三跪九叩頭である。清と西欧外交使との紛糾の種となっていた)
ドナルドキーン著「明治天皇」(新潮社)を参考にエジンバラ公爵の拝謁(接遇)次第を再現しよう。
横浜から品川への道程には随行員に騎乗が許され、公は差し向けの篭に乗り込んだ。街道に面する家屋の2階窓は板が張られ厳重に封戸された(英語資料ではピーピングトムを防止したとも)。これは大名行列の格式に準じている。
品川宿に到着した一行を迎えたのは勅使(宮家)、政府の歓待振りを見せたのだが、待ちかまえていた神主(姓名不詳)を隠す仕掛けでもあった。神主(神祇官であれば有栖川宮となるが不詳)は大幣を取って、一行、その中でも公爵にむけて幾度も「幣」祓えを実行した。儀礼は皇城に入る寸前でも実行された。
公爵側はそれが何事かを理解にいたらず「歓迎を表す儀礼」と好意に解釈した節も読める。
幣による祓えの決まりは、振りまわす幣(白紙の束ね)が対象者に当たりかすれを規範とする。あたかも水垢離の冷水が身体を打つかの様である。
エジンバラ公爵を幣が打ったかについては、「幾分離れて祓った」だけとする記述もあるが、その妥協策では効果が望めない。幣の端が身体に触れないといけない。
しかし実際は分からない。
祓えとは何か;
身体に淀む穢れを封ずる目的である。先ほどは水垢離と比較したが、神域に入るためには滝打たれ、川(海)面に身を沈めるなどの「祓え」儀礼を経る。神社参り(神域に入る)に祓えは必須だが、水垢離などは修験者に専用と課しおいて、一般氏子には実際的ではない。故に幣で祓うのである。祓うときには身体を幣が打たなければ効果が出ない。
天皇派遣の神主さんが品川と宮中の門前で丁寧に、しつこくも祓えを実行した訳が「御簾」外し対策である。対等ならば対面し問答して握手する。夷狄が身中に持つ害毒は強力と噂される。汚らわしい悪の感染予防である。
攘夷の背景とは「夷狄」は穢れている。神州日本に立ち入るべからずの排他思想がある。政治は開国と決めても、信心はすぐには変わらない。その夷狄に玉体不可視が破られた上に、握手までする。入念に「穢れ」を祓うべしと2度のお祓いが設けられた。
二度の儀式は「公爵を悪から守るためではなく、外国人の穢れから帝を守るためだった」事の次第を聞いた福沢諭吉は「笑うどころではない、泣きたくなった」嘆きの様は福翁自伝に読める。
小筆は日本人の信心は「穢れは身のうち=l’enfer, c’est nous-meme」であるとGooBlog、および当ホームサイトに投稿している。生まれたての政府のしきたり破り、そのなりふり構わずに、宮中が入念なお払いで対抗した。その行動はまさに「悪は身の内、身の穢れ」を信じていたに他ならない。
地獄は他者「l’enfer, c’est le autres」の西欧世界と神道教条の初めての邂逅でした。 了
(ブログの形式から本稿は上下に分けて投稿した。HP=WWW.tribesman.asia あるいは部族民通信で検索、においては昨日(12月23日)に全容を投稿しております。サイトのHP(index頁)に入り表題の頁続きをクリックしてください。蕃神)