(2019年112月2日)
「カツ丼の自由はアリサ…」で老人Kが自由を「自身の希望に沿って行動する」と取り違え、JR豊田駅前で「カツ丼~」と騒いだ顛末を報告した。しかしこの「取り違え」は誤りで、老人は日本人が固く信じている「おのれ(自)の由とする処に」通りに自由を実践したわけで、これ以外の自由など日本人は知らない。「無関心の自由」なんてのを持ち出した小筆・部族民にしても、無関心…を日常生活において実行できないし、関心が濃いなどと言い切れない。腹が減ったら天丼ではなくカツ丼を食らうから、蕃神もK老人と同類であろう。
魔が差して愛欲に耽った僧侶アベラール、下は拡大(ネットから採取)
かく「無関心の自由」を実感として理解できない。となるとフランスと日本、彼我の差とは思考・観念に寄る処ではなく、精神のより深い底の宗教、信心あるいは古くからの言い伝えにあるものと考えたのである。
これから先は仮説であり、それ以上に原初的(primitive)な推論だから妄想に近いけれどここに開陳する;
アリサにしても耶蘇教徒はおしなべて祈りを「神の保証の取り付け、神と同一の水準で生きる担保」として考えているのでは無かろうか。幾つか例を挙げよう:
カソリックの祈りとは
<神の前に自分のありのままを差し出すことです。そこでは後悔や自責の念がおこってくるのが当然かもしれません。そんなときには神にゆるしを願います>
<神が今のわたしに語りかけていることを受け取ろうとすることが祈りの中で大切です。そのために絶対に必要なことは「沈黙」>(< >はカソリック東京大司教区のネットサイトから引用)。すなわち神に、
1 ありのままの自身への許しを請う
2 語りかけを願う に集約される。
これをして部族民は「神との共存」「神との一体化」が耶蘇教徒の願いなのかと感じ取る。するとアリサが自由の意志(volonte)の依りどころを「神からの同意」として、毎夕祈りっていた事情に理解が及びそうだ。信仰を通して神との一体化を願っていたとも云えようか。神に近づけば「無関心の自由」を実践できると信じていたのだ。
さらにその奥には、祈れば「神から許される、神との一体化に近づく」の思いこみが控えるはずだ。この事をして個人の心の原点は無垢、中立であるとする信心が、宗教の成立以前に広まっていた(では無かろうか)。
自由を疎外する「悪」は外界にある。食欲は本能なので腹が減ったら何かを食べるべきで、食い物の選択には無関心が正しい、何でも良いのだ。台所、スーパーなどで手に入る食材を順次に食いつけば腹は治まる。しかし魔が差して「カツ丼旨いぞ、それを喰え」とそそのかしに乗ってしまう。そこでカツ丼を食ったらアリサは魔の僕に陥る。(女の場合は婢ハシタメとなる)。この状態を自由と呼ばない。魔が誘うは食だけではない。あらゆる選択に忍び込む。古くはリンゴを手にしたアダムに食えと迫る。エロイーズのしなやかさを前にしたアベラールに魔が「待っているのは女のほうだ」と囁きかける。
外界からの悪のそそのかしにふと乗ってしまう弱さが人には常在している、西洋のユダヤカソリック世界ではその考えである故に「個に罪は無い」。罪の原因はいつも外側である。個に罪を帰せるとしたら自律の気構えとか信仰が弱いに行き着く。プシケ(ギリシャ神話)が箱を開けたから世に罪が蔓延したとしているので、この考え方はギリシャの昔から広がっていた。
一方でアジアはとしたいのだが、小筆はアジア人を一括りにした倫理など語れない。よって日本に限定すると;
神道の教えは「穢れ」「祓い」。人、物、場所には穢れがつきまとう。穢れが人に悪さを及ぼす。神に向かうときにはお祓いしてから神域に踏み入る。神主さんに幣のお祓いを受けたり、自身が水垢離滝うたれ等苦行を経る場合もある(こちらは禊ぎと伝わる)。潜むのは穢れだけではない。罪も隠れている。
白人(しらひと) 肌の色が白くなる病気、白斑(俗に「しらはたけ」ともいう)のこと。別の説では「白癩(びゃくらい」(ハンセン病の一種)だともいう。胡久美(こくみ) - 直接には「瘤」のこと。この場合は瘤ができること。別の説では「くる病」のことだともいう(古事記が伝える国津罪、ネット辞典から採取)
上引用で言及している疾病は病原菌が特定され、ある条件の下で人が感染してしまう。罪は外部にあるのだが本邦では太古から(あらゆる病気に)罹患するとは、個の穢れからとしていた。名残なるが先の大戦の前まで人口に常在していた。キツネ憑き(特定の家系には精神不安が代々発生するとの言い伝え)、ハンセン病が発生した家庭が村落から差別を受けたなど。罹患者も家族も、村落も含めた反応を説明するに、悪は個の内部に潜在しているとの信心を共通に持っていたからに他ならない。(今は、多くの方が迷信として否定している)
自由なる概念の持ち方と行動の取り様で、日本と西洋は大きく異なっていた。突き詰めて悪と罪のあり方を比較に取れば、それらが発する位置と個の反応にも差違が見える。彼は「個は無垢、悪さは外界に」、そして我では「穢れは内に、抑えきれない悪さが悪戯する」に尽きる。
小筆は西洋を「enfer , c’est les autres=地獄は他者、サルトルの言葉」として、(南アメリカ先住民は)「enfer, c’est nous-meme=地獄は身のうち、レヴィストロースの造語」とする小文をホームページに掲載した。関心ある方にはホームページに立ち寄り頂き「地獄は身のうち2019年7月1日投稿(WWW.tribesman.asia/enfer.html)へのご訪問を乞います。
ついでに;
アムネスティなど国際人権団体は日本の死刑執行を非難する。彼ら多くは西洋的教育、風土に育った方と推察する。「悪いのは個ではない、外界だ」との信条を持っているのではないだろうか。一方、日本人は「潜在する穢れ、悪を制御できなかった個」に責任が帰結するとしている。裁判の死刑判決で遺族の感慨が報道される。小筆、全てを把握している訳ではないが「これで故人の魂が救われる」が圧倒的に多い。
彼我の差は「悪がどこに、罰は誰が」での正極の乖離である。了
「カツ丼の自由はアリサ…」で老人Kが自由を「自身の希望に沿って行動する」と取り違え、JR豊田駅前で「カツ丼~」と騒いだ顛末を報告した。しかしこの「取り違え」は誤りで、老人は日本人が固く信じている「おのれ(自)の由とする処に」通りに自由を実践したわけで、これ以外の自由など日本人は知らない。「無関心の自由」なんてのを持ち出した小筆・部族民にしても、無関心…を日常生活において実行できないし、関心が濃いなどと言い切れない。腹が減ったら天丼ではなくカツ丼を食らうから、蕃神もK老人と同類であろう。
魔が差して愛欲に耽った僧侶アベラール、下は拡大(ネットから採取)
かく「無関心の自由」を実感として理解できない。となるとフランスと日本、彼我の差とは思考・観念に寄る処ではなく、精神のより深い底の宗教、信心あるいは古くからの言い伝えにあるものと考えたのである。
これから先は仮説であり、それ以上に原初的(primitive)な推論だから妄想に近いけれどここに開陳する;
アリサにしても耶蘇教徒はおしなべて祈りを「神の保証の取り付け、神と同一の水準で生きる担保」として考えているのでは無かろうか。幾つか例を挙げよう:
カソリックの祈りとは
<神の前に自分のありのままを差し出すことです。そこでは後悔や自責の念がおこってくるのが当然かもしれません。そんなときには神にゆるしを願います>
<神が今のわたしに語りかけていることを受け取ろうとすることが祈りの中で大切です。そのために絶対に必要なことは「沈黙」>(< >はカソリック東京大司教区のネットサイトから引用)。すなわち神に、
1 ありのままの自身への許しを請う
2 語りかけを願う に集約される。
これをして部族民は「神との共存」「神との一体化」が耶蘇教徒の願いなのかと感じ取る。するとアリサが自由の意志(volonte)の依りどころを「神からの同意」として、毎夕祈りっていた事情に理解が及びそうだ。信仰を通して神との一体化を願っていたとも云えようか。神に近づけば「無関心の自由」を実践できると信じていたのだ。
さらにその奥には、祈れば「神から許される、神との一体化に近づく」の思いこみが控えるはずだ。この事をして個人の心の原点は無垢、中立であるとする信心が、宗教の成立以前に広まっていた(では無かろうか)。
自由を疎外する「悪」は外界にある。食欲は本能なので腹が減ったら何かを食べるべきで、食い物の選択には無関心が正しい、何でも良いのだ。台所、スーパーなどで手に入る食材を順次に食いつけば腹は治まる。しかし魔が差して「カツ丼旨いぞ、それを喰え」とそそのかしに乗ってしまう。そこでカツ丼を食ったらアリサは魔の僕に陥る。(女の場合は婢ハシタメとなる)。この状態を自由と呼ばない。魔が誘うは食だけではない。あらゆる選択に忍び込む。古くはリンゴを手にしたアダムに食えと迫る。エロイーズのしなやかさを前にしたアベラールに魔が「待っているのは女のほうだ」と囁きかける。
外界からの悪のそそのかしにふと乗ってしまう弱さが人には常在している、西洋のユダヤカソリック世界ではその考えである故に「個に罪は無い」。罪の原因はいつも外側である。個に罪を帰せるとしたら自律の気構えとか信仰が弱いに行き着く。プシケ(ギリシャ神話)が箱を開けたから世に罪が蔓延したとしているので、この考え方はギリシャの昔から広がっていた。
一方でアジアはとしたいのだが、小筆はアジア人を一括りにした倫理など語れない。よって日本に限定すると;
神道の教えは「穢れ」「祓い」。人、物、場所には穢れがつきまとう。穢れが人に悪さを及ぼす。神に向かうときにはお祓いしてから神域に踏み入る。神主さんに幣のお祓いを受けたり、自身が水垢離滝うたれ等苦行を経る場合もある(こちらは禊ぎと伝わる)。潜むのは穢れだけではない。罪も隠れている。
白人(しらひと) 肌の色が白くなる病気、白斑(俗に「しらはたけ」ともいう)のこと。別の説では「白癩(びゃくらい」(ハンセン病の一種)だともいう。胡久美(こくみ) - 直接には「瘤」のこと。この場合は瘤ができること。別の説では「くる病」のことだともいう(古事記が伝える国津罪、ネット辞典から採取)
上引用で言及している疾病は病原菌が特定され、ある条件の下で人が感染してしまう。罪は外部にあるのだが本邦では太古から(あらゆる病気に)罹患するとは、個の穢れからとしていた。名残なるが先の大戦の前まで人口に常在していた。キツネ憑き(特定の家系には精神不安が代々発生するとの言い伝え)、ハンセン病が発生した家庭が村落から差別を受けたなど。罹患者も家族も、村落も含めた反応を説明するに、悪は個の内部に潜在しているとの信心を共通に持っていたからに他ならない。(今は、多くの方が迷信として否定している)
自由なる概念の持ち方と行動の取り様で、日本と西洋は大きく異なっていた。突き詰めて悪と罪のあり方を比較に取れば、それらが発する位置と個の反応にも差違が見える。彼は「個は無垢、悪さは外界に」、そして我では「穢れは内に、抑えきれない悪さが悪戯する」に尽きる。
小筆は西洋を「enfer , c’est les autres=地獄は他者、サルトルの言葉」として、(南アメリカ先住民は)「enfer, c’est nous-meme=地獄は身のうち、レヴィストロースの造語」とする小文をホームページに掲載した。関心ある方にはホームページに立ち寄り頂き「地獄は身のうち2019年7月1日投稿(WWW.tribesman.asia/enfer.html)へのご訪問を乞います。
ついでに;
アムネスティなど国際人権団体は日本の死刑執行を非難する。彼ら多くは西洋的教育、風土に育った方と推察する。「悪いのは個ではない、外界だ」との信条を持っているのではないだろうか。一方、日本人は「潜在する穢れ、悪を制御できなかった個」に責任が帰結するとしている。裁判の死刑判決で遺族の感慨が報道される。小筆、全てを把握している訳ではないが「これで故人の魂が救われる」が圧倒的に多い。
彼我の差は「悪がどこに、罰は誰が」での正極の乖離である。了