2020年5月7日
ピアジェとの論争(本稿と続き=明日投稿、は部族民通信通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaに裸の男フィナーレ2として掲載されている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/72/6c/bfe19008576a899440e1cbb5a305b8cd_s.jpg)
写真:発達心理学の創始JeanPiaget
発達心理学の創始、Jean Piaget(以下ピアジェ)(1896~1980スイス)の功績をネット百科から引用する;
>知の個体発生としての認知発達と、知の系統発生としての科学史を重ね合わせて考察する発生的認識論(genetic epistemology)を提唱した。発達心理学者としては、「質問」と「診断」からの臨床的研究の手法を確立した。子どもの言語、世界観、因果関係、数や量の概念などの研究を展開した。
4段階の認知発達をへて青年期までに思考能力を獲得すると教える。その段階とは;
1 感覚運動 0~2歳 周囲(行動)と感覚が表象を通さず結びつく
2 前操作 2~7歳 自己中心性
3 具体操作 7~12歳 数と量の概念
4 形式操作 12歳以降 抽象、演繹思考の獲得(Wikipedia)<
(この段落以降は筆者)
上の1に「周囲と感覚の結合」とある。結合、ここにすでに「知」は認められる。
その知を初原的認識とするのだろうか、または知の「萌芽」とするか。赤ちゃんにも知は存在する証明である。人の子として初めから獲得している「知」が、段階を経て最終の思考(抽象、演繹)の獲得につながる。
1~4に至る「発達」の原動力とはこのもともと人が所有する「知」が形成する「思想」である(この解釈は発達心理学の理論と異なると思う)。しかるに発達心理学ではそれを「構造」の発展(変遷?)として「心理構造主義」を展開していく。
精神分析とはユングが提唱した手法で「集合的無意識」を理論の根底に置く(ネット百科から)。ピアジェは心理発展の基盤に深層心理をおいている(同)。ここで精神分析の創始フロイトとの関連が指摘される。こうした手法を「構造とその発達」に開花させた。あくまでもそれらを実学である心理学の実践的範囲での説明にとどまれば、レヴィストロース構造主義との関係は薄いままの筈だった。
しかしピアジェはその著書でレヴィストロースに論難を仕掛けた。レヴィストロースの構造には進展性、ダイナミズムがないと。
降りかかる火の粉は払わねばならぬ、反論を終楽章に挟んだ。引用の文(下)では人類学の「構造」主義を真性とし、精神分析とピアジェの心理発達を「誤りのfaussement」学説と糾弾する;
>On voit par la en quoi les interpretations structuralistes authentiques different de celles auquelles s’adonnent la psychanalyse et les ecoles qui pretendent ramener la structure d’une oeuvre individuallle ou collective a ce qu’elles appelent faussement sa genese. (裸の男、最終章Finale560頁から)
訳;そうした仕組みを鑑みると真(authentique)の構造主義(レヴィストロースが主張)とは、それらと別個のものと言える。それらとは精神分析であり、個別でも集合にしても「構造」を誤謬によって「起源genese、発達心理学」に結びつける心理学派(ピアジェ)である。
訳文の初頭「そうした仕組み」は引用文の前「Les oevres individuelles sont toutes des mythes en puissance, mais c’est leur adoptation sur le mode collectif qui actualise, le cas echeant, leur <<mythisme>>」を指している。こちらの訳は「神話とは語りであって個人的作品だが、それが「神話」の力でもある。故に、神話思想とは個々に語られる神話が、もしもの時には、集団的表象(mode)を取りいれる結果であると言える。
「真の構造主義」と「faussement誤って」を何気なく引用文に挟んでいるが、この2語でピアジェを一刀両断した。この辺りをさらに深く探る。
レヴィストロースは;
個々の神話の個別性、拡散性を認めるが、その範囲は個人(語り手)の心理変遷の枠にとどまる。神話群を取りまとめる思想が大枠を定める指摘する。個人の思考の上位に集団(社会)が共有する思想(ないし表象)を置いている。神話活動のこの仕組みは、個人語りに対して神話精神が位置して、これは形式と思想の対峙の図式となり、この対峙構造をして(真の)構造主義であるとする。
形式対思想、解説は後(レヴィストロース自身が語る構造主義)に譲る。
そして;
フロイト、ユング、ピアジェは個人の心理を語る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/6c/bfe19008576a899440e1cbb5a305b8cd.png)
写真はネットから採取。
論の進め方の共通点は「心理」を「物」に転換させて、その「物」の仕組みを語る。時には「二重性」深層と表面、また欲望と抑圧、あるいは発展、段階での足踏みなど。心理を物の仕組みにして、そこに認められる(筈の)様態を心理の発露としている。
これを構造というのであれば、そこに人がa prioriに所有する「知」は見えない。知を思想と言っても良いだろう。デカルトの智(raison)、カントの先験であるかも知れない。ピアジェの心理学では、構造に仕組まれた個人の心理はそれ自体が物であって、能動的に機械的に動き発達して行く。
心理の「物化」は実学である心理学にあっては当然の手法であろう。それを「主義化」する論にレヴィストロースは反論する。
On concedra que les structures ont une genese, a condition de reconnaitre aussi , mais l’oeuvre de Piaget n’en apporte -t-elle pas la demonstration ?, que chaque etat anterieur d’une structure est lui-meme une structure.
<One ne voit pas pourqoi il serait deraisonable de penser que la nature deriere du reel est d’etre en construction permanante au lieu de consister en une accumulation de structures toutes faites>(<>はPiaget Structuralieme50頁、本書561頁から引用)
訳;あらゆる構造は発生(une genese)を持つ(発達する)。
この論には条件付きで賛成できる。条件は構造が発達するとは前段階があるわけで、その前段階にしても「構造」でなければ辻褄が合わない。しかしこの仕組みをピアジェは説明していない。彼の文をたどると「現実の背後にある状態(nature)とは永続的に形成されていく性状であり、あらゆる構造部分が一時に出来上がった状態ではない」とある。
小筆は上引用文が両者理論の差異を明瞭に浮き出していると感じ取った。ピアジェは心理という「物」を分析している(前述)。心理なるモノの起源と発展を「発達」としている。一方、
1 レヴィストロースは神話学を展開するにあたり、人の口から語られる神話、すなわち「物=形式」を探り、さらに深く切り込んでそこに潜む「思想」を探る手法を展開した。部族、民族の思想が神話を産み出し、神話に潜むその思想が語り部をしてその語り口をcontraintes(制約、強制された概念)を掛け規制し、語りを成り立たせる。故に神話は似通い、突拍子もない粗筋はない。(ここに置ける「構造」は神話の二重三角形PDFに詳しい)
なお、
「形式対思想」の構造の仕組みは親族の基本構造(Structures Elemetaires de la Parente1947年初版)で論じられている。婚姻規則、部族間交流などの社会現象(物)はそれら裏に潜む「富の交換」「富の平準」などの思想に裏打ちされているとした。例えば交差イトコ婚など現実の婚姻形態(物)は婚姻を産み出す思想(富と知識の交換)に対峙する。この対峙が「構造」であると論じた主張そのものが婚姻にも存在すると論証した。
2 構造は発展するとのピアジェの指摘に、レヴィストロースは同意を示すが、そもそも「構造」の受け止めが異なる。ピアジェは個の心理構成(物)を構造としている。しかしこれは誤った構造主義なのだから、食い違いは埋まらない。(続く)
私事;3月の末、陽気が良かったのでロード自転車を駆って多摩川サイクル道路(多摩川遊歩道が正しい名称、歩行者が主人公の道)に乗り入れた。府中のグラウンド脇ベンチで休んでいるとご婦人二人に声を掛けられた。お話を聞くと「デザイン進化論」であった。この論は「適者生存では複雑形(例えば人の目玉)への進化を説明しきれない。原初に(神の)デザインが方向性を定めた」。反ダーウィン論です。しばらく談話して先方の「ワッチンタワーの集会に来ないか」お誘いは丁寧にお断り申して分かれました。翌朝、頭がガンガンと割れるほど痛く、熱も上昇した。新型コロナの罹患を疑うが、保健所の検査指針にまだ遠い。拙宅に籠もり塩梅を自ら検分して、10日ほど不調が続いて、何とか快癒した。コロナ、インフルでなくタダの風邪だったのでしょう。ご婦人二人との因果もなかった筈。快癒後も落ち着かず、コロナの話題をネットで拾っていた。また気分が変わったのか、読むよろこび(徳永詢=偏の言が小)に浸ってしまい、物事を書けなくなった。漸く、本日(5月7日)にパソコンキーボードに向かえました。
ピアジェとの論争(本稿と続き=明日投稿、は部族民通信通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaに裸の男フィナーレ2として掲載されている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/72/6c/bfe19008576a899440e1cbb5a305b8cd_s.jpg)
写真:発達心理学の創始JeanPiaget
発達心理学の創始、Jean Piaget(以下ピアジェ)(1896~1980スイス)の功績をネット百科から引用する;
>知の個体発生としての認知発達と、知の系統発生としての科学史を重ね合わせて考察する発生的認識論(genetic epistemology)を提唱した。発達心理学者としては、「質問」と「診断」からの臨床的研究の手法を確立した。子どもの言語、世界観、因果関係、数や量の概念などの研究を展開した。
4段階の認知発達をへて青年期までに思考能力を獲得すると教える。その段階とは;
1 感覚運動 0~2歳 周囲(行動)と感覚が表象を通さず結びつく
2 前操作 2~7歳 自己中心性
3 具体操作 7~12歳 数と量の概念
4 形式操作 12歳以降 抽象、演繹思考の獲得(Wikipedia)<
(この段落以降は筆者)
上の1に「周囲と感覚の結合」とある。結合、ここにすでに「知」は認められる。
その知を初原的認識とするのだろうか、または知の「萌芽」とするか。赤ちゃんにも知は存在する証明である。人の子として初めから獲得している「知」が、段階を経て最終の思考(抽象、演繹)の獲得につながる。
1~4に至る「発達」の原動力とはこのもともと人が所有する「知」が形成する「思想」である(この解釈は発達心理学の理論と異なると思う)。しかるに発達心理学ではそれを「構造」の発展(変遷?)として「心理構造主義」を展開していく。
精神分析とはユングが提唱した手法で「集合的無意識」を理論の根底に置く(ネット百科から)。ピアジェは心理発展の基盤に深層心理をおいている(同)。ここで精神分析の創始フロイトとの関連が指摘される。こうした手法を「構造とその発達」に開花させた。あくまでもそれらを実学である心理学の実践的範囲での説明にとどまれば、レヴィストロース構造主義との関係は薄いままの筈だった。
しかしピアジェはその著書でレヴィストロースに論難を仕掛けた。レヴィストロースの構造には進展性、ダイナミズムがないと。
降りかかる火の粉は払わねばならぬ、反論を終楽章に挟んだ。引用の文(下)では人類学の「構造」主義を真性とし、精神分析とピアジェの心理発達を「誤りのfaussement」学説と糾弾する;
>On voit par la en quoi les interpretations structuralistes authentiques different de celles auquelles s’adonnent la psychanalyse et les ecoles qui pretendent ramener la structure d’une oeuvre individuallle ou collective a ce qu’elles appelent faussement sa genese. (裸の男、最終章Finale560頁から)
訳;そうした仕組みを鑑みると真(authentique)の構造主義(レヴィストロースが主張)とは、それらと別個のものと言える。それらとは精神分析であり、個別でも集合にしても「構造」を誤謬によって「起源genese、発達心理学」に結びつける心理学派(ピアジェ)である。
訳文の初頭「そうした仕組み」は引用文の前「Les oevres individuelles sont toutes des mythes en puissance, mais c’est leur adoptation sur le mode collectif qui actualise, le cas echeant, leur <<mythisme>>」を指している。こちらの訳は「神話とは語りであって個人的作品だが、それが「神話」の力でもある。故に、神話思想とは個々に語られる神話が、もしもの時には、集団的表象(mode)を取りいれる結果であると言える。
「真の構造主義」と「faussement誤って」を何気なく引用文に挟んでいるが、この2語でピアジェを一刀両断した。この辺りをさらに深く探る。
レヴィストロースは;
個々の神話の個別性、拡散性を認めるが、その範囲は個人(語り手)の心理変遷の枠にとどまる。神話群を取りまとめる思想が大枠を定める指摘する。個人の思考の上位に集団(社会)が共有する思想(ないし表象)を置いている。神話活動のこの仕組みは、個人語りに対して神話精神が位置して、これは形式と思想の対峙の図式となり、この対峙構造をして(真の)構造主義であるとする。
形式対思想、解説は後(レヴィストロース自身が語る構造主義)に譲る。
そして;
フロイト、ユング、ピアジェは個人の心理を語る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/6c/bfe19008576a899440e1cbb5a305b8cd.png)
写真はネットから採取。
論の進め方の共通点は「心理」を「物」に転換させて、その「物」の仕組みを語る。時には「二重性」深層と表面、また欲望と抑圧、あるいは発展、段階での足踏みなど。心理を物の仕組みにして、そこに認められる(筈の)様態を心理の発露としている。
これを構造というのであれば、そこに人がa prioriに所有する「知」は見えない。知を思想と言っても良いだろう。デカルトの智(raison)、カントの先験であるかも知れない。ピアジェの心理学では、構造に仕組まれた個人の心理はそれ自体が物であって、能動的に機械的に動き発達して行く。
心理の「物化」は実学である心理学にあっては当然の手法であろう。それを「主義化」する論にレヴィストロースは反論する。
On concedra que les structures ont une genese, a condition de reconnaitre aussi , mais l’oeuvre de Piaget n’en apporte -t-elle pas la demonstration ?, que chaque etat anterieur d’une structure est lui-meme une structure.
<One ne voit pas pourqoi il serait deraisonable de penser que la nature deriere du reel est d’etre en construction permanante au lieu de consister en une accumulation de structures toutes faites>(<>はPiaget Structuralieme50頁、本書561頁から引用)
訳;あらゆる構造は発生(une genese)を持つ(発達する)。
この論には条件付きで賛成できる。条件は構造が発達するとは前段階があるわけで、その前段階にしても「構造」でなければ辻褄が合わない。しかしこの仕組みをピアジェは説明していない。彼の文をたどると「現実の背後にある状態(nature)とは永続的に形成されていく性状であり、あらゆる構造部分が一時に出来上がった状態ではない」とある。
小筆は上引用文が両者理論の差異を明瞭に浮き出していると感じ取った。ピアジェは心理という「物」を分析している(前述)。心理なるモノの起源と発展を「発達」としている。一方、
1 レヴィストロースは神話学を展開するにあたり、人の口から語られる神話、すなわち「物=形式」を探り、さらに深く切り込んでそこに潜む「思想」を探る手法を展開した。部族、民族の思想が神話を産み出し、神話に潜むその思想が語り部をしてその語り口をcontraintes(制約、強制された概念)を掛け規制し、語りを成り立たせる。故に神話は似通い、突拍子もない粗筋はない。(ここに置ける「構造」は神話の二重三角形PDFに詳しい)
なお、
「形式対思想」の構造の仕組みは親族の基本構造(Structures Elemetaires de la Parente1947年初版)で論じられている。婚姻規則、部族間交流などの社会現象(物)はそれら裏に潜む「富の交換」「富の平準」などの思想に裏打ちされているとした。例えば交差イトコ婚など現実の婚姻形態(物)は婚姻を産み出す思想(富と知識の交換)に対峙する。この対峙が「構造」であると論じた主張そのものが婚姻にも存在すると論証した。
2 構造は発展するとのピアジェの指摘に、レヴィストロースは同意を示すが、そもそも「構造」の受け止めが異なる。ピアジェは個の心理構成(物)を構造としている。しかしこれは誤った構造主義なのだから、食い違いは埋まらない。(続く)
私事;3月の末、陽気が良かったのでロード自転車を駆って多摩川サイクル道路(多摩川遊歩道が正しい名称、歩行者が主人公の道)に乗り入れた。府中のグラウンド脇ベンチで休んでいるとご婦人二人に声を掛けられた。お話を聞くと「デザイン進化論」であった。この論は「適者生存では複雑形(例えば人の目玉)への進化を説明しきれない。原初に(神の)デザインが方向性を定めた」。反ダーウィン論です。しばらく談話して先方の「ワッチンタワーの集会に来ないか」お誘いは丁寧にお断り申して分かれました。翌朝、頭がガンガンと割れるほど痛く、熱も上昇した。新型コロナの罹患を疑うが、保健所の検査指針にまだ遠い。拙宅に籠もり塩梅を自ら検分して、10日ほど不調が続いて、何とか快癒した。コロナ、インフルでなくタダの風邪だったのでしょう。ご婦人二人との因果もなかった筈。快癒後も落ち着かず、コロナの話題をネットで拾っていた。また気分が変わったのか、読むよろこび(徳永詢=偏の言が小)に浸ってしまい、物事を書けなくなった。漸く、本日(5月7日)にパソコンキーボードに向かえました。