蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Univoque余話 équivoque とは 中

2023年01月04日 | 小説
(2023年1月4日)コントが諭す「科学の在り方」とは;応用に惑わされてはならない、それ自身で自律するものだ― (前回2日投稿) 。これをカミユ「さもなくば死」と合わせると、応用での効用を気にして原理の科学を研究すれば、研究の「死」と読み替えられる。この考え方を社会の状況に当てはめると;
社会制度を運用する場において同じ状況、成り行きながら結果が、判定の曖昧さを残すまま、入れ替わる事例はあるだろうか。例えば婚姻とその儀礼を考えると両家、縁者、地域隣在を集め、然るべき立場の者が儀礼を司り、晴れて婿嫁は地域の構成員として認められる。これが婚姻制度と儀礼の意義である。しかしある時に限ってへそ曲がりが出て来て「その婚姻には反対だ」とゴネて大方が「仕方ねえ」と妥協すると、婚姻が不成立となる。左記は仮の話だがこれは« équivoque » 反応が制度を捻じ曲げたといえる。制度の死につながる。不徹底がまかり通れば、地域がまとまらない、故にあり得ない。

レヴィストロースが喝破したが如く制度は « univoque » 片務性を強制する。婚姻そして親族構造、これは制度の塊。コントが伝える「科学」と同列で、原則貫徹の原理主義が跳梁するから、片務は必ず潜在するのだ。故に制度は « univoque » を前提に運用される。それでも« équivoque » の陥穽に落ち込む時もある。「親族の基本構造」興味深い例が載っていた。

Bantou族(アフリカ南部)の既習 « lobola » を紹介する。家畜、主として牛の数頭分になり、一般に « prix de fiancée » (男が婚約者家族に支払う)婚約金とされている。Netでもそのように紹介されている。
Lobola is an essential custom practised in most South African cultures,. The groom’s family traditionally pays the bride’s family with a certain number of cows. Lobola is a fundamental requirement that any man must fulfill when marrying into an African family. (Threestreammediaから)。婿家庭が嫁家庭へ幾頭かの牛を贈る習慣(要訳)。すなわち個から個への贈りで、社会性が含まれる記述はない。これが21世紀版の« lobola »となるのだろう。

人類学の現地報告(1930年代)は幾分異なる;
Le lobola est ne peut-être une dot ― puisqu’il ne s’accompagne pas la fiancée, mais entre dans la famille de celle-ci, ni un paiement ; en effet, la femme ne fait jamais l’objet d’une appropriation : elle ne peut être vendue, ni mise à mort : elle reste placée sous la protection jalouse de sa famille, et si elle abandonne son mari pour un juste motif, celui-ci ne pourra prétendre à la restitution du lobola.(同書535頁) 
このlobolaは贈り物ではないだろう。なぜなら(嫁となる)婚約者に付属するものではなく、彼女の家庭に入るから。支払い代の意味も持たない。なぜなら(それを払ったとしても)妻は夫の所有物では全くないし、夫から悪く扱われもしない、彼女は婚家の家庭、(嫁へ)やっかみの籠もった空間に位置しているだけ。もし彼女が正当な理由で夫から逃げたら、夫はlobolaを返還してくれと要求できない。
この後、部族内での娘とlobolaやり取りの周回の様が語られ; « La raison essentielle , pour laquelle on ne peut voir en lui un paiement, est qu’il ne sera jamais consommé. A peine reçu, il fera l’objet d’un remploi pour le frère ou le cousin de la jeune mariée. (同)
Lobola が支払い代と見なされない理由はそれは決して消費されない事情につきる。それを受け取るやいなや、花嫁の兄弟あるいはいとこに回って、彼らのlobola払いに充当される。

これら記述で判断出来るのは;花婿が花嫁家に贈るlobolaは財産(牛)ながら、それを受け取る側、嫁贈り出し元には自由に使えない制約が付随している。嫁贈り元がその財を自家の男子の嫁手当に用いる、この財は流用と言うか、部族内で流通させる前条件が決められていて、自家消費できない。ならば「贈り物」ではないだろう。「嫁預かり」の供託金、部族内の財産、こうした性格が強い。
Bantou族村落では嫁を出したらその兄が、供託金を繰り回して嫁をもらえる、
嫁と家畜財が逆の周りで周回する仕組みで、画像的に捉えると女子が一方向に周回し逆回りに牛の群れが動く―二重の巡回列を頭に描くと良い。
嫁交換を介した財の周回、これは一般化交換であり財の支払い側にも受け取り側にも片務がかかる。婿は嫁待遇に気を遣う、もし婿自身の過ちで嫁に三下り半を突きつけられたら責任のすべてを己が背負い込む(あたかも嫁が婚家に居残る(仮想)状況となって、lobolaを取り戻せない)
しかし本当の破綻はそこにない。« en cas de séparation dont les torts seraient reconnus incomber à la femme » 落ち度が妻側に帰せられ、婚姻が維持できなくなった場合、 « univoque » で安定していた交換が « équivoque »に変化してしまった。これが状況を深刻に引き寄せる。


数えて牛が10頭ほど、Bantou別嬪の価値のほどが理解できる。

Bantou族の婚姻風景 (写真はいずれもネットから採取)

嫁の落ち度で破綻すれば、婿は嫁取り戻し権を行使できる。嫁の実家に要求するのは「代替」。最初の要求が嫁の兄の妻に向く。なぜなら彼、婿が艱難辛苦の果てにまとめた家畜群の牛の群れ。それを嫁兄がせしめて妻を得た。その妻、義姉こそ私の肉(ma chair)だ―との言い回しも用意されている。
Bantou語は義姉に特別の呼称を用意する« grande moukonwana » 、訳しようがないから「大姐オオアネ」様とする。オオアネと男(夫の妹の婿)の日常での繋がりは禁忌視される。言葉をかわしても、近寄っても疑われる。続く
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