(2018年2月4日)
石段のきつい上りに堪えきれず母と妻を落としたK氏の背を震わせる、「タスケテー」「オイテカナイデー」。命の懇願を振り切りつつ、一瞬だけ、振り向いた。これが今生の別れか、目の下の庭の二人、その無情無様に転げる姿を拝むかに、しっかと手をあわせ、これ聞こえよと幾分か大きく呟いた。
「親亀子亀孫亀の三位一体、連帯友愛共栄などのうわつき逃避では一人とて助からぬ、ならば一家は全滅。かくも突如、襲いかかる魔の災厄には、てんでんばらばらに逃避するこそ、生きる者の生き続ける義務、その鉄則なのじゃ。許せ、ルミコー、フミー」と引導を渡した。ルミコー以下は細君とご母堂の名前。
二人からの「オヤフコー」「ハクジョーオット」の罵りには涙を落としたが、かろうじて耳を閉じ「行くぞー」K氏は一気に門を蹴破った。一人身ならば足先軽い、幾重にくねる下り坂をテンコテンコと駆け下りた。
K氏宅の地理を述べる。多摩丘陵とされる小高い丘、浅川から河岸段丘が幾重か層をなしてせり上がり、中段あたりからは急峻な斜面をなす。その斜面の奥は平坦な台地を形成していて、昔は山の畑、すなわち桑畑。昭和の代から多摩動物園を成している。K氏宅は斜面が急峻にさしかかったあたりに位置する。すなわち後ろには動物園、前には浅川。その浅川までは下りである。K氏が目指すのは浅川畔のタカハタ。
タカハタは不動尊を中心にして商店、食堂が参道に並び、銀行は軒を連ねる。駅には日野市の他のどの駅にもない駅ビルが威容を構える。威容としたが、日野市的スケールでの形容詞なので、実はたかが4階建て、しかも商店は2階まで。それでも唯一の駅ビルである。
「駅ビルには必ず地下街がある。立川とか八王子の例であるが、これがゴールドスタンダードとされるのだ」
タカハタにだってその黄金規範は通じる、ハズさ。では何故、彼は地下街を目指すのか。これは安部首相がテポドンが飛来するときには地下街にと明言している。菅長官だって幾度も教えてくれた。あれほどの人物の言説に偽りなどあるものか。逃避先には地下街、これがK氏の思考回路にすりこまれてしまっていた。
さて、
K氏が走り抜けんとする急坂は、古くは江戸期天明から七生七曲がりと伝わるつづらに折れる難所。なれど、下りゆえK氏は楽ちん。二曲がりが歴史のはざまに消えたので五曲がり。その最後のヘアピンを曲がりきったら、まっすぐに伸びる緩やかな坂。これも一気に駆け下りて旧街道。無人の野菜販売所のインゲン包みを横目に逃して右折して、すぐに四つ角。
「ここが意外と危ない、右から、ブレーキかけずに高校生自転車が飛んでくるんだ」
かっとび自転車を用心しながら角を左に取ってアルプス前の歩行者信号。右にも左にも車は見えないが赤は止まれ。こんな時の赤ほど非情な色は他にない。
「もし他にあるとしたら、あの時の緑だな」
示し合わせて降り立った湯沢高原カグラゲレンデ、彼女とK氏の前に立ちはだかる山が緑。スキーなのに滑れる色ではない。三十年前の暖冬は非情の緑色だった。
「悲しかった、しかし今、この赤信号を無視し突っ切れば、こうした時に限って、急発進の車なんかに引っかかってしまう。パタンとぶつかりドンと撥ねられる。パタンドンでくたばったらテポドンどころじゃあない」
テンコテンコの走りを止めてパタンドンこそ免れたが、時間はそれでも逃げてゆく。待つや赤の四十五秒、腕のカシオを読むと警報から5分が経過していた。
必死で逃げ込んだタカハタ駅、そこに駅ビルはあるが地下街はない。対テポドン未改修の駅ビルを前に困惑するK氏
「二人への説得、負ぶって脱出の無駄な試みなどに時間を取られたからだ。警報を目にした途端、ドリフにうつつを抜かしていたあの奴らなど放って、脱出すればよかった」
これが後悔先に立たず。後にも立たない。なぜなら、
10分でテポドンが到着するなら残りは5分、そしてタカハタはまだ5キロ。5キロと5分を考えるにこれは相当難しい。日野市に在住した者のなかで長距離最速男とはあの「ワイナイナ」であるとはいかなる御仁からも反論は出ないだろう。ケニア出身、コニカミノルタ陸上部で脚を鍛え、シドニーオリンピック銀メダルなど数多くの好成績をあげている。かれの5キロ成績は14分4秒。ちなみに長距離の皇帝ことゲブレシラシエは5キロ12分40秒。
と言うことは警報が発せられてワイナイナがコニカ合宿部から飛び出したところで5キロの道のりだったら14分。ゲブレシラシエにしたところで、俊足テポドンの10分にはかなわない。
その上、K氏の持ち時間はたった5分、これは無理だ。途方にくれるK氏、信号が青に変わってもテンコテンコと飛び出そうともしない。諦めたか、階段で振り向いて見届けたあのうろたえ姿が今生の別れだったのか。
この時、ポケットの携帯が第2の警戒発令を報せた。
「テポドンはロフテッド軌道に変わったので到着は10分遅れる」
K氏は素早く計算した。
「5+10は15分、そしてワイナイナ5キロ14分、それに1分を足して15分、5キロなら何とか儂にも出来そうだ」
テポドンテンコテンコ 3の了
石段のきつい上りに堪えきれず母と妻を落としたK氏の背を震わせる、「タスケテー」「オイテカナイデー」。命の懇願を振り切りつつ、一瞬だけ、振り向いた。これが今生の別れか、目の下の庭の二人、その無情無様に転げる姿を拝むかに、しっかと手をあわせ、これ聞こえよと幾分か大きく呟いた。
「親亀子亀孫亀の三位一体、連帯友愛共栄などのうわつき逃避では一人とて助からぬ、ならば一家は全滅。かくも突如、襲いかかる魔の災厄には、てんでんばらばらに逃避するこそ、生きる者の生き続ける義務、その鉄則なのじゃ。許せ、ルミコー、フミー」と引導を渡した。ルミコー以下は細君とご母堂の名前。
二人からの「オヤフコー」「ハクジョーオット」の罵りには涙を落としたが、かろうじて耳を閉じ「行くぞー」K氏は一気に門を蹴破った。一人身ならば足先軽い、幾重にくねる下り坂をテンコテンコと駆け下りた。
K氏宅の地理を述べる。多摩丘陵とされる小高い丘、浅川から河岸段丘が幾重か層をなしてせり上がり、中段あたりからは急峻な斜面をなす。その斜面の奥は平坦な台地を形成していて、昔は山の畑、すなわち桑畑。昭和の代から多摩動物園を成している。K氏宅は斜面が急峻にさしかかったあたりに位置する。すなわち後ろには動物園、前には浅川。その浅川までは下りである。K氏が目指すのは浅川畔のタカハタ。
タカハタは不動尊を中心にして商店、食堂が参道に並び、銀行は軒を連ねる。駅には日野市の他のどの駅にもない駅ビルが威容を構える。威容としたが、日野市的スケールでの形容詞なので、実はたかが4階建て、しかも商店は2階まで。それでも唯一の駅ビルである。
「駅ビルには必ず地下街がある。立川とか八王子の例であるが、これがゴールドスタンダードとされるのだ」
タカハタにだってその黄金規範は通じる、ハズさ。では何故、彼は地下街を目指すのか。これは安部首相がテポドンが飛来するときには地下街にと明言している。菅長官だって幾度も教えてくれた。あれほどの人物の言説に偽りなどあるものか。逃避先には地下街、これがK氏の思考回路にすりこまれてしまっていた。
さて、
K氏が走り抜けんとする急坂は、古くは江戸期天明から七生七曲がりと伝わるつづらに折れる難所。なれど、下りゆえK氏は楽ちん。二曲がりが歴史のはざまに消えたので五曲がり。その最後のヘアピンを曲がりきったら、まっすぐに伸びる緩やかな坂。これも一気に駆け下りて旧街道。無人の野菜販売所のインゲン包みを横目に逃して右折して、すぐに四つ角。
「ここが意外と危ない、右から、ブレーキかけずに高校生自転車が飛んでくるんだ」
かっとび自転車を用心しながら角を左に取ってアルプス前の歩行者信号。右にも左にも車は見えないが赤は止まれ。こんな時の赤ほど非情な色は他にない。
「もし他にあるとしたら、あの時の緑だな」
示し合わせて降り立った湯沢高原カグラゲレンデ、彼女とK氏の前に立ちはだかる山が緑。スキーなのに滑れる色ではない。三十年前の暖冬は非情の緑色だった。
「悲しかった、しかし今、この赤信号を無視し突っ切れば、こうした時に限って、急発進の車なんかに引っかかってしまう。パタンとぶつかりドンと撥ねられる。パタンドンでくたばったらテポドンどころじゃあない」
テンコテンコの走りを止めてパタンドンこそ免れたが、時間はそれでも逃げてゆく。待つや赤の四十五秒、腕のカシオを読むと警報から5分が経過していた。
必死で逃げ込んだタカハタ駅、そこに駅ビルはあるが地下街はない。対テポドン未改修の駅ビルを前に困惑するK氏
「二人への説得、負ぶって脱出の無駄な試みなどに時間を取られたからだ。警報を目にした途端、ドリフにうつつを抜かしていたあの奴らなど放って、脱出すればよかった」
これが後悔先に立たず。後にも立たない。なぜなら、
10分でテポドンが到着するなら残りは5分、そしてタカハタはまだ5キロ。5キロと5分を考えるにこれは相当難しい。日野市に在住した者のなかで長距離最速男とはあの「ワイナイナ」であるとはいかなる御仁からも反論は出ないだろう。ケニア出身、コニカミノルタ陸上部で脚を鍛え、シドニーオリンピック銀メダルなど数多くの好成績をあげている。かれの5キロ成績は14分4秒。ちなみに長距離の皇帝ことゲブレシラシエは5キロ12分40秒。
と言うことは警報が発せられてワイナイナがコニカ合宿部から飛び出したところで5キロの道のりだったら14分。ゲブレシラシエにしたところで、俊足テポドンの10分にはかなわない。
その上、K氏の持ち時間はたった5分、これは無理だ。途方にくれるK氏、信号が青に変わってもテンコテンコと飛び出そうともしない。諦めたか、階段で振り向いて見届けたあのうろたえ姿が今生の別れだったのか。
この時、ポケットの携帯が第2の警戒発令を報せた。
「テポドンはロフテッド軌道に変わったので到着は10分遅れる」
K氏は素早く計算した。
「5+10は15分、そしてワイナイナ5キロ14分、それに1分を足して15分、5キロなら何とか儂にも出来そうだ」
テポドンテンコテンコ 3の了
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