蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

牧野富太郎、シーボルト、お滝 2 

2022年08月10日 | 小説
(2022年8月10日)高知新聞社編のMakino紹介を続けます。
前回は「お滝がシーボルトに接近できた」経緯は遊女だったからの通説を排して、蘭学を学びたいために遊女に身をやつしたなる珍妙な江戸期「元祖リケジョ」説を述べた。裏打ち証拠を部族民(渡来部)は持つわけはないが、思いつきとして切り捨てるに我ながら惜しい。間接状況はお滝の素性が並大抵ではないことを教える。
シーボルトは1828年に日本を離れた。オランダ船でオランダ領バタビヤ(ジャカルタ)に向かい、その先ライデンには東インド会社定期船に乗り込む計画であった。このオランダ船が長崎離港の直後、暴風にあおられ積荷が海岸に漂着した。この籠中にご禁制の日本地図(伊能縮図の写し)が入っていた。顛末は従来から流布されている難破説をもとにした。近年になって、越後屋長崎代理店支配人が幕府に垂れたご注進が発端との説が有力と聞く。前説をとると乗船離日の後に「日本追放」処分された。後説では出発前に追放処分を受けたとの流れ二通りが設定できる。
なぜこの順に拘るか、別れに際して二人の心境事情が異なるからである。シーボルトは3年を目処に帰国する腹積もりだった。お滝にもそれを言い含めての帰国計画であっただろう。出港前の処分であれば悲しきも重層する別れであったろう。シーボルトはお滝に寄港地パタビアから3通の手紙を出している。お滝の返信が近年発見された。シーボルトはこの手紙を肌見放さず保管していたのだ(この事情はデジタル朝日のネットで調べられる)。
手紙写真には同サイトから接近できるが、コピー転載は不可なので注釈のみを。巻の長さは3メートルを越す長文、お滝心情が崩れ女文字の達筆でルルと書き込まれている。一部を引用する;
「3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。お元気でいらっしゃると聞いて、とてもめでたく思っています。私とおいねも無事に暮らしています。船の旅を心配していましたが、滞りなくバタビアにお着きになって安心しました。不思議なご縁で数年間おなじみになっていたところ、日本でいろいろと心配事が起こり、あなたは去年帰られました。涙が出ない日はありません。お手紙をもらい、あなたのお顔を見た気持ちになり、とてもゆかしく思います。この手紙をあなたと思って、毎日忘れることはありません。おいねはなんでもわかるようになりました。毎日あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています(原本はライデン大学図書館、発見(1997年)した宮崎克則西南大学教授の提供、デジタル朝日から孫引き)
「不思議なご縁」「数年のなじみ」「日本で色々と心配事が」に拘りが生じた。


手紙に記されている何でも分かるいねは3歳だった。日本で始めての女医、長崎の医院を閉じて上京した晩年の写真。ネットから採取。


3の拘り、その最後の「心配事が…」の意味合いをして、追放に至った事情を二人が再確認しているかに受け止められる。別れにはすでに「国外追放、日本再上陸禁止」が決まっていた。「もう二度と会えない」をひしと感じていた別れであった、文面は二人が悲しみを分かち合っていた事情を伝えている。越後屋の幕府ご注進に真実味が帯びる。
難破説によると3年の後の再開を確認する希望に包まれる別れであった。それに対して越後屋仕掛けでは二度と会えない覚悟の別れ、いずれが悲しいのだろうか。悲しさの軽重を問えないけれど、もはや会えない別れには諦めが悲しみに重なり襲う。お滝にしてもシーボルトも悲しみが副層した心情を内に秘めて別れに望んだ。これがシーボルトの長崎船出であった。学名にOtaksaを配した彼の心境を牧野富太郎に後にする。
前の2の拘り「不思議なご縁」「数年のなじみ」に戻る。なじみは「なじみ客」に通じる。同じ遊女に久しく通う客、その遊女の意味合い。しかしこれは第二義である。第一義は「長年月馴れ親しむ」(大野晋編岩波古語辞典から)。男女、夫婦関係に用いられる。幼なじみは昔からの友人を言う、仏語mon vieuxにあたる。ご縁に関しては「夫婦、親子など人間のつながり」(岩波古語辞典)。「縁を結ぶ」「縁は異なもの」などナジミの格言に用いられる、こっちはdestinか。
接した文は一部であるが、文調を通して睦み合う夫婦の様が読み取れる。しかしこれらをして遊女ではないは速すぎる。
さて手紙は1830年(天保元年)12月の日付が書き入れられている。
当時の女性の教養の程度を小筆は知らないが、遊女であっても読み書きはモノにしていたかもしれない。寄席小話で足が遠のいた上客に遊女が来ておくれな、催促の手紙を出す逸話も聞かれる。そうした端文と長文の作文能力は別である。手紙ならばまず時候の挨拶、相手と家族への思い図り、そして己と家族などの近況報告、続けて懐かしみと恋慕の心情の吐露、締めくくりの祈り。こうした構成で3メートル文を書きこなすには相応の教育を受けなければ難しい。
それをこなしたお滝の才能は一時の寺子屋教育では難しい。女子の読み書きそろばん教育には2~3年が平均だったとも読んだ。
3年期限で再来日するとの約束は本気であった。シーボルトの再入国禁止は日蘭友好条約の締結(1858年)で解除になって、翌年彼は来日した。3年が30年に伸ばされたけれど約束どおりに長崎に戻ってお滝との生活を再開した。やはりお滝への恋慕をそれほどに強くもっていたのである。このような状況をしてお滝は遊女ではないと思うのですが。


自由民権の闘士富太郎(中央)、写真はMakinoからデジカメ。

牧野富太郎、シーボルト、お滝 2  の了(次回は8月12日)

ピンカートンはお蝶に手紙を送っていないし。

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