(2022年8月12日)シーボルトが日本で発見し西洋に持ち帰った植物新種のなかで、紫陽花が西洋植物学者や園芸好事家の注目を最も集めたと、花姿と花弁の色変化から部族民は想像している。シーボルト命名の学名Hydrangea Otaksaに戻る。3年の蜜年を長崎鳴滝でお滝と過ごしたシーボルト。彼女を「オタキサン」と呼んでいた。富太郎が長崎旅行で確かめたのは謎のOtaksaの意味が彼の妻、というか愛人の呼び名に由来していた驚き発見だった。命名にあたっての私情を紛れ入れたシーボルト事情は富太郎を怒らせた。この経緯を学会雑誌に発表し義憤を晴らした。
この年を同書の暦年図録の長崎旅行から推測すると明治41年(1907年)富太郎45歳。しかし後のどんでん返しに富太郎が襲われる。
(シーボルトが申請したHydrangea Otaksaは以前に申請されていたHydrangea Macrophilla水辺を好む大きな葉と同種とみなされ受理に至らず、Hydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと認定された。Otaksaをより高位に置くシーボルト命名が受理されていると富太郎は、その時、勘違いしたらしい。後の「牧野植物図鑑」では上記の正しい学名でアジサイが紹介されている。本投稿は二の碩学心理の動きを対象とするので、以上は参考までに)
どんでん返しを時系列で読むと。
発見した経緯は「昭和2年(1927年)札幌からの帰途の仙台で植物学者木村有香(富太郎の弟子)の案内を受け新種のササを発見した」(Makino136頁から)その時の富太郎は65歳、「東京帝国大学で理学博士の学位を得て全国各地を飛び回って充実した1年を過ごした」(137頁)
私生活ではこの年は苦労が重なる。妻の寿衛(スエ)の病状が悪化して東大病院に入院となった。一旦退院、帰宅はあったが翌年(3年)に再入院となった。この退院の背景を本書は詳しくは語らないが、入院費が支払えない事情をほのめかす。再入院してまもなく蓄えが底をつき費用を払えず、強制退院の騒動を横に見て寿衛は息を引き取る。
前年、仙台で発見した新種のササを「54歳で亡くなった妻の寿衛を偲んで」スエコザサSasa Suwekoana Makinoと命名した。おや、シーボルトへの非難と比べると富太郎だって私情を入れてる、これは筋が通らないぞ。富太郎の変節ぶりへの説明を本書は「シーボルトのことを忘れていたのか、そんなことはどうでも良くなっていたのか。それとも、シーボルトの思いと重なる己を理解したのか」(141頁)と結論を持ち越す。
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富太郎が発見、命名したスエコ笹。ネットから採取
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「シーボルトがお滝さんの名を学名として献名したのは少々プライベートすぎる。寿衛子夫人は立派に研究を援助した研究関係者である」こうした見方も本書に紹介されている(元高知学園短大学長上村登)。上村氏は富太郎の弟子筋にあたる。好意の解釈が日本植物学の界隈では一般であろう。
ジャック・ラカン(哲学精神分析学)は何と説明するか。
親しい者の死を見届けるとは現実原理 ( Principe de réalité )の心理である。その受け止めとは « apprentissage » 修練の仕組みであり « トラウマle trauma、固定la fixation、再生産la reproduction、転移le transfert » に分解される。(GooBlog2022年7月6キルケゴール解体)部族民通信ホームサイトではhttp://tribesman.net/lacanrealite1.html)。
日本人の心理傾向からこれを言い換えるとまず心傷トラウマを抱える。哀しみと固定してfixation幾度も偲び返すreproduction。そうした哀しみ状態を乗り越えるとして心の転移(transfert)を試みる。ラカン著のセミナーIIではmirage 蜃気楼を求めるとも記載される。日本語はそれを面影と伝える。面影を追い求める行為が追憶となり、幾度も幾度も、見果てぬ影を追う。
富太郎にあって妻の寿衛の追憶の証が学名への献呈であったのかもしれない。同じ苦悩をシーボルトが抱えていたはずだ。追放、再入国まかりならぬの処分を受けて1829年の別れの出国。オランダライデンに居を構えても1830~50年代には日本は厳しい鎖国としか情報を得られない。二度と長崎の地を踏めないとの覚悟が生き別れ、シーボルトの苦悩。
お滝の面影を学名に移し替えたとは現実原理の為せる心理行為からであろう。富太郎と同じ心理の流れtransfertをシーボルトが一世紀前に経験していた。否、彼の苦しさは富太郎のそれ以上であろう。寿衛と富太郎は死に別れ、シーボルトを襲った運命がお滝との生き別れ。生き別れが死に別れに比べ何層も辛いとは古く伊勢、源氏物語にも参照できる。
♪世の中にあらん限りやスエコ笹♪(寿衛の墓碑、本書から)
シーボルトの苦悩、アジサイにも思いを巡らそう。
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アジサイ、牧野原色植物図鑑からデジカメ。正しくHydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと記される。
牧野富太郎、シーボルト、お滝 3 の了 (次回は8月15日、昭和天皇と富太郎、最終)
この年を同書の暦年図録の長崎旅行から推測すると明治41年(1907年)富太郎45歳。しかし後のどんでん返しに富太郎が襲われる。
(シーボルトが申請したHydrangea Otaksaは以前に申請されていたHydrangea Macrophilla水辺を好む大きな葉と同種とみなされ受理に至らず、Hydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと認定された。Otaksaをより高位に置くシーボルト命名が受理されていると富太郎は、その時、勘違いしたらしい。後の「牧野植物図鑑」では上記の正しい学名でアジサイが紹介されている。本投稿は二の碩学心理の動きを対象とするので、以上は参考までに)
どんでん返しを時系列で読むと。
発見した経緯は「昭和2年(1927年)札幌からの帰途の仙台で植物学者木村有香(富太郎の弟子)の案内を受け新種のササを発見した」(Makino136頁から)その時の富太郎は65歳、「東京帝国大学で理学博士の学位を得て全国各地を飛び回って充実した1年を過ごした」(137頁)
私生活ではこの年は苦労が重なる。妻の寿衛(スエ)の病状が悪化して東大病院に入院となった。一旦退院、帰宅はあったが翌年(3年)に再入院となった。この退院の背景を本書は詳しくは語らないが、入院費が支払えない事情をほのめかす。再入院してまもなく蓄えが底をつき費用を払えず、強制退院の騒動を横に見て寿衛は息を引き取る。
前年、仙台で発見した新種のササを「54歳で亡くなった妻の寿衛を偲んで」スエコザサSasa Suwekoana Makinoと命名した。おや、シーボルトへの非難と比べると富太郎だって私情を入れてる、これは筋が通らないぞ。富太郎の変節ぶりへの説明を本書は「シーボルトのことを忘れていたのか、そんなことはどうでも良くなっていたのか。それとも、シーボルトの思いと重なる己を理解したのか」(141頁)と結論を持ち越す。
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富太郎が発見、命名したスエコ笹。ネットから採取
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「シーボルトがお滝さんの名を学名として献名したのは少々プライベートすぎる。寿衛子夫人は立派に研究を援助した研究関係者である」こうした見方も本書に紹介されている(元高知学園短大学長上村登)。上村氏は富太郎の弟子筋にあたる。好意の解釈が日本植物学の界隈では一般であろう。
ジャック・ラカン(哲学精神分析学)は何と説明するか。
親しい者の死を見届けるとは現実原理 ( Principe de réalité )の心理である。その受け止めとは « apprentissage » 修練の仕組みであり « トラウマle trauma、固定la fixation、再生産la reproduction、転移le transfert » に分解される。(GooBlog2022年7月6キルケゴール解体)部族民通信ホームサイトではhttp://tribesman.net/lacanrealite1.html)。
日本人の心理傾向からこれを言い換えるとまず心傷トラウマを抱える。哀しみと固定してfixation幾度も偲び返すreproduction。そうした哀しみ状態を乗り越えるとして心の転移(transfert)を試みる。ラカン著のセミナーIIではmirage 蜃気楼を求めるとも記載される。日本語はそれを面影と伝える。面影を追い求める行為が追憶となり、幾度も幾度も、見果てぬ影を追う。
富太郎にあって妻の寿衛の追憶の証が学名への献呈であったのかもしれない。同じ苦悩をシーボルトが抱えていたはずだ。追放、再入国まかりならぬの処分を受けて1829年の別れの出国。オランダライデンに居を構えても1830~50年代には日本は厳しい鎖国としか情報を得られない。二度と長崎の地を踏めないとの覚悟が生き別れ、シーボルトの苦悩。
お滝の面影を学名に移し替えたとは現実原理の為せる心理行為からであろう。富太郎と同じ心理の流れtransfertをシーボルトが一世紀前に経験していた。否、彼の苦しさは富太郎のそれ以上であろう。寿衛と富太郎は死に別れ、シーボルトを襲った運命がお滝との生き別れ。生き別れが死に別れに比べ何層も辛いとは古く伊勢、源氏物語にも参照できる。
♪世の中にあらん限りやスエコ笹♪(寿衛の墓碑、本書から)
シーボルトの苦悩、アジサイにも思いを巡らそう。
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アジサイ、牧野原色植物図鑑からデジカメ。正しくHydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと記される。
牧野富太郎、シーボルト、お滝 3 の了 (次回は8月15日、昭和天皇と富太郎、最終)
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