蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

親族の基本構造の結語章7 機能主義批判 

2021年10月18日 | 小説
(2021年10月18日)Malinowskyの主張(前回15日)は「家族構成員はそれぞれが役割(機能)を受け持つ。父親は子への教育を遂行し(家庭内での機能)、子は恭順に。ならば家族混乱も避けられる」
さらに、
「家族という単位が族民社会で特定の機能を持ち己の立ち位置を確定する」とも語る。家族内で構成員それぞれが機能を持つなかで、世代を越しての近親姦に溺れると家庭が成り立たない。機能と遵守、これが禁止の起源である。
分かりやすい説明ではあるが、本当にそうなのか?
この説明はレヴィストロースが伝える「系統filiationを確定し同盟allianceを捜す。これが文化」とは異なる。Filiationは機能ではない。それ自身が使命として実在する。Allianceにしてfiliationと同格であるから、機能ではない。
さらにレヴィストロースは行為としての近親姦淫を論じない。「それはあるだろし想定するよりも頻繁かもしれない」と語るのみ。前向き。後ろ向きの色付けで取り上げていない。
禁止について「禁止される間柄と血縁の近さ遠さ関連はない」と指摘する。
同じ生物距離の近親でも「婚姻できる相手」と「出来ない組み合わせ」が対立する。交差いとこ婚を推奨する社会では平行いとこ(母の姉妹の娘、父の兄弟の娘)婚は禁止される。そうした社会では並行いとこを「姉妹、女からは兄弟」とする呼称を採り入れている。呼称は言語体系であるから、文化そのもの。婚姻をめぐり推奨する禁忌を設ける、このあり様の発生は文化であり、それをして社会の基盤であると述べる。
続けて:
<Il est fâcheux , pour cette thèse, qu’il n’existe aucune société qui ne lui inflige une contradiction flagrante sur chaque point.(557頁)
訳:この課題(子の教育)に対しては、それら指摘の各各に明確なる反対事実を用意していない部族社会など存在しないからこそ、(同氏の主張は)不快である。
指摘の各各とは父親が娘を教育するとか、その逆、母が息子に教育、あるいは兄弟姉妹が家庭内部の勉学で接近する状況を指す。族民社会において、家庭内にそうした機能を与える、これはあり得ないとするレヴィストロースの反論です。
形容詞fâcheuxは頻繁には用いられない。意義は「qui est une cause désagréable=不快を催す」かなり厳しい。それほどにも強く批判するレヴィストロース反論の根拠は;
(続く文節で)部族社会での子の教育の関心は西欧社会よりも高い。思春期、いやそれ以前には(男子の)教育は成人男子が教えを担う族民集団に託される。
<Les rituels d’initiation sanctionnent cette émancipation du jeune homme , ou de la jeune fille , de la cellule familiale>(同)
訳:成人式の祭礼が男子に時に女子から、家族の核の開放を祝福する。

教育主体は族内集団にあり家族内に存在しない。Malinowskyが想定する「世代、年齢を越えた教育場での接近」が家族で発生することがあり得ない。まして彼が現地調査したトロブリアンド諸島は通過儀礼(成人になるまでの試練)の過程(カリキュラム)がとりわけ厳しいメラネシアに属する。そこに幾年も滞在(一次大戦で帰国が延びた)した彼が、当地の風習ではあり得ない「家族教育」なる仮想を担ぎ出した。その無頓着にレヴィストロースが不快を覚えたと感じる。
蛇足:先住民社会では男子と女子が必要とする知識は全く別の様となる。男子は狩り、戦闘、用具の制作と手入れと実践。女子は採取農耕、被服家具什器のそれとなる。父親は娘に何も教育できないし、母と息子の間にしても同様。性差は知識の偏差を拡大する。機能主義から近親婚禁止の説明は全く辻褄が合わない。


バンジージャンプの起源はバヌアツ共和国ニューヘブリディーズ諸島にあるペンテコスト島で行われていた通過儀礼(成人式)である。(=文と写真ikipedia)。父はジャンプに怯える息子に「怖くないぞ」と励ますことはあろうが、娘に機織りの技法を教えられない。



批判の矛先は心理学人類学に向けられる。
心理学の手法による近親婚の禁止、これに対するレヴィストロースの見解は序章(introduction)でも展開している。解説をホームサイト(www.tribesman.net)で取り上げている。父に反発し母を慕う心情をオイデプスコンプレックスとする。これが近親姦の源であるとフロイトらが説く。
レヴィストロースの反論は;
ビフテキをレアーで食したい欲望はおそらく人類全個人が持つ、故に世間では食ってよろしいと認められている。もちろん正当な過程を経て食すべし。もし母と結合したいという劣情を人類の全個人が抱くなら、それを認めれば良いじゃないか。世の中に軋轢が一つ減る、社会が安定する。Laissez faire(気の済むままに)にしておけと。しかしながらこのように許す社会は存在しない。
「上下婚(親子たわけ)水平婚(兄妹たわけ)の禁忌は、ビフテキ喰いの推奨と異なる原理に支配される」。制度規則、文化の舞台である。親近の近さ遠さとは無関係の決まり、しきたりを制度に取り入れる文化である。結語章(conclusion)では序章と同じ論調ながらより洗練された言い回しを用いる。
そんな一節<L’état de nature ne connait que l’indivision et l’appropriation , et leur hasardeux mélange. (562頁)訳:自然状態とは「非分割indivision」と「横取りappropriation」のみで成り立つ。

「非分割」と「横取り」は換喩。
非分割の解釈は、前文が文化としての婚姻制度を語っているので、自然界の世代再生産について形容していると睨む。本書序章Introductionでは「自然は生物学的系統」(=遺伝)を管制するのみであるとした。「子は親に似る=レヴィストロース」が自然の法則らしい。世代をまたいでも形質が繋がる自然摂理を分断なしのindivisionと表現していると解釈する。では横取りappropriationは;
スタンダード辞典の第一義を取って横取り、横領を訳にしたが、これでは後ろ向きの語感を与える。Robertは<de rendre à son propre>。己の独自に戻す、より前向きに訳すと「自家薬籠中の物にする」。自然再生産で生物の系統は連綿と続くのだが、取り入れた遺伝情報が環境に適化すれば、それを種として「横領」否「自家薬籠中の物」にしてしまう。
進化の表舞台、メンデルと遺伝淘汰を語っている。
<hasardeux mélange偶然の混合、遺伝子の混じりで優勢者が>の語の意義もこの解釈が適切と教える(ようだ)。


親族の基本構造の結語章7 機能主義批判 了(2021年10月18日)

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