蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 1

2019年04月17日 | 小説
2019年4月17日
前文:2016年の本ブログサイトにて、幾回かに分けてレヴィストロース著の悲しき熱帯「猿でも構造悲しき熱帯」を紹介した。今にして読み返してみると部、章の構成の説明など、単なる紹介となっている。当ブログ立ち寄り、この作品とはなにを訴えるのか、言ってみれば本書の神髄を知りたい愛好者には物足りない筈である。よって今回、書き換えた。書き換えの方法は「旅」を二例取り上げ、解釈し理解した範囲を書きつづった。
(3回に分けて投稿する、各回、それぞれブログにしては長いようだが、皆様のご精読を期待します)

本文:
1955年に出版された悲しき熱帯(TristesTropiquesクロードレヴィストロース著)は1935年から作者の生活、旅亡命、調査など20年の出来事を、思い出すままに書き連ねた作品です。パリは洛陽、その紙価を高めたヒット作でもあり、構造主義の旗手との文壇での位置を定着させた作品です。小筆にして原文に接するは初めてながら、辞書を片手に読み進めるなかで、このあらましを語らんと決意した次第である。写真のポケット版はネット通販にて購入(2015年12月)

写真:ポケット版、ネット通販で購入した

特徴;
1 文体は言うところのレシ(recit)で語られている。
主人公「je私は」の語りを通し、筋の流れが進む。例えればジッドの狭き門、日本古典「土佐日記」で用いられている「journal」のスタイルである。「私なる」男が外界世界をどのように受け止め、解釈を深めていくかに本書のテーマが成り立つ。学術文になり得ないから人類学、哲学の素人にも分かりやすい。反面、森羅万象の取り巻き世界を神の目の三人称で分析するロマン(roman)と較べ、投げる視点の目の先が足下を越えない。筋道の仕掛けは拡がらないとされるが本書はいかに。

2 1954年、レヴィストロースはコレージュドフランス(College de France)教授職、人間博物館(Musee de l’homme)館長職の就任を学会の主流派(ノルマリアン:高等師範学校の卒業生で構成される(らしい)。レヴィストロース本人はソルボンヌ学部卒)から拒否された。失意の彼に友誼の手を出したのがマロリー(Jean Malaurie、歴史地理学、イヌイット研究者、鯨街道allee des baleines,鯨骨を列に並べたカムチャッカ先住民の祭祀跡の調査で著名、2019年4月現在97歳にて存命)。「人間の大地叢書Collection Terre Humaine」向けに書き下ろしを依頼された。この叢書はマロリー本人が創設し、自身の筆になる配本第一回の「Thule族最後の王」は世間を賑わし、熱気をよりましにの期待が掛かった。
出稿条件は人類学の資料価値を持ちかつ「一般読者が読める」。これは難儀であったろう。当初3人称で執筆を予定したが、recitに換えた(本人の述懐Youtube、Apostropheから)その意図は「一般読者」への焦点合わせにあると思う。
レヴィストロースは1954年10月から、4ヶ月で書き上げた(本書の奥付から)。これが今から65年前、昭和29年、お富さん♪(春日八郎)で海の向こうのニッポンは浮かれ元年である。
(余談;Maluarie学歴はHenriIV名門校ながら高卒、Ecoleに入学したがナチス兵役を拒否極地民族の研究に専念した)

3 497頁に及ぶ大作にはあるがフランス語初心者にも原書で読み下せる。素直に面白さにのめり込む読感は原文挑戦の報酬と言えるか。文体の魅力、曲がりくねりの修辞、思考過程の絡繰りが行間に脈絡として潜む。思考根本に構造主義が確かに居座る。表現と思索の乖離とつながり、これらが知的好奇を奮い立せる。それが読み手の身の中、頭の範囲。理解に至深さも浅さも己れ次第と思いこもう。

ある方が「リセ上級=高校生に理解できる程度」と判定した(と聞いた)。誠に正しい判定であろう。小筆にして、一行数語一頁の意味を求めるに幾度も頭をひねる。小学生程度の語彙力ならば致し方ない。
フランス語は動詞の意味は深い。別の言い方をとれば、思考する手順の差異が動詞の意味合いの隔離に現れる。変化形を知り活用と時制に気を配り、原型に見当がつくなら辞書に尋ねられる。動詞が真意が分かれば文の解釈に近づける。
皆様には原書の読みおろしを勧めます。
「悲しき熱帯」完訳(川田訳)は河出書房から出版された。ネット通販で今も購入可能かと。レヴィストロースが4ヶ月でさらり書き上げた語りの翻訳に、完全主義川田は14年を費やしハードバック2冊に仕上げている。渾身の訳は完璧です。あえて欠点を挙げると川田は南米民族の研究者ではない。訳文の調子にレヴィストロースが抱いている先住民への愛着が感じられない。洒脱が薄れ、原理姿勢の川田の厳格世界に化けている2点です。

書き出しは<Je hais les voyageurs et les explorateurs >訳;私はあらゆる旅行者とあらゆる探検者が嫌いだ。
旅そのものが嫌いなら単数leで事足りる。定冠詞複数「lesあらゆる」の意味する処とは旅にはいろいろ種類があるが、どんな旅でも嫌いだと言っている。そしてこの「嫌い」は語義の通りで否定的意味しかない、しかしなぜ著作の冒頭に持ってきたのか。民俗学、社会人類学とは現地調査(フィールドワーク)をもって研究の基盤とする。レヴィストロースはブラジル先住民調査を2度に分け実施し、ビルマ(当時)の南西に住む回教徒系村落に(大戦の後)現地調査を敢行している。
そして実地調査ではない旅をも経験した
これらの旅、調査を後悔するのか。本文の最終節に「旅」を後悔する顛末があるけれど、それと関連つけても面白くない。哲学的理由があるはずだが。

全ページの紹介は不可能なので本投稿では「非熱帯」2件と「熱帯」を一件を取り上げる。

非熱帯のパリ。
大戦前のフランス国内事情。学部生の頃、主任教授(心理学Dumas)の風貌、一風変わった心理調査法。1934年ある秋の日曜日は朝9時、高等師範学校学長のBougle(哲学、社会学)から突然の電話を受けた。薫陶を受けるも、それほど彼とは親しくはなかったと記している。幸運にもこの電話にレヴィストロースは対応できた。クリスチャンだったら教会に出かけていたはず。
CelestinBougle(1870-1940)がレヴィストロースを新設のサンパウロ大学社会学教授に選んだ(ネットから)。

写真:レヴィストロースをサンパウロ大学教授に選んだBougle

<d’abord je n’etais pas un ancient normalien>(47頁)最初の疑問、私はノルマリアン(高等師範学校卒業者)でないのに。
学部卒の彼には当然の疑問であった。彼の地ではキャリア形成に有利なポストはノルマリアンに優先分配される(らしい。小筆は知らない)。レヴィストロースへの提案は;
<Avez-vous toujours le desir de faire l’ethnographie? Posez votre candidature comme professeur de sociologie a l’Universite de Sao Paulo. Les faubourgs sont remplis d’Indians, vous leur consacrerez vos week-ends. Mais il faut que vous donniez votre reponse definitive a Geoges Dumas avant midi>(同上)
訳:君は民族誌学を続ける意欲をもっているのか。それならサンパウロ大学の社会学教授に応募したまえ。あの街には路々、至る所に先住民(indians)が溢れているから、週末にちょいと外に出て実地調査ができる。気持ちがまとまったら12時前にDumas(学部主任教授)に伝えてくれ>

サンパウロ大学教授に選任された経緯である。
フランス式ポストの割り振りの実態がこのやりとりで覗えます。
サンパウロ大学に新設教授職、フランスに依頼が寄せられた。依頼は外交筋から、ブラジル大使館からフランス政府に依頼された。これを受けたフランス文部省は高等師範学校長に人選と任命権を下した。ここまでは当然の流れ。学長としては手駒ecurieのノルマリアンから選ぶ。上の一人が必ず独断で決める、フランス式と言えます。
なお、Bougleが自信をたっぷりに請け負った、テントで路上生活している「サンパウロ街中の先住民」は赴任し、虚構と知ることになる。

学部卒のレヴィストロースはこの(公開のはずの)募集を知らなかった。そしてなぜか部外のレヴィストロースに白羽の矢が飛んできた。応募しなさいとは言い回しで、すでに彼に決まっているも同然です。推察するに、学会の主流でない民族誌学は高等師範学校のカリキュラムに無かった。(哲学の御大の)手駒からは社会学教授に適任を選べなかった。もし哲学教授であるならこの時期にはサルトルもポンティ(両者ノルマリアン)もいたから、そちらにお鉢が回ったか。確かにLevy-Bruhl Maussなど民族学者の先学の職位はソルボンヌ等の学部であった。いや、そうではない。教授資格試験(agregation)でレヴィストロースの論文dissertationが優秀だったからで、哲学人類学者の若手として注視されていたと前向きに考えよう(このとき25歳)。
ブラジルへの船旅で<le coucher du soleil落日に寄せる>をしたためている。これを別投稿で解説する。

非熱帯の旅;
サンパウロ大学、ブラジル先住民調査、帰国。まもなく第二次大戦、連絡将校として応召、そしてl’Armistice=仏独休戦協定(1940年6月22日)、2回ある休戦の第2次大戦の方。兵役の任を解かれ、住居を持つモンペリエに戻ってからフランス脱出までの経緯。
レヴィストロースはユダヤ系で知識階層、ナチスドイツの占領下では拘束される怖れが多大に残る。実際、大戦前のユダヤ系指導層、たとえばLeon Blum(左派政治家、前首相)は拘束され強制収容所に送られ、すんでのところでガス室行きだった。
頭上を覆う暗い雲、それは個人では振り払えない。悩むレヴィストロースにアメリカの社会人類学者(Robert H Lowie)から「社会研究の新しい学校」への参加招聘状が届いた。ロックフェラー財団が進めている「ナチスドイツ占領による迫害から著名人を救済するプログラム」に選ばれたのである。
しかし、どうやってフランス(ヴィッシー政府)を脱出するか。

かつてのよしみ、在ヴィッシーブラジル大使館にビザ発給を申請した。大使に面会の運びとなって旧知を温め(サンパウロ大学赴任に当たり面会している)ビザ発給に進み、公印を押そうと腕を振り上げた大使に、脇に控えていた書記官が耳打ちした。大使の腕が宙に止まる。パスポート余白に落ちるはずの印が脇に流れ、ブラジル行きは泡と消えた。
<Pendant quelques secondes le bras resta en air. D’un regard anxieux, presque suppliant, l’ambassadeur tenta d’obtenir de son collabollateur qu’il detournat la tete tandis que le tampon s’abaisserait, me permettant ainsi quitter la France …>(18頁)
部分訳;その公印が私をフランスから出させてくれる筈だったのに.....場面は大使の実名で語られます。

マルセイユからマルチニク(カリブ海アンティーユ島、フランス海外県)に出航する便があると聞きつけた。(偶然にうわさ話を聞いた風で語られるが、これにはしっかりした裏があった)
ナチスの締め付けが海外県への定期便の乗客規制にまで及んでいなかったのだろう。本土から海外県に渡る、東京から大島に旅すると変わりない、査証は必要なし。さらにマルチニクはナチス統治が及んでいないし、カリブ海はアメリカの勢力圏なのでこれからもナチスが乗り込む可能性はない。この船に乗りさえすればナチスから逃れられる。一方、ユダヤ系でヨーロッパ脱出希望者は多い。出港は一隻、この便が最後となるだろう。船会社の計らいで収容限度を大きく越しての乗船が許可された(語り口を読む限りでは、こうした筋書きになる)。
レヴィストロースは最後の望み(Capitane Paul-Lemerle)に乗り込めた。乗客の多くがユダヤ人。

写真:Capitane Paul-Lemerleの船容、偶然に乗り込めた書き方だが、裏があった。ネットVarianFryのHPから。

船は本土と海外県との定期運行を担うパクボpaquebotである。郵便貨物を運ぶために設計されている。乗客用にはキャビネットが2室、男女に分けての相部屋。合わせての定員は7。そこに350人が乗りこんだ。急ごしらえ、雑魚寝窓なしの船底には、幸運な7人を除く340人余が押し込められた。(paquebot現在の意味はクルーザー大型の客船だが、かつては郵便船)
レヴィストロースは7人の一人に選ばれ、キャビネットになぜか潜り込めた。この特例待遇の背景とは船会社に「ブラジル行き帰りで幾度か乗船していた得意だったから」と慎み深く語るが信じ難い。イニシャルのみMBと記述される人に世話になったとさらり流した。そのMBが誰かは特定できない。
同室4人の男の描写に幾行か費やす。オーストリア人金属商(フランス人を押しのけて乗船なら相当な資金をつぎ込んだ筈の注釈)、ユダヤ人らしからぬ謎の北アフリカ人は「鞄valiseにDegasの一幅が納まっている、これをもってニューヨークに行って一日滞在してフランスに戻る」と主張している。戦争の最中に名画の密輸、一幅に何やらのいわくがあり得る。船の上での衛生状況、朝夕のトイレットの仕組み、人々の精神状態にも詳しい。

Victor George(スターリンと対立したトロッキィ派の共産党員、彼も追放された)Andre Breton(作家シュールレアリスト)との邂逅の様子も語られる。船上のGeorgeについて<son passe de compagnon de Lenine m’intimidait en meme temps que j’eprouvait la plus grande difficulte a l’integrer son personage, qui evoquait plutot une vieille demoiselle>(20頁)レーニンと同胞だった過去を知るから、彼に声を掛けるを戸惑う。同時に、その武勇譚と人となりを重ねるには苦労がいった。未婚老女かと見違えるほどか細い風貌と立ち振る舞いを見せていた。
ナチスから逃亡に成功はしたものの、反共産主義に固まった米国を追われ1947年にメキシコで死ぬ(Wikiによる)

Bretonの様子<La racaille, comme disaient les gendarmes, Andre Breton, fort mal a l’aise sur cette galere, deambulait de long en large sur rares espaces vides du pont, il semble a un ours bleu>(20頁) 訳;(乗船時に乗り込み客を一般から隔離していた)憲兵警察の誰からも屑やろうとののしられたBretonは、この徒刑船の境遇になじめず、船橋のわずかばかりの隙間を、縦に横に歩き回る姿は青い熊に見えた。(目的なく行ったり来たりする行動はours en cage檻の熊に喩えられる)

レヴィストロースがやっと乗り込めた海外県定期船、Capitaine Paul Lemerle号(ネットVarianFryセンターから)

さて、ユダヤ人の生き残り作戦とはヨーロッパを離れるのみ。
受け入れる側アメリカ、カナダは亡命受け入れ基準を、それぞれの思惑で作成していた(と思われる)。普通市民、取り立てて技能は無い業績もない、ユダヤ人には拒否を貫いた。セントルイス号事件が例にあげられる。乗客900人のアメリカカナダ上陸拒否(1939年、ユダヤ人がビザを持たずにドイツから同号で出国した。正しくはキューバ上陸の許可は得ていたが、上陸する直前に入国を拒否されて上2国に回航したけれど)が挙げられる。
一方で「この人ならと」歓迎する「選良」も設定されていた。学術芸術に分野を絞り、なにがしかの業績を上げている若手を受け入れる。レヴィストロースはこの選に入った。世界的権威や卓越した芸術家には「レッドカーペットとファンファーレ」的歓待で迎える。アインシュタインとハイフェッツはその範疇に当たる。亡命許可を受けてから半年あまり、ヨーロッパ各都市で「バイオリン巨匠、最後の演奏会」なるコンサートを渡り開いたハイフェッツは、亡命騒ぎで大儲けした。

なぜレヴィストロースは逃避の旅をかくも詳細に語ったのか。
次回投稿を乞うご期待。

悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 1 の了

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