蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 5 

2022年07月15日 | 小説
(2022年7月15日)キルケゴールは神との対話と罪の自覚を語る。ラカンは彼を精神分析から解体する。
<L’inconscience est le discours de l’autre. Ce discours de l’autre, ce n’est pas le discours de l’autre abstrait, de l’autre dans la dyade, de mon correspondant, ni même simplement de mon esclave, c’est le discours du circuit dans lequel je suis intégré. J’en suis un de chaînons. Le discours de mon père, en tant que mon père a commis des fautes que je suis condamné à reproduire ― c’est ce que l’on appelle super-ego. Je suis condamné les reproduire parce qu’il faut que je reprenne le discours qu’il m’a légué, non pas simplement que je suis son fils, mais parce qu’on n’arrête pas la chaine du discours, et que je suis justement chargé de transmettre dans sa forme aberrante à quelqu’un d’autre.
訳:他者との対話が無意識に留められる。他者とは漠然とした他人ではなく、下僕でもなく, «dyade » 二重性に封じ込められている私の交信者であり、彼との対話は周回しその輪に私は取り込まれている。一つの歯車 « chaînon » にしか私は過ぎない。父が罪を犯したのなら、私はその罪を繰り返す運命に呪われるを知る。(知らされる前に気付いている自我)それが「超自我」である。「超自我」が強いる対話を私は続けなければならない。私が父の息子であるという単純な理由からではない。この連鎖を人が止めてはならない。この連鎖が辻褄の合わないものであろうと、誰かに引き継がせねばならないからだ(112頁)。
プラトンの前世記憶をラカンは巧みに応用する。ここでの交信者 « dyade » は当然、プラトン主唱の « âme » 心―の考えを踏襲しているが、精神分析の視点から精神の累層、自覚する心と(過去の記憶ではなく)自覚しない心の対話とラカンは説明する。すると « c’est le discours du circuit dans lequel je suis intégré » その内部に私が封じ込められている、周回する対話―の意味が理解できる。
自覚している側、私« égo » は、自覚されない側は « super-égo » と累層並立し、対話は無意識のままに成り立つ。私は連鎖の中の一つの歯車にしか過ぎない。私自身は自覚していない« super-égo »を入れる容器 « contenant » に過ぎない。私の精神の中身 « contenu » は« super-égo » が持つ。« super-égo » は私を乗り越えて(容器を替えて)継続する。その本質は「罪」である(この文節は部族民解釈)。
プロテスタント思索者のキルケゴールと精神分析者カソリックのラカンとの接点は、人の本質は「罪」でありそれを自覚して開放される(キルケゴール信仰舞台)。
改めてラカン思索の経路を探る、
フロイトは精神の活動原理に2の概念を提唱した。快楽と現実原理、フロイト自身はなぜそれが「原理」として精神を支配するかには言及していない(ラカンを読む限り)。快楽原理は身体系の機械的反応に支配されており、その運動は神経サイバネティックスに制御され、身体系の自律制御の動きを見せるとラカンは語る。ここでは精神分析が入り込む余地はすくない。
(一方でリビドーを一般的「実行意欲」とすると精神下層(イド)の動きも絡み、精神分析の視点から快楽原理の説明も可能になる。例えば精神系をサイバネティックスとして、自律回生のバックアップがあるとする。そうした記述にラカンでは出会っていない)
現実原理の一般的理解は「人精神は欲望をとっさに実現しようとする行動を押し止める制御機能を具有するが、それは « apprentissage» フロイトの用語「教育」の結果」となる。ラカンは「教育効果」など両断否定する。精神分析の立場から « capture… »の過程をとるとして、かつフロイトが語る「繰り返し」も重ねて、人は現実と自己の対峙のあり方を « apprentissage » 習得するとラカンは教える。この仕組の源泉を説明するにZeigarnik、プラトン、キルケゴールを採り上げた。正確を期すとキルケゴールの信条と実践行動を説明するために前2者の思想を引き出したと言ってよい。
現実 « réalité » に直面する人は未達成(あるいは失敗)を悔み、幻影 « mirage » に苛まれ幾度も挑戦するが、成功は叶わず、心傷トラウマを抱える。キルケゴールにあって未達成とは死と愛。さらに罪とは不信仰と耽美行動。心に隠れる罪を力に超自我 « super-égo » を持ち出す(=前述)。
幾度も挑戦し失敗を甘受する人の性向はフロイトが指摘したが、その論理付けとして幻影 « mirage » を持ち出している。成功していたならば生はかくあったはずと人は惑わせられる―とラカンが述べる。この幻影の概念をキルケゴールは著書「あれかこれか」で「段階」として展開している。3の段階での各舞台、実践と幻滅の有様、そして最終目標となる信仰舞台 « stade religieux » で罪を知り(克服し)、自由を得る。キルケゴールは第二段階には上昇し、信仰の世界の第三への昇天 « ascension » を目指し、ベルリンを旅した。しかし叶わなかった。
現実原理の精神分析学から形而上として、またラカン哲学としてのキルケゴール思考の説明がかく展開された。論理の流れは哲学の著としては破格に過ぎる。しかし筋立てに流れる起と結の一貫さに(部族民は)感銘を受けた。ラカンお見事と感心すべき一節だった。


キュウリ、ミニトマト。今が旬の夏野菜。ご近所の市民菜園耕作者のおすそ分け。夏野菜と賭けて有神論実存主義と解く。ココロは「キウリガゴール」、オソマツ。

(本投稿ではフロイトの« principe » を原理と訳した。邦訳では「原則」が定番となっているようだ。辞書(スタンダード)は訳に原理原則を挙げるからどちらも可能となる。原則は例外が滑り込むのを甘受する―このような語感を感じ取る。2の « principe » をラカンが持ち出したのはHyppoliteが「フロイトもダーウインと同じく« principe » を立てて論を展開している」との指摘を受けたから。読む側の部族民はダーウインの淘汰原理にフロイト説をなぞらえるから、« principe »は例外を許さない原理に違いないと決めつける。この訳を用いた背景です。原則なる語は学説の大伽藍の構築には使われないしネ)

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 5の了(2022年7月15日、次回最終は18日)

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