蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

神話学裸の男フィナーレ終楽章について 3

2020年05月08日 | 小説
2020年5月8日 ピアジェ批判の続き
(7日投稿フィナーレ2と併せてホームサイトWWW.tribesman.asiaに合体し掲載している。サイトではフィナーレの2)
哲学としての観点からピアジェの「発達」への(レヴィストロースからのあり得べく)反論を小筆がまとめて上の1,2となった。(本文ではこのような論の進展、すなわち手の内を明かさない。本文の骨子を捉えて、レヴィストロースなりの思考進行を再現した(つもり)となった。

レヴィストロースは哲学者でもある。故に疑念をさらに深める。根底に思考の根本での食い違いが認められる;

1 無から有は生じない。発達する心理の「構造」の源は何か。幼児は初めから小さな構造を精神に持つのか。
2 原初的認識から演繹表象の複雑系思考を獲得するに至る原動力は何か。ピアジェは個の心理のみを語る。すると原初の心理の構造自体がなにやらの意思を所有し始めて、「自分勝手」に発達し複雑化するのか。

当ブログ、ホームサイトにご訪問の皆様はどのように受け止めるだろうか。感じるところがあると思います。既視感(dejas vue )あるいはdejas rencontre(すでに出会った感)とは;

上2点はサルトルを批判した「歴史と弁証法」(野生の思考の最終章、部族民通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaに解説を掲載)にその論旨がすでに出現している。人は存在を通して自由(思考)を得ると説く実存主義にたいし、人が外界の影響を受けながら個の精進で(経験を通じて)思考力を獲得するなどはないとレヴィストロースはカント的批判を展開する。
ピアジェの発達とはサルトルの実存を心理学に焼き直していると感じる次第です。
(この指摘は欧米を含め、これまで誰からも論じられていない)

読解の基盤に以上1,2を据えて(5月7日に投稿)続く文章を読むと、「何とか分かり」の状態に勇み出られた(勘違いかも知れない)。

>Certe, mais ce sont dejas des structures qui par transformation, engendrent d’autres structures, et le fait de la structure est le premier. その通り、しかしそれらはすでに「構造」なのです。構造が構造を生む、まずは構造、構造しかないとピアジェは云っている。

Moins de confusions se saraient produits autour de la notion de la nature humaine, que nous persistrons a employer , si l’on avait pris garde que nous n’entendons pas designer ainsi un empilage de structures toutes montees et immuables,
私達が語るところの構造とは、出来上がった不動のものであるなどとは主張していない点に彼(ピアジェ,on=一般の人と語感を弱めている)が注意深く気付いていたならば、人の性状を巡る論点でもこれほどの誤解は生まれなかっただろう。

mais des matrices a patrtir desquelles s’engendrent des structures qui relevent toutes d’un meme ensemble,sans devoir rester identiques au cours de l’existence individuelle depuis la naissance jusqu’a l’age dadulte, ni, pour ce que est des societes humaines, en tous temps en tous lieux.(本書561頁) 
しかるに、母型がある。そこから幾つかの構造体が突然、一体となって出現し、生誕から成人になるまで、それ自身は同一性を保つなどの義務から逃れており、さらには社会に対しても、どんな時間どんな場所においてでも、同一性を維持するなどの意志を見せない母型。

上引用はピアジェが説明する発達が個人の経験レベルで進展するとしたその結果を解説しています。発達展開での知(心理)獲得の個人レベルでは母型(matrices)から構造が発達して、幾段階で性格が変遷する。人は構造母体を持ち、それが周囲接触で突如「構造化」して変遷する。個での発生ながら同一性(個性)を担保する仕組みがない、一貫性を保たない。こうした現象が「心理の構造」に起こる。

写真はネットから採取、

発達心理学の実際はこのような奇態な性状であるとしている、それにしてもこうした事象が発生するのであろうか。この疑問に対してピアジェは以下に答えている、

>Dans le reel comme en mathematique , toute forme est un contenu pour celles qui l’englobent et tout contenu est une forme pour ceux qu’il contient<(本書561頁、ピアジェ著(le structuralisme)の95頁から引用)
理解しにくい言い回しである。拙訳は控えてレヴィストロースの解説;

>On pretend expliquer des types d’ordres en les ramenant a des contenus qui ne sont pas de meme naure, et qui, par l’effet d’une contradiction singuliere , agiraient sur leur forme dehors. (561頁)
上の注釈と併せ訳すと;

数学の実際....(「数学」なる語がなにを表すかは不明、文脈上の意味はないから忘れる)。
まずは拙訳;形状物が幾つか容器に内包されているとする。幾つかが内包物として一つの個になるとすれば、その形が全ての内包となる。同じく一の内包全体は全ての内包物にたいして一つの形体となる。

(レヴィストロース注釈)ピアジェは次の要旨を言いたかったのだ。
容器には幾つかの内容物が含まれ、当然それらの性状は異なる。それらは一つの仕組みの範囲では、食い違いが露呈するのだが、見知の可能な一の形体に収める「決まりtypes d’ ordres」なるがあると強弁しているだけだ。

「決まり」とは何か、より深く探ろう。

容器を「発達する心理」とする、容器は中味を含み、それらは一の構造となる。
構造心理(例えば幼児の感覚運動期)は発達過程で「自己」とか「数量」など(形=これを発達因子とする)を内包する。
発達因子の様々な機能(これも形)が構造心理に統合されている。
レヴィストロースの注釈で「心理が内包する様々の形状の食い違いは一の仕組みで発生する」としている。この仕組みはレヴィストロースによれば「智」に他ならない。人の智は一形態でしかないから、発達が様々な向きをたどろうとも、それは方向性(発達のベクトル)で「一の形式」をとる。
しかし、ピアジェは「智」を取りいれない。それを幾つかの決まりで発生するとしている。その決まりの根拠を彼は示していない。すなわち構造内の発達因子を束ねる一貫性を示していない。構造が自由意志を持つかに外部を取りいれ、発達していく「機械論」を論じている。

赤ちゃんの心理は発達するとだけ主張すればレヴィストロースとの論争は発生しなかったが「未開人の心理は文明世界の赤ちゃんレベル」と言い出して話しがこじれた。

文は続く;
>Le structuralisme authentique cherche, au contraire, a siasir avant tout les proprietes intrinseques de certain types d’ordres. Ces proprietes n’expriment rien qui leur soit exterieur.
真の構造主義はこれとは反対に(ピアジェが言うところの)幾つかの決まり(形式)の奥にある性格proprietes(神話での用い方、「思想」が適切か)を探すのである。これら思想は外側に顕れない。

この文で決まりです。構造を
ピアジェは形体を束ねる組織体(心理)としている。故に構造自体が形体である。心理はいくつもの形体(因子)を内包し、それらを一体化し、一にして全、全にして一の有機体を見せる。そして発達するという動力、それがどのような原理なのかを示さずに、が内包するとしている。
真の構造主義は形体に潜む(本質に属する、外的事象とは独立しているintrinseque=a son essence, independamment de tous les facteurs externes,)思想を探る。
(この論旨を理解するには裸の男Finaleの一文、le structulalisme est resolument teleologique(615頁)構造主義は決定的に目的論である。これを重ねると理解が早い)

一方ピアジェは前文にもあるとおり、構造心理と発達因子、外部環境で心理発達の機械論(mechanisme)を論じているのだ。

ピアジェの構造主義は「猿山の構造」や「山口組の構造」、あるいは「文化住宅の木造構造」などを調べる「構造機能論、structuralogie」であったのだ。

最後の引用;

>Ces prorpietes n’expriment rien qui leur soit exterieur. Si on veut qu’elles se referent a quelque chose d’externe, il faudra se tourner vers organisation cerebrale...<
これら思想は外部事象を一切語らない。それでも外的な物との関連を探すのであれば、人の頭(脳みそ)に目を向ければよろしい...

思想には形がないが脳みそに宿る、「見える物としての思想」の根源に脳みそがあったとは。言い得て妙である。続く。

私事の続き;これより先は文に訴えかける内容が全くないので時間余裕のある方(ヒマ人)以外は読まないほうがよろしい。
昨日(5月7日)の投稿で多摩川土手でとあるご婦人二人に声を掛けられた顛末を書いた。話しの内容は「デザイン進化論」だった。スマホの画面に蝶の羽を覆う「鱗粉」の拡大画像を示しながら、「これほどに綺麗に揃う微細構造など決して適者生存のまやかし(ダーウイニズム)では説明できない」彼女らは講釈を垂れた。私は「人の目玉かと思った」とだけ答えた。なぜなら目玉の複雑構造を2要素、光学系と電気信号系に分け、それぞれが単純進化をかさねる説でデザイン論に走らず「自然淘汰」から説明できる論が主流だから。別れ際に一人のご婦人が「また会いませんか」と誘ってくれた。ワレしばし、無言で眺めたその方はお歳40歳前半、額から頬の外形が文子(ワカオ)様似、目つきは良子(サクマ)様を思わせる美形なので、残る心はあったけれど「会いたくば尋ねきて見よネットは森のうらみ部族民通信」とミエをきって愛車を駆った。しかし彼女はWWW.tribesman.asiaには立ち寄らないだろうな。おそまつ。

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神話学裸の男フィナーレ終楽章について 2

2020年05月07日 | 小説
2020年5月7日
ピアジェとの論争(本稿と続き=明日投稿、は部族民通信通信ホームサイトWWW.tribesman.asiaに裸の男フィナーレ2として掲載されている)

写真:発達心理学の創始JeanPiaget

発達心理学の創始、Jean Piaget(以下ピアジェ)(1896~1980スイス)の功績をネット百科から引用する;
>知の個体発生としての認知発達と、知の系統発生としての科学史を重ね合わせて考察する発生的認識論(genetic epistemology)を提唱した。発達心理学者としては、「質問」と「診断」からの臨床的研究の手法を確立した。子どもの言語、世界観、因果関係、数や量の概念などの研究を展開した。

4段階の認知発達をへて青年期までに思考能力を獲得すると教える。その段階とは;

1 感覚運動 0~2歳 周囲(行動)と感覚が表象を通さず結びつく
2 前操作 2~7歳 自己中心性
3 具体操作 7~12歳 数と量の概念
4 形式操作 12歳以降 抽象、演繹思考の獲得(Wikipedia)<

(この段落以降は筆者)
上の1に「周囲と感覚の結合」とある。結合、ここにすでに「知」は認められる。
その知を初原的認識とするのだろうか、または知の「萌芽」とするか。赤ちゃんにも知は存在する証明である。人の子として初めから獲得している「知」が、段階を経て最終の思考(抽象、演繹)の獲得につながる。

1~4に至る「発達」の原動力とはこのもともと人が所有する「知」が形成する「思想」である(この解釈は発達心理学の理論と異なると思う)。しかるに発達心理学ではそれを「構造」の発展(変遷?)として「心理構造主義」を展開していく。

精神分析とはユングが提唱した手法で「集合的無意識」を理論の根底に置く(ネット百科から)。ピアジェは心理発展の基盤に深層心理をおいている(同)。ここで精神分析の創始フロイトとの関連が指摘される。こうした手法を「構造とその発達」に開花させた。あくまでもそれらを実学である心理学の実践的範囲での説明にとどまれば、レヴィストロース構造主義との関係は薄いままの筈だった。

しかしピアジェはその著書でレヴィストロースに論難を仕掛けた。レヴィストロースの構造には進展性、ダイナミズムがないと。

降りかかる火の粉は払わねばならぬ、反論を終楽章に挟んだ。引用の文(下)では人類学の「構造」主義を真性とし、精神分析とピアジェの心理発達を「誤りのfaussement」学説と糾弾する;

>On voit par la en quoi les interpretations structuralistes authentiques different de celles auquelles s’adonnent la psychanalyse et les ecoles qui pretendent ramener la structure d’une oeuvre individuallle ou collective a ce qu’elles appelent faussement sa genese. (裸の男、最終章Finale560頁から)
訳;そうした仕組みを鑑みると真(authentique)の構造主義(レヴィストロースが主張)とは、それらと別個のものと言える。それらとは精神分析であり、個別でも集合にしても「構造」を誤謬によって「起源genese、発達心理学」に結びつける心理学派(ピアジェ)である。

訳文の初頭「そうした仕組み」は引用文の前「Les oevres individuelles sont toutes des mythes en puissance, mais c’est leur adoptation sur le mode collectif qui actualise, le cas echeant, leur <<mythisme>>」を指している。こちらの訳は「神話とは語りであって個人的作品だが、それが「神話」の力でもある。故に、神話思想とは個々に語られる神話が、もしもの時には、集団的表象(mode)を取りいれる結果であると言える。

「真の構造主義」と「faussement誤って」を何気なく引用文に挟んでいるが、この2語でピアジェを一刀両断した。この辺りをさらに深く探る。

レヴィストロースは;
個々の神話の個別性、拡散性を認めるが、その範囲は個人(語り手)の心理変遷の枠にとどまる。神話群を取りまとめる思想が大枠を定める指摘する。個人の思考の上位に集団(社会)が共有する思想(ないし表象)を置いている。神話活動のこの仕組みは、個人語りに対して神話精神が位置して、これは形式と思想の対峙の図式となり、この対峙構造をして(真の)構造主義であるとする。

形式対思想、解説は後(レヴィストロース自身が語る構造主義)に譲る。

そして;
フロイト、ユング、ピアジェは個人の心理を語る。

写真はネットから採取。

論の進め方の共通点は「心理」を「物」に転換させて、その「物」の仕組みを語る。時には「二重性」深層と表面、また欲望と抑圧、あるいは発展、段階での足踏みなど。心理を物の仕組みにして、そこに認められる(筈の)様態を心理の発露としている。

これを構造というのであれば、そこに人がa prioriに所有する「知」は見えない。知を思想と言っても良いだろう。デカルトの智(raison)、カントの先験であるかも知れない。ピアジェの心理学では、構造に仕組まれた個人の心理はそれ自体が物であって、能動的に機械的に動き発達して行く。

心理の「物化」は実学である心理学にあっては当然の手法であろう。それを「主義化」する論にレヴィストロースは反論する。

On concedra que les structures ont une genese, a condition de reconnaitre aussi , mais l’oeuvre de Piaget n’en apporte -t-elle pas la demonstration ?, que chaque etat anterieur d’une structure est lui-meme une structure.
<One ne voit pas pourqoi il serait deraisonable de penser que la nature deriere du reel est d’etre en construction permanante au lieu de consister en une accumulation de structures toutes faites>(<>はPiaget Structuralieme50頁、本書561頁から引用)

訳;あらゆる構造は発生(une genese)を持つ(発達する)。
この論には条件付きで賛成できる。条件は構造が発達するとは前段階があるわけで、その前段階にしても「構造」でなければ辻褄が合わない。しかしこの仕組みをピアジェは説明していない。彼の文をたどると「現実の背後にある状態(nature)とは永続的に形成されていく性状であり、あらゆる構造部分が一時に出来上がった状態ではない」とある。

小筆は上引用文が両者理論の差異を明瞭に浮き出していると感じ取った。ピアジェは心理という「物」を分析している(前述)。心理なるモノの起源と発展を「発達」としている。一方、

1 レヴィストロースは神話学を展開するにあたり、人の口から語られる神話、すなわち「物=形式」を探り、さらに深く切り込んでそこに潜む「思想」を探る手法を展開した。部族、民族の思想が神話を産み出し、神話に潜むその思想が語り部をしてその語り口をcontraintes(制約、強制された概念)を掛け規制し、語りを成り立たせる。故に神話は似通い、突拍子もない粗筋はない。(ここに置ける「構造」は神話の二重三角形PDFに詳しい)

なお、
「形式対思想」の構造の仕組みは親族の基本構造(Structures Elemetaires de la Parente1947年初版)で論じられている。婚姻規則、部族間交流などの社会現象(物)はそれら裏に潜む「富の交換」「富の平準」などの思想に裏打ちされているとした。例えば交差イトコ婚など現実の婚姻形態(物)は婚姻を産み出す思想(富と知識の交換)に対峙する。この対峙が「構造」であると論じた主張そのものが婚姻にも存在すると論証した。

2 構造は発展するとのピアジェの指摘に、レヴィストロースは同意を示すが、そもそも「構造」の受け止めが異なる。ピアジェは個の心理構成(物)を構造としている。しかしこれは誤った構造主義なのだから、食い違いは埋まらない。(続く)

私事;3月の末、陽気が良かったのでロード自転車を駆って多摩川サイクル道路(多摩川遊歩道が正しい名称、歩行者が主人公の道)に乗り入れた。府中のグラウンド脇ベンチで休んでいるとご婦人二人に声を掛けられた。お話を聞くと「デザイン進化論」であった。この論は「適者生存では複雑形(例えば人の目玉)への進化を説明しきれない。原初に(神の)デザインが方向性を定めた」。反ダーウィン論です。しばらく談話して先方の「ワッチンタワーの集会に来ないか」お誘いは丁寧にお断り申して分かれました。翌朝、頭がガンガンと割れるほど痛く、熱も上昇した。新型コロナの罹患を疑うが、保健所の検査指針にまだ遠い。拙宅に籠もり塩梅を自ら検分して、10日ほど不調が続いて、何とか快癒した。コロナ、インフルでなくタダの風邪だったのでしょう。ご婦人二人との因果もなかった筈。快癒後も落ち着かず、コロナの話題をネットで拾っていた。また気分が変わったのか、読むよろこび(徳永詢=偏の言が小)に浸ってしまい、物事を書けなくなった。漸く、本日(5月7日)にパソコンキーボードに向かえました。

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