養由基図縁頭 弘親
養由基図縁頭 銘 弘親
百発百中の語源ともなっている養由基(ようゆうき)の弓の術を示している場面。養由基は天空高く飛翔する渡り鳥を狙って外したことがなく、木陰に隠れた猿をも確実に射抜いたという。天上の雁を頭に描き、それを狙う養由基を縁に描き分けている。朧銀地高彫金銀赤銅素銅色絵。水戸金工らしい精巧な彫刻、その背景にある確かな構成も見どころ。
かつて『銀座情報』に連載した『刀装具の登場人物』において紹介したことがあるので、参考に再度掲載する。
弓は古くから実戦武器の代表格として重用され、操作上からは武術としても完成をみている。大陸において馬上で用いられた半弓とも呼ばれる小型の弓は、騎馬民族によって機能性が高められ、鎌倉時代末期の元軍襲来の際には、日本軍がこれによって翻弄されたことは良く知られている。
騎馬民族が用いた半弓に対して和弓は、『保元物語』に記されている源為朝や、『平家物語』では那須与一の扇の的で知られるように、棹が大きく弦も強く張って迫力がある。半弓が我が国で主流とならなかった理由は命中率の問題であろう。弩と呼ばれたボーガンのような台座付きの小型の弓は別として、半弓は命中率を犠牲にする代わりに操作性の良さが追求されたものと推定される。韃靼人の狩の図が古くから文様化されて武具の装飾ともされているように、これこそ走る馬から野生の動物を射る騎馬民族の姿である。
我が国では、弓が源義朝、義家、頼政などの活躍譚に登場し、武門の、殊に源氏の象徴のように捉えられている。その理由は鬼退治伝説で知られた源頼光の夢見にあった。古代中国の楚に仕えた弓の名人養由基の娘椒花女が頼光の夢に現われ、父が用いた弓雷上動と、水破、兵破と呼ばれる矢を授けたというのである。
因みに、これら霊弓と霊矢は頼政に伝わり、宮中を不安に陥れた鵺を射落としたのがこれであるとも伝えられている。
さて、養由基が生きたのは動乱の春秋戦国時代(紀元前五六〇年頃)。幾多の小国家が権力闘争を繰り返し、後に秦始皇帝によって漸く統一をみるのだが、その間の数百年は小国家間での戦と謀略の連続であり、数多の武将が知と武を磨いたものの、その姿を流星の如く光らせ戦さの歴史の中に消えて行ったことも良く知られている。養由基もその一人ではあるが、我が国では特に優れた弓術に視点が置かれ、平安時代から江戸時代に至るまで武門の教学書にも記されて手本とされた点においては、まさに恒星の如く輝き続ける数少ない古代の武将である。
養由基の伝説は数多遺されている。百発百中は現代でも良く用いられる語だが、天高く雲間に飛翔する鳥を一たび狙い定めては弓矢で射落とさぬことなく、また、風に揺れ動く柳の葉を百歩離れて射通すに百に一の外れもなかった養由基の技が起こりである。古代中国の弓具が小型のものであれば、その命中率の高さも驚愕に値しよう。
楚の王に仕えていた時のことである。狩に出かけた王が猿を射ようとしたところ、逃げ回って狙い定まらず、射た矢は猿に弄ばれるほどであった。憤慨した王は猿を射よと命ずる。養由基は獲物を見据え、静かに矢を番えると、それまで激しく動き回っていた猿たちは急に脅えだし、木の陰に身を潜めるものあり、木に抱きついて震えるものもあった。だが養由基は、太い木の陰に身を隠した猿さえも射損ずることがなかったという。
さらに、木に掛けた鎧七領を重ねて射通すという荒業を、同様の強弓の使い手と競い合ったという伝説もある。これも我が国に場を移し、奥州に源氏の存在を知らしめた八幡太郎義家の活躍譚として再現されている(一矢三鎧図)。
勿来関図は、場面こそ異なるが、任地陸奥国へ向かう義家の、鎧を身に纏って弓を手挟む雄々しい姿を捉えたもの。己が身に散り掛かる桜の花を眺めて叙情味溢れる歌を遺した義家は、雅な心を併せ持つ人物として広く好まれ、画題に採られることも多いが、弓の使い手としてもよく知られている。
写真の打越弘親の縁頭は、このように我が国に強く影響を及ぼした養由基を題に採り、天上高く雲間に飛翔する獲物に狙いを定めている厳しい姿を捉えた作。色合い黒い深味のある朧銀地を磨地に仕上げ、正確な構成と精密な高彫で縁に養由基を、頭には雁を彫り出し、金銀素銅の色絵を施し、各部に緻密な鏨を切り加えている。引き締まった表情が画面に緊張感を与えている。
養由基図縁頭 銘 弘親
百発百中の語源ともなっている養由基(ようゆうき)の弓の術を示している場面。養由基は天空高く飛翔する渡り鳥を狙って外したことがなく、木陰に隠れた猿をも確実に射抜いたという。天上の雁を頭に描き、それを狙う養由基を縁に描き分けている。朧銀地高彫金銀赤銅素銅色絵。水戸金工らしい精巧な彫刻、その背景にある確かな構成も見どころ。
かつて『銀座情報』に連載した『刀装具の登場人物』において紹介したことがあるので、参考に再度掲載する。
弓は古くから実戦武器の代表格として重用され、操作上からは武術としても完成をみている。大陸において馬上で用いられた半弓とも呼ばれる小型の弓は、騎馬民族によって機能性が高められ、鎌倉時代末期の元軍襲来の際には、日本軍がこれによって翻弄されたことは良く知られている。
騎馬民族が用いた半弓に対して和弓は、『保元物語』に記されている源為朝や、『平家物語』では那須与一の扇の的で知られるように、棹が大きく弦も強く張って迫力がある。半弓が我が国で主流とならなかった理由は命中率の問題であろう。弩と呼ばれたボーガンのような台座付きの小型の弓は別として、半弓は命中率を犠牲にする代わりに操作性の良さが追求されたものと推定される。韃靼人の狩の図が古くから文様化されて武具の装飾ともされているように、これこそ走る馬から野生の動物を射る騎馬民族の姿である。
我が国では、弓が源義朝、義家、頼政などの活躍譚に登場し、武門の、殊に源氏の象徴のように捉えられている。その理由は鬼退治伝説で知られた源頼光の夢見にあった。古代中国の楚に仕えた弓の名人養由基の娘椒花女が頼光の夢に現われ、父が用いた弓雷上動と、水破、兵破と呼ばれる矢を授けたというのである。
因みに、これら霊弓と霊矢は頼政に伝わり、宮中を不安に陥れた鵺を射落としたのがこれであるとも伝えられている。
さて、養由基が生きたのは動乱の春秋戦国時代(紀元前五六〇年頃)。幾多の小国家が権力闘争を繰り返し、後に秦始皇帝によって漸く統一をみるのだが、その間の数百年は小国家間での戦と謀略の連続であり、数多の武将が知と武を磨いたものの、その姿を流星の如く光らせ戦さの歴史の中に消えて行ったことも良く知られている。養由基もその一人ではあるが、我が国では特に優れた弓術に視点が置かれ、平安時代から江戸時代に至るまで武門の教学書にも記されて手本とされた点においては、まさに恒星の如く輝き続ける数少ない古代の武将である。
養由基の伝説は数多遺されている。百発百中は現代でも良く用いられる語だが、天高く雲間に飛翔する鳥を一たび狙い定めては弓矢で射落とさぬことなく、また、風に揺れ動く柳の葉を百歩離れて射通すに百に一の外れもなかった養由基の技が起こりである。古代中国の弓具が小型のものであれば、その命中率の高さも驚愕に値しよう。
楚の王に仕えていた時のことである。狩に出かけた王が猿を射ようとしたところ、逃げ回って狙い定まらず、射た矢は猿に弄ばれるほどであった。憤慨した王は猿を射よと命ずる。養由基は獲物を見据え、静かに矢を番えると、それまで激しく動き回っていた猿たちは急に脅えだし、木の陰に身を潜めるものあり、木に抱きついて震えるものもあった。だが養由基は、太い木の陰に身を隠した猿さえも射損ずることがなかったという。
さらに、木に掛けた鎧七領を重ねて射通すという荒業を、同様の強弓の使い手と競い合ったという伝説もある。これも我が国に場を移し、奥州に源氏の存在を知らしめた八幡太郎義家の活躍譚として再現されている(一矢三鎧図)。
勿来関図は、場面こそ異なるが、任地陸奥国へ向かう義家の、鎧を身に纏って弓を手挟む雄々しい姿を捉えたもの。己が身に散り掛かる桜の花を眺めて叙情味溢れる歌を遺した義家は、雅な心を併せ持つ人物として広く好まれ、画題に採られることも多いが、弓の使い手としてもよく知られている。
写真の打越弘親の縁頭は、このように我が国に強く影響を及ぼした養由基を題に採り、天上高く雲間に飛翔する獲物に狙いを定めている厳しい姿を捉えた作。色合い黒い深味のある朧銀地を磨地に仕上げ、正確な構成と精密な高彫で縁に養由基を、頭には雁を彫り出し、金銀素銅の色絵を施し、各部に緻密な鏨を切り加えている。引き締まった表情が画面に緊張感を与えている。