予譲図縁頭
予譲図縁頭
予譲最期の場面を劇的な構成で表現した作。赤銅魚子地高彫金銀色絵。
以下に『刀装具の登場人物』から予譲の生き様を紹介します。
数百年もの間、黄河の中流域に栄えた晋国は、紀元前五世紀頃に至ると皇帝の力も衰えて国内は頻りに乱れ、天下奪取の意志を秘めた重臣氏族が各地に起ち、中でも智伯、趙、范、中行といった有力氏族が頭角を現して晋の国内はさらに激動の様相を強めていった。
ここに一人の男がいた。名を予譲(よじょう)。動乱の世であったが故、自らを国士として高く評価してくれる主を求めるために范氏や中行氏など有力氏族を渡り歩くが、その能力を充分に認めてくれる者はなかなか現れなかった。そこで晋国中でも最も悪名の高い智伯の元へと向かった。すると智伯は、予譲に秘められた能力を察知して高く評価し、予譲もまた主に報いるべく力を尽くしてその要求に応えたのであった。
ところがその後、趙襄子軍攻撃のために兵を挙げた智伯軍は、同盟を結んでいた韓と魏に裏切られて壊滅。智伯は斬首、その領地は趙、韓、魏に三分割されるに至り、この機に乗じて智伯の家臣の多くは趙襄子に下ったのである。
だが予譲は、かつて自らを認めなかった有力氏族の軍に下ることを潔しとしなかった。智伯への恩に報いるべく敢えて再び浪人の道を選び、「士は己を知る者の為に死す」の決意を秘め、趙襄子暗殺の機会を得るべく野の徒となったのである。
そこで予譲は、まず名前を変え、下賤な囚人として趙襄子軍の牢に入り、宮中の汚物処理をする最下の労役を受ける身となった。そして数か月の時を送り、ついに行動の好機を見出したのであったが…。
その日、趙襄子は胸騒ぎに襲われていた。不審に思った趙襄子は常にも増して警戒していたところ、果たして懐中に短剣を秘めて隠れる予譲が発見されたのである。すぐさま従者が予譲を殺そうとするが、趙襄子はこれを止め、すでに智伯という主を失ってさえ、かつての主への恩義を果たすべくこうして忍び来るとは誠に忠孝心の厚い人物であろうと、逆に褒め讃え、以後こうして会うこともないであろうが、もし万が一にお前が私を狙って再び出会った時は、どちらかが死ぬ時であろうと、言い渡し、この事件を戒めとして予譲を解き放したのである。
しかし予譲にとっては一度捨てた命。初心を貫くという固い信念は衰えず、再び野に下ってとなり、顔を爛れさせて人相を変えたばかりか、喉に炭火を投じて声をつぶすなど、尋常ならざる行為を重ねて姿を変え、さらに趙襄子暗殺の決意を強くしたのであった。
その後、再び予譲が趙襄子に出会う時が訪れた。この日、予譲は趙襄子の軍馬の行く手を先回りして橋の下に潜み、一行が通りかかるのを待っていた。ところが趙襄子が橋に差し掛かったとき、俄かに馬が怯えて嘶いた。さては刺客かと辺りを探ったところ、短刀を手にした予譲が姿を現したのである。だが多勢に無勢、予譲は刃を向けることもかなわず捕縛されてしまった。
趙襄子は、二度も自らを狙った予譲を前に、かつて予譲が仕えた范や中行などの氏族を滅ぼした智伯であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに忠義を尽くすのかと詰問すると、地に押さえつけられていた予譲は、自らの行動原理を口にしたのであった。
かつて范氏や中行氏に仕えたとは言え、いずれにおいても冷遇され、自らを国士として認めたのは智伯氏のみ。もし范氏や中行氏に対しても智伯氏と同様に義を感じるなら、それこそ内に二心を抱くものであり、主君に仕える者としては恥ずべきこと。かつての同輩が、趙襄子を殺すなら、その臣下の礼をとりながら隙をみて命を狙うが易かろうと忠告したが、これとても二心を抱いて仕えること。真に己を認めた智伯氏に報いずしてどうして生き続けることができようか。
予譲の胸の内に秘められた忠義の心を悟った趙襄子であったが、群臣の見守る中でとらえられた以上、そして最初の暗殺が失敗した際の言葉通り助けることは叶わない状況。
予譲もまた助命を求めず、最後の望みにと、趙襄子の着衣を借り受けて短刀で切り裂き、「これを自らが為し得なかった智伯への仇討である」と叫ぶや、返す手で自らの首を掻き切って見事に果てたのである。これこそ主に二心を抱かぬ男の最期の主張であった。
予譲図縁頭
予譲最期の場面を劇的な構成で表現した作。赤銅魚子地高彫金銀色絵。
以下に『刀装具の登場人物』から予譲の生き様を紹介します。
数百年もの間、黄河の中流域に栄えた晋国は、紀元前五世紀頃に至ると皇帝の力も衰えて国内は頻りに乱れ、天下奪取の意志を秘めた重臣氏族が各地に起ち、中でも智伯、趙、范、中行といった有力氏族が頭角を現して晋の国内はさらに激動の様相を強めていった。
ここに一人の男がいた。名を予譲(よじょう)。動乱の世であったが故、自らを国士として高く評価してくれる主を求めるために范氏や中行氏など有力氏族を渡り歩くが、その能力を充分に認めてくれる者はなかなか現れなかった。そこで晋国中でも最も悪名の高い智伯の元へと向かった。すると智伯は、予譲に秘められた能力を察知して高く評価し、予譲もまた主に報いるべく力を尽くしてその要求に応えたのであった。
ところがその後、趙襄子軍攻撃のために兵を挙げた智伯軍は、同盟を結んでいた韓と魏に裏切られて壊滅。智伯は斬首、その領地は趙、韓、魏に三分割されるに至り、この機に乗じて智伯の家臣の多くは趙襄子に下ったのである。
だが予譲は、かつて自らを認めなかった有力氏族の軍に下ることを潔しとしなかった。智伯への恩に報いるべく敢えて再び浪人の道を選び、「士は己を知る者の為に死す」の決意を秘め、趙襄子暗殺の機会を得るべく野の徒となったのである。
そこで予譲は、まず名前を変え、下賤な囚人として趙襄子軍の牢に入り、宮中の汚物処理をする最下の労役を受ける身となった。そして数か月の時を送り、ついに行動の好機を見出したのであったが…。
その日、趙襄子は胸騒ぎに襲われていた。不審に思った趙襄子は常にも増して警戒していたところ、果たして懐中に短剣を秘めて隠れる予譲が発見されたのである。すぐさま従者が予譲を殺そうとするが、趙襄子はこれを止め、すでに智伯という主を失ってさえ、かつての主への恩義を果たすべくこうして忍び来るとは誠に忠孝心の厚い人物であろうと、逆に褒め讃え、以後こうして会うこともないであろうが、もし万が一にお前が私を狙って再び出会った時は、どちらかが死ぬ時であろうと、言い渡し、この事件を戒めとして予譲を解き放したのである。
しかし予譲にとっては一度捨てた命。初心を貫くという固い信念は衰えず、再び野に下ってとなり、顔を爛れさせて人相を変えたばかりか、喉に炭火を投じて声をつぶすなど、尋常ならざる行為を重ねて姿を変え、さらに趙襄子暗殺の決意を強くしたのであった。
その後、再び予譲が趙襄子に出会う時が訪れた。この日、予譲は趙襄子の軍馬の行く手を先回りして橋の下に潜み、一行が通りかかるのを待っていた。ところが趙襄子が橋に差し掛かったとき、俄かに馬が怯えて嘶いた。さては刺客かと辺りを探ったところ、短刀を手にした予譲が姿を現したのである。だが多勢に無勢、予譲は刃を向けることもかなわず捕縛されてしまった。
趙襄子は、二度も自らを狙った予譲を前に、かつて予譲が仕えた范や中行などの氏族を滅ぼした智伯であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに忠義を尽くすのかと詰問すると、地に押さえつけられていた予譲は、自らの行動原理を口にしたのであった。
かつて范氏や中行氏に仕えたとは言え、いずれにおいても冷遇され、自らを国士として認めたのは智伯氏のみ。もし范氏や中行氏に対しても智伯氏と同様に義を感じるなら、それこそ内に二心を抱くものであり、主君に仕える者としては恥ずべきこと。かつての同輩が、趙襄子を殺すなら、その臣下の礼をとりながら隙をみて命を狙うが易かろうと忠告したが、これとても二心を抱いて仕えること。真に己を認めた智伯氏に報いずしてどうして生き続けることができようか。
予譲の胸の内に秘められた忠義の心を悟った趙襄子であったが、群臣の見守る中でとらえられた以上、そして最初の暗殺が失敗した際の言葉通り助けることは叶わない状況。
予譲もまた助命を求めず、最後の望みにと、趙襄子の着衣を借り受けて短刀で切り裂き、「これを自らが為し得なかった智伯への仇討である」と叫ぶや、返す手で自らの首を掻き切って見事に果てたのである。これこそ主に二心を抱かぬ男の最期の主張であった。