津波にのまれた訳ではなくて、地震の揺れによるいわゆるショック死だ。震災関連死という事になるのだが、死因自体は心不全とかになってしまうので、認定されるのはなかなかむずしいようだ。僕もお世話になった人なので、レンタカーも確認したが、震災によって戻ってこれない車両や燃料不足で営業できない状況だという。相変わらず遠くとはつながるが、小さな町同士は結ばれていない。
亡くなったのは、母方のおばなのだが、すでに数年前に亡くなったおじは面白い人だった。樹氷で有名な蔵王山の頂上には「お釜」と呼ばれるカルデラ湖がある。二千メートルはないが、そこそこ高い山だから夏でも肌寒いくらいのところだ。でも「お釜」の水がどういうものなのか気になったらしく、国定公園なのも無視して泳いできたという変わった人だった。戦争中は海軍で水上機母艦の秋津洲という軍艦に乗っていたが、フィリピン沖で攻撃を受けて沈没し、二人ほど脇に抱えて泳いで助けたそうだが、ひとりは島についた途端に息を引き取ったそうだ。すでに下半身はなかったという。もうひとりは青森県出身で戦後も亡くなるまで毎年リンゴを送ってくれたと聞いた。他にも戦艦陸奥に乗っていて、広島での爆発事故で沈没にも遭遇したそうだが、運良く何度も修羅場をくぐり抜けた人だった。おじは「鉄砲の弾は人を選ばない」と言っていた。
津波の被害を見ていると、ふとそれを思い出す。
天災も人を選ばない。
だけど人災は人を選ぶ。大体は弱い物から犠牲になる。
事実、仙台ですら、病院スタッフ不足などで、たらいまわしにされた挙げ句に亡くなった高齢者がいる。避難所の環境悪化から体調を崩して、せっかく助かったのに亡くなってしまう震災関連死も増えている。
救えるものが救えない。
僕が感じる停滞などなんでもないが、そういう現場の停滞には正直言って苛立ちを覚える。
医療現場の人のために言っておくけど、彼らの多くも被災者であり、寝ないで頑張っている人がほとんどだ。地震や原発事故に怯えて、いち早く遠くに避難した医療人もいるけれど、全体からすればごく少数である。いかんせん人手が足りないし、薬も足りない。地域の個人病院が津波で壊滅しているため、残ったところの負担があまりにも大きい。石巻では赤十字のスタッフが一部行政の代わりをつとめているのが現実だ。医療スタッフがそんな状態だから、現場の医療は通常診療すら難しい。バックアップの仙台にある東北大病院も地震による被害が大きく、手術室のほとんどが使えない状態となり、山形大病院に患者を転送するといったドミノ現象が起き、手術の遅滞が起きているそうだ。その影響は関東にまで及んでいるという。今後、津波をかぶった人に特有の肺炎が増えるとの指摘もあるし、津波で町を被ったヘドロが乾燥して粉になった事での肺炎も起こっている。医療体制の整備は急務だ。
多くの国が支援を申し出てくれているのだから、医療チームを中心に応援してもらえばいいと思う。実際にイスラエルの医療チームが南三陸町には入っている。イスラエルの行為の背景には政治的な面があるのは間違いない。多くのユダヤ人を救った杉原千畝に対する感謝もあるかも知れないが、むしろパレスチナ問題での批判軽減を狙ったものだろう。それでも構わない。どんな国にも人にも思惑はある。どうあれ今はこちらから頭をさげてでも、各国にお願いすべき状況だろうと思う。
国民のためなら頭をさげるのも、政治家の仕事だろうに。
政府の思惑など関係なく、しかも国外退去した多くの人を尻目に、外国の人もたくさん支援してくれている。パキスタン人やスリランカ人などの有志が、カレーの炊き出しに回ってくれたり、福島ではフィリピンの介護スタッフが帰国を拒否して懸命に働いてくれている。石巻専修大学の英国人准教授は一度は帰国しようとしたが引き返し、支援の輪に加わった。仙台在住のミュージシャンであるモンキーマジックのカナダ人メンバーも、ずっと仙台に残り、各地でボランティア活動をしてくれている。他にもたくさんの人たちがいる。
世界最貧国のバングラデシュが支援を申し出たり、アフガニスタンのペシャワールからも義援金があったという。台湾からの義援金は官民合わせた総額で百億円を越えているそうだ(それなのに日本政府は台湾に感謝の意を示していない。中国への配慮とやらなのだろう)。金額の大小じゃない。いずれも民間レベルでの交流から生まれた思いやりとしてのものだ。それは日本のどこかの誰かがいろいろな国に尽くしてきた力が、回り回って戻ってきたものなんだと思う。女川町の水産会社役員が中国からの研修生二十人を助け、自らは行方不明になってしまったけれど、そんな人たちの心遣いが生き残った人たちへの支援につながっている。
東北の港町には水産関係の研修生がたくさん来る。高齢化が進んでいる水産加工業では、そういった労働力が貴重な戦力になっていて、中国やインドネシアなどから様々な人たちがやってくる。僕の父親が働いていたところにも中国からの研修生たちが来ていて、父親もいつの間にか片言の中国語を覚えて、自慢げに口にしたりするようになり、何かと面倒をみてあげていたようだ。まあ僕の父親の場合、研修生が若い女性たちだったからかもしれないけれど。
昔、塩釜が日ソ漁業協定によるソ連船の寄港地だった頃の話だ。ソ連船は入港しても、船員の上陸は認められず、ちょうど海外旅行の際にトランジットで乗り継ぎ待ち国の空港のように、決められたエリアからは出られなかった。でも実のところ厳重な警戒線があるわけではなく、単に進入禁止用の仕切みたいなのがあって、警備員が見ているだけだったから、僕は船外に出てきたソ連人に手を振ったりして、向こうからも挨拶されたりしていた。手の届くような距離だと警備の人に怒られるけど、少し距離をとってなら会話(というか身振り手振りだけど)もできた。目を盗んで何かをくれようとした赤ら顔の船員がいたけど、警備に見つかって肩をすくめ、手を振って船内に消えた。まさか子ども相手にトカレフやAK47のような銃を売りつけようとするわけはないし、爆弾を放り投げてくるわけでもないだろうから、何をくれようとしたのか今も気になっている。いずれにしても当時は悪の中心のように言われたソ連人でも、ごく普通の人たちなんだよなと思ったのは確かだ。理屈では当たり前の事だが、どうあれわずかでも直接関わってみると、その知識としての当たり前が現実に変わる。それは何となくしか見ていなかったモジリアーニの絵の本物を見た時、「ああ、しまった」と思った感覚に似ている。本物に出会わないと分からない事もある。知識や情報は少しでも本物との接点がないと、意外に当てにはならないものだ。
住んだ事どころか、来た事も見た事も、あるいはニュースになるまで地名すら聞いた事のなかった町の事情について、伝えられる情報だけで訳知り顔で語っている人がテレビやネットには存在する。更にそれに対して私は現地に行って悲惨な状況を見てきたんだと強弁する人も出てくる。
でも実はどっちもどっちで、津波にあった後の瓦礫に埋もれた町が、その町の本当の姿ではない。生活があり、人が生きていた町こそ、本当のその町の姿だ。
まだまだ復旧すらされていない状況だけれど、識者という人たちはすでにあれこれ、こういう町にしなければ駄目だと、口角泡を飛ばしている。しかしそこに住むのはその人たちではない。住む人をそっちのけにして「日本」の問題にしてしまうのは、違うだろうと思う。そこに生きていた人たちの中で、これからもまだそこで生きてこうとする人たちが新しい町を作っていけばいい。
漁業に関係する人が多い町では、こんな津波があっても海の近くに住みたいという人がたくさんいる。だからなのか政府や識者とやらは、自分たちが計画を立てないとすぐに海辺に家が立てられ、無秩序な復興となってしまい、津波の教訓が生かされない町になると考えているように思える。
たとえば宮城県には、全国に十三しかない特定第三種漁港のうち気仙沼、石巻、塩釜と三港もある。それも合わせて全県で百四十二もの漁港がある。漁獲高は北海道に次ぐ第二位だ。全国有数の海と関わる人たちが住む地域なのを忘れはいけない。岩手県には百十一港の漁港がある。海と切り離されては復興など考えられない。それは原発事故の福島県にも形を変えていえる事で、福島県には漁港が十一港しかなく、農業や酪農従事者が多いところだ。土地との関わりの中で生きている人が多いのだから、土地と切り離される事の苦悩は相当なものだろうし、それを無視してエコタウンなど言っても理解は得られる筈はない。
確かに津波被害を受けたところに、そのまま町を作るのかという問題は難しい。東北の太平洋沿岸は平均して七十センチ、場所によっては一メートル以上、土地自体が沈下している。場所によっては通常の満ち潮でも水没してしまうところもある。津波の浸水域には住宅をつくらず、もっと内陸に町をつくれという人もいるし、高台を切り開けという人もいる。でも考えてみるといい。造船所や船の燃料庫を高台に作れるのだろうか?製氷工場が港の近くになければ、水揚げした魚の鮮度をどうやって保てばいいのだろうか?それに仙台市若林区のように六割も水没したり、名取市や岩沼市、亘理町や山元町など高台がない平野部はどうすればいいのだろう?
一方、リアス式海岸は後背地は高台というより、すぐに山であり、それを造成するのは膨大な労力と時間と費用がいる。しかもほとんどの地域が国立公園指定区域だから開発に制限もある。たとえそれを解除したとても、三陸の海の豊かさは後背地の森から豊富なミネラルなどが供給されるからである。全国に広がりつつある、森が海を育てるという運動は、津波で壊滅した宮城県唐桑町の畠山さんが広めたものだ。後背地の森を宅地化しても、海が枯れれば、そこに家を建てても漁業という仕事が駄目になれば意味がない。町が残っても自然自体が消えればそれで終わりだ。
政府の試案では、単純に低地に港湾施設を高地に居住をと言うが、宮城の漁獲高の三分の一は養殖だから、海の変化が見える距離にいるのも大事だったりする。母の元同僚で加工工場で働いていた人たちは、のりや牡蠣を養殖しながらパートで工場に来ていた。そうしないと収入が足りないからだ。早朝のうちに養殖場で働き、それからパートに出るような生活は海の近くに住んでいるからこそできる。その元同僚の多くもこの津波で亡くなった。よく家にお茶飲みに来ていたし、のりや海産物を安く買ったり、もらったりもしていたから、僕もよく知っている人たちだ。それでももし残された人たちが養殖を続けたいのなら、何よりも必要なのは遠くへ移住させる事より、大津波に耐えうる避難所の整備なのだと思う。
また大きい漁港では、港湾施設で働く人や港に入る漁船員はどこで食事を取ったり、ちょっとした物を買いに行くのだろう?そういう人たちを相手にしていた個人商店が、五キロも内陸の町に作られたとして、昼飯のために五キロも移動する人などよほど酔狂な人だ。だからと言って個人商店の規模で、住宅と店舗の二棟を借りられるほど儲けがある筈もない。普通は店舗兼住宅だから成立する。
サラリーマンばかりが住む町ならば、高台のエコタウンも成り立つだろうが、漁業の町はそもそもリスクを負いながら生きている。津波でなくとも、高潮や海が荒れれば、命を落とす事が少なからずある。それでもその仕事を選んでいる。消防士に危ないから火事現場に行くなと言えないのと同じで、漁師に海のそばに住むなと言うのは、ホワイトカラー層のエゴに思える。本当に住居の自由を制限しなければならないほど、海辺が危険だとするなら、地震国である日本の海辺はほとんど住めないし、富士山のような火山周辺、土砂崩れや土石流の危険地域、東京なら荒川など過去に河川の氾濫があった地域など、多くの場所もそうするべきだという事になる。
そういった人の営みを無視した復興はまるで生活感のない机上の町づくりであり、そんなところに人は住まなくなる。町の復興は即ち人の復興なのだから。
今回の津波は、平安時代に東北を襲った貞観津波以来の規模で、明治三陸大津波の破壊力を併せ持ったものだったという。歴史上、最大級の広さと高さの両方を持っていたことになる。ちなみに貞観津波は約千百年前の話だ。千百年前の歴史を生かせなかったと言う人もいるが、そもそもその記録を残した国府の場所すら定かではない。貞観年間には応天門の変が起こっているけど、本当にそれが伴善男によるものなのか、今からでは誰にも証明できない。そういう時代の話だ。天皇でいえば第五十六代清和天皇の頃だから、今上天皇が百二十五代である事からして、それから六十九世代が過ぎている。天皇家はいろいろあったお家なので単純にそれが日本での平均世代数ではないにしても、軽く五十世代を越えている。それほど前の先祖を知っている人なんてどれくらいいるのだろう?またその頃の情報を生かそうと考える人もどの程度いるのだろう?たとえば千年以上も前に作られた聖徳太子の十七条の憲法を、今に生かして暮らしている人はどれくらいいるのだろうか? 「和を以て貴しと為す」がその第一条だと知っている人はどれほどだ?記録を残したとしても古文すら読めない人も大勢いる。それはそうだ。この国の戦後教育は歴史や地理を疎かにしてきた(GHQは歴史や地理教育を廃止した)。今更、歴史に倣えと言われても、一度はそのつながりを断たれている国で言っても説得力はない。歴史的にではなく地学的に考えたとしても、そんな稀な出来事をどう考えるか、どう生かすかは難しい。わずか三百年前に富士山は宝永大噴火をしているが、その教訓から何か適切な防災対策が講じられているとは聞かない。静岡県の御殿場市周辺は相当な被害が予想される筈だ。ましてや千年前の話を知っていたとしても、今回の被害はそれほど軽減されなかったように思う。どんな事も結果論でならば何とでも言えるのだ。結果論でなら救われない命はない。だから今後に生かすべきは間違いなく途切れずに歴史を語り継ぐ方法であり、町はどうあれ人を死なせない対策だ。住民さえ生きていれば災害は語り継がれ、町も再生する。
いずれにせよ僕はある程度、住みたい所に住めばいいと思っている。もちろん嫌な人は高台に住めばいい。石巻市の大川小学校のように相当な犠牲者が出たところもあるし、子どものいる家庭は教育や安全面でも高台に住みたいと願うだろう。それは間違いなく、その方がいい。しかし、それでも海のそばに住みたい人もいる。その人たちは知っている。この地球のダイナミズムを人がコントロールする事など出来ないのだという事を。要はそこに住む以上、その程度のリスクを引き受ける覚悟があるかどうかだと思う。
放射線にせよ、津波にせよ、結局のところ突きつけられているのは、あなたは生きていく上でどんなリスクなら引き受けるのか、という事なのだろう。
今、都市の日常は、いかにしてリスクを避けるかばかりが問題になる世界だけれど、それは必ずしも絶対的な価値ではないと理解する事も復興支援だと思う。
七ヶ浜町の西友ストアの店長は大阪出身で、阪神淡路大震災の時の物資不足を知っていたため、本部には無断で店にあった商品を住民に無料提供して、物資不足をしのいだそうだ。その後、住民からは感謝の声がたくさん店の入り口に張られていたと聞く。灯油を社長に無断で分けた店長といい、リスクを引き受け、英断を下しているのは、政府などどこかの組織ではなく、結局のところ個人だ。そのことは忘れない方がいい。
テレビを見ていると、西の方はすっかり桜の季節だというニュースも聞こえてきた。
まるで昭和天皇崩御の時のように自粛ムードというのがあるらしく、いろいろな行事が控えられているのだと聞いた。
それに僕と妻ばかりでなく、多くの被災者は首を傾げている。
別にそこまでしなくていいよ。
君たちには君たちの生活がある。
「笑ってください。楽しんでください。それをねたむほど、私たちの心は卑屈になっていません」
気仙沼市の名も知らぬ人のメッセージだ。
楽しく過ごせる時間はそれだけで貴重なものだと、被災者はみな知っている。
今上天皇も「これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」と仰っているじゃないか。
雄々しく、つまり毅然として生きればいい。
季節を感じ、食を楽しみ、真っ直ぐに日常を生きればいい。
放射能が降る空を見上げるのもいいが、桜を愛でるのに顔を上げればいい。
塩釜には塩釜桜という平安時代から知られた桜がある。江戸の頃には井原西鶴の小説や近松門左衛門の戯曲にも出てくる、花弁が三十から五十ものつく大輪の八重桜だ。昔住んでいた家の庭に、塩釜神社からいただいた苗木を植えたものがあって、毎年とてもきれいに咲いていた。そのせいか僕は桜の花がとても好きだ。桜の種類は二百種にも及ぶそうだが、各地に様々な桜が春を彩っているのだろう。
ほとんど何も変わらずに停滞する一週間目から二週間目、僕はそんな事を考えていた。
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