酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

一個の宅急便

2011-04-11 10:33:12 | 東日本大震災
震災から一ヶ月。
また、このカテゴリーを語らなければならない。
そんな出来事があった。
正直、「大和を語る」を続けたかった。
そうはさせてもらえないようだ。
傷は思ったよりもはるかに深く。日常に戻りたい。戻さなくてはいけない。
そんなガッツも尽く打ちひしがれてしまう。

真夜中の地震は、相当な恐怖であったろう。
すぐさま母と連絡を取り、丹治さんとも電話で無事を確認した。
M7.1。
数字以上の恐怖であったと皆そう話していた。
塩竈市小松崎の隣家の塀が崩れた。
宮城県沖地震。また先の地震でも損傷はなかった。
「下から突き上げるような揺れ」
現地にいた方の恐怖やいかばかりか。
気丈な母にして
「今回が一番怖かった」と話していた。
早く顔を見たいが、まだ叶わぬ。
しばらく辛抱してもらいたい。

宅急便業者から連絡が来たのは、先一昨日。
内容はこうだった。
「三月九日受付。三月十二日午前着指定日。場所、宮城県女川町某浜。荷物不明。お届け先不明。御依頼主不明」
「配送料を返したいが、受け取っていただけないか」

部下に尋ねた。
「初老女性が、横浜銘菓を五個一個にして、彼岸に帰省したとき親戚に配る」
そう言って配送を依頼したそうだ。
通常であれば、翌日仙台。翌々日女川営業所着。さすれば、荷物は11日午前には女川直近の営業所にあったはずである。
12日には無事、指定場所へ配達は可能であった。

11日、午後被災。
営業所は津波に流され、届け先近辺は跡形もなく流された。
届け先、住所は最も被害の大きかった場所であった。
御依頼主はちょうど女川にいたはずであった。
被災したのか。
無事であるのか。
荷物はその営業所とともに流されていた。
本人が無事であれば・・・。
望みを持った。
が、しかし。
県内死亡者名簿にその名を見つける。

久しぶりの帰省。
彼岸、親戚一同が会し恙無きを喜ぶ席だったはず。
他人事には思えなかった。

お届け先世帯主も同様であった。

無念。

悔しさが込み上げてくる。

昨日、配送料金を持って横浜の営業所担当が来る。
酔漢が受け取った。
今や、返す宛てなどない。

どうしたものか。

名前の書いた封筒をしっかり預かった。
一人暮らしだったのか横浜自宅は不在であった。

震災一ヶ月。
またしても、これを語らなければならないのか。
封筒を見ていると涙が出てくる。
またしても・・・・泣いた。


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2 コメント

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少しずつ復興へ (ゴエモン)
2011-04-13 20:01:52
はじめまして。私は酔漢さんのご実家に近い北浜の高台に住んでいます。隧道の上、といえばわかるでしょうか。私も二小の卒業生です。
ちなみに20年前は藤沢に住んでいました。
7日の地震で「またなの」と心が折れそうでした。二小の体育館の壁はさらに崩れ、佐浦酒造の白壁も剥がれてしまいました。あちこちの瓦もさらに落ちているようです。
でも少しずつ道路はきれいになりお店も開き学校も21日から始まるようです。
復興に向けて動いていることが目に見えてわかります。今が頑張りどころです!
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ゴエモン様へ (酔漢です )
2011-04-14 09:56:34
その昔「珠算教室」があったあたりでしょうか。あのあたりではよく遊びました。
古寺(今はちゃんとありますよね)では肝試しなど。
藤沢には二十年前ですか。酔漢と行き違いなのですね。
二小の古い校舎(僕らの時代の新校舎)は大丈夫なのかなと思っておりました。
体育館はまだ新しいですが壁が落ちたのですか。二小の目の前に酔漢実家があります。
ゴエモン様とはご近所ですね。
さて、佐浦君とはメールをやり取りしてます。が、彼がテレビで見ると復興に奔走しているのが解ります。
そうだ、昨日から来々軒が営業開始。
ラーメンのみの提供だそうですが、少しずつ日常が戻っているのですね。
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