八島
一 まかき嶋
古歌
塩かまの まかき嶋の そなれ松
浦さびしくも 年ふりにけり
奥鹽地名集よりその写真です。
塩竈~松島にかけて、地名、名所を事細かに解説している史書です。
この史書は、阿部勘酒造の反古から出てきたものとされておりますが、その原本はまだはっきりしておりません。
少々の古文の知識があれば、読めます。
非常によく描写されており、現代の地名の由来、その顛末など、とても参考になります。
貴重な史料と言えます。
塩竈湾が「千賀浦」と呼ばれた絶景もその中に記されております。
冒頭は、「八島」と題された件です。
この八島を見ますと、おそらく、芭蕉のたどった船旅と同じような島々が紹介されているのではないのだろうか。
こう推察した次第です。
芭蕉の時代の船ですから、手漕ぎか帆掛け船とするのが普通なのでしょうね。
「おくのほそみち」には「日既午にちか し。船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘、雄嶋の磯につく。」これしか記しておらず、船旅の様子が描かれておりません。
曽良の日記には、少し詳しくは書いております。
九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰 而出船 。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。
籬島、都島の記述がございます。
この二つの島を結ぶ航路は案外容易に想像できます。
この場所から船に乗った芭蕉は、千賀浦を出ます。
そして、籬島を左手に眺めながら、千賀浦から「塩釜列島」(この表記は公式な地理用語です)に沿って、ちょうど利府の浜田の先を通過して、雄島へ到着します。
「二里余り」とする距離に合致いたします。
その間、どのような島々が存在し、芭蕉は眺めていたのか。
これは、大変興味のあるところです。
追いかけてみます。
夕闇に 海士のいさり火 見へつるは
まかきかしまの ほたるなりにけり
一 ミつの小嶋 まかきしまの前ニ有見るか小しまともいふ 汐干潟になり顕れ見ゆる也
一 蟇しま(がましま) 高かけ前ニ有
一 内裏嶋 高城境はなれ嶋なり
一 きさき嶋 内裏しまの近所に有
一 蛇しま 崎山と釜か淵の間ニ有
一 はたか嶋 かまか淵と内裏嶋の間に有
一 尾島 おじま崎のはなれ嶋也
外ニ
一 都しま かまか淵のとなり、きさき嶋の間也
一 獅子嶋
一 方丈嶋
一 まないた嶋
右七浦八崎八嶋ともに、塩釜より松島へ
塩竈の地名が随所に出て参ります。
そして千賀浦の情景が浮かんでも来ます。
籬嶋のとなりに「見るか小島」と描かれております。
今は、おそらく、市場の岸壁の下になったのでしょうね。
蝦蟇嶋(がま島)と記されております。
この島が現在あれば、人気の島だったでしょうね。
現在位置が特定されておりません。
塩竈市史資料編53ページにはこう記されております。
ところで、この塩竈市史は本編、別編、資料編と3巻ありまして、全巻、父の書斎にあったのです。不思議な事なのですが、先々週、この市史を図書館に借りる手続きをすると決めていた午前中に、母から掃除を頼まれまして、父の書斎に掃除機をあっけていたわけです。(面倒だなぁ)と思ったの事実なのですが。
ふと、戸棚をあけたところ、この本を見つけたわけです。
驚きました。
「こんな事もあるんだなぁ」気にせず、使えるのはうれしいです。是ばかりは「流石親父!」と叫んでしまいました。
「塩竈町方留書」の抜粋です。
「壱疋島の事、ひき島とばかり御覚えまされ候よし。昔はかいるか(蛙か)島と申し候を、寛永の頃よりひきしまと申すよし、それ故、蛇島これ有る由、この儀も如何様に御吟味あい済候哉、あい知れ兼ね候」とあります。
消滅したのがおしまれます。
その蝦蟇嶋は、釜ヶ淵(現在の新浜3丁目あたり)にあったと推察されます。
加工団地の敷地から、東北水産研究所周辺と言えばお分かりになられるかと思います。(塩竈に地理に詳しいリスナーだけなんだけれども・・・)
現在は、このような風景です。
そして、その沖にありますのが、内裏島です。
これは、当時の姿を残しております。
絵の姿とほぼ同じ形ですね。
ですから、この記録は、正しい描写なのでしょう。
他に現状と同じ島といたしまして。
都島。
女御島。これは今では「十二妃島」と呼ばれております。
そして、現在、尋ねる事もない島が工場の駐車場にございます。
「かえる島」と「蛇島」の関係なのですね。
蛇島です。
今は新浜三丁目。加工団地の敷地内にございます。
撤去されずに、この場にございます。
「蛇の頭に似ている」から付けられた名だと聞きました。
松の木の位置は、当時のままのようにも見られますね。
自然消滅した島もございます。
裸島です。
これも形の良い島だったようです。
これは、今でも、この小さな岩礁を「はだか島」と呼んでいることから、間違いないところです。
自然消滅は致し方ないところですが、先の震災で、かなり小さくなってしまいました。
芭蕉と曽良は、千賀浦から松島へ。
陸前浜田から、田律庵のある「馬の背」の沿って進み、雄島へ。
絶対に寝ていたに違いない!
これは酔漢の勝手な想像なのですが。
千賀浦の絶景を見てみたい。
こうした想像をしてみたくなりました。
芭蕉、松島です。
一句も詠んでいない。
その御心はどこにあったのでしょうか。
一 まかき嶋
古歌
塩かまの まかき嶋の そなれ松
浦さびしくも 年ふりにけり
奥鹽地名集よりその写真です。
塩竈~松島にかけて、地名、名所を事細かに解説している史書です。
この史書は、阿部勘酒造の反古から出てきたものとされておりますが、その原本はまだはっきりしておりません。
少々の古文の知識があれば、読めます。
非常によく描写されており、現代の地名の由来、その顛末など、とても参考になります。
貴重な史料と言えます。
塩竈湾が「千賀浦」と呼ばれた絶景もその中に記されております。
冒頭は、「八島」と題された件です。
この八島を見ますと、おそらく、芭蕉のたどった船旅と同じような島々が紹介されているのではないのだろうか。
こう推察した次第です。
芭蕉の時代の船ですから、手漕ぎか帆掛け船とするのが普通なのでしょうね。
「おくのほそみち」には「日既午にちか し。船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘、雄嶋の磯につく。」これしか記しておらず、船旅の様子が描かれておりません。
曽良の日記には、少し詳しくは書いております。
九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰 而出船 。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。
籬島、都島の記述がございます。
この二つの島を結ぶ航路は案外容易に想像できます。
この場所から船に乗った芭蕉は、千賀浦を出ます。
そして、籬島を左手に眺めながら、千賀浦から「塩釜列島」(この表記は公式な地理用語です)に沿って、ちょうど利府の浜田の先を通過して、雄島へ到着します。
「二里余り」とする距離に合致いたします。
その間、どのような島々が存在し、芭蕉は眺めていたのか。
これは、大変興味のあるところです。
追いかけてみます。
夕闇に 海士のいさり火 見へつるは
まかきかしまの ほたるなりにけり
一 ミつの小嶋 まかきしまの前ニ有見るか小しまともいふ 汐干潟になり顕れ見ゆる也
一 蟇しま(がましま) 高かけ前ニ有
一 内裏嶋 高城境はなれ嶋なり
一 きさき嶋 内裏しまの近所に有
一 蛇しま 崎山と釜か淵の間ニ有
一 はたか嶋 かまか淵と内裏嶋の間に有
一 尾島 おじま崎のはなれ嶋也
外ニ
一 都しま かまか淵のとなり、きさき嶋の間也
一 獅子嶋
一 方丈嶋
一 まないた嶋
右七浦八崎八嶋ともに、塩釜より松島へ
塩竈の地名が随所に出て参ります。
そして千賀浦の情景が浮かんでも来ます。
籬嶋のとなりに「見るか小島」と描かれております。
今は、おそらく、市場の岸壁の下になったのでしょうね。
蝦蟇嶋(がま島)と記されております。
この島が現在あれば、人気の島だったでしょうね。
現在位置が特定されておりません。
塩竈市史資料編53ページにはこう記されております。
ところで、この塩竈市史は本編、別編、資料編と3巻ありまして、全巻、父の書斎にあったのです。不思議な事なのですが、先々週、この市史を図書館に借りる手続きをすると決めていた午前中に、母から掃除を頼まれまして、父の書斎に掃除機をあっけていたわけです。(面倒だなぁ)と思ったの事実なのですが。
ふと、戸棚をあけたところ、この本を見つけたわけです。
驚きました。
「こんな事もあるんだなぁ」気にせず、使えるのはうれしいです。是ばかりは「流石親父!」と叫んでしまいました。
「塩竈町方留書」の抜粋です。
「壱疋島の事、ひき島とばかり御覚えまされ候よし。昔はかいるか(蛙か)島と申し候を、寛永の頃よりひきしまと申すよし、それ故、蛇島これ有る由、この儀も如何様に御吟味あい済候哉、あい知れ兼ね候」とあります。
消滅したのがおしまれます。
その蝦蟇嶋は、釜ヶ淵(現在の新浜3丁目あたり)にあったと推察されます。
加工団地の敷地から、東北水産研究所周辺と言えばお分かりになられるかと思います。(塩竈に地理に詳しいリスナーだけなんだけれども・・・)
現在は、このような風景です。
そして、その沖にありますのが、内裏島です。
これは、当時の姿を残しております。
絵の姿とほぼ同じ形ですね。
ですから、この記録は、正しい描写なのでしょう。
他に現状と同じ島といたしまして。
都島。
女御島。これは今では「十二妃島」と呼ばれております。
そして、現在、尋ねる事もない島が工場の駐車場にございます。
「かえる島」と「蛇島」の関係なのですね。
蛇島です。
今は新浜三丁目。加工団地の敷地内にございます。
撤去されずに、この場にございます。
「蛇の頭に似ている」から付けられた名だと聞きました。
松の木の位置は、当時のままのようにも見られますね。
自然消滅した島もございます。
裸島です。
これも形の良い島だったようです。
これは、今でも、この小さな岩礁を「はだか島」と呼んでいることから、間違いないところです。
自然消滅は致し方ないところですが、先の震災で、かなり小さくなってしまいました。
芭蕉と曽良は、千賀浦から松島へ。
陸前浜田から、田律庵のある「馬の背」の沿って進み、雄島へ。
絶対に寝ていたに違いない!
これは酔漢の勝手な想像なのですが。
千賀浦の絶景を見てみたい。
こうした想像をしてみたくなりました。
芭蕉、松島です。
一句も詠んでいない。
その御心はどこにあったのでしょうか。
芭蕉が船旅をした同じ航路をたどりたくなりますね。
当時の風景、どんなだったのかなあ…そんなことを想いつつ拝読しております^^。
芭蕉の見た塩竈、そして千賀浦はどんな絶景だったのでしょうか。
開発、埋め立てでその姿が変貌し、今でもその工事は終わってません。
現代に生きる私たちは、せめて、その思いも感じたいものですよね。
古い島の写真を掲載いたしましたが、原画を先週見て参りました。
今自身が住んでいるあたりはしっかり描かれてまして、今ではなくなった地名が記載されてました。調べてみたいと思います。
「故郷が近くにあるから感じるもの」もあるんですね。
日々の忙しさ、いや怠けているうちに、たまってしまいました。
市史をみると、面白いことが一杯です。
最近は図書館にもご無沙汰ですが、必要な時は図書館でコピーしてきたり、下記写したり。
地元にいると、写真がすぐに撮れるので便利なのでは?