昭和50年2月初め、卒業式間近に仙台市立東二番丁小学校へ転校しました。通学へは、仙石線を使います。
今日は、当時の仙石線の様子を少しお話いたします。
池袋にあります鉄道高校に長男は通学いたしております。高校が高校ですから本人の鉄道好きは筋金入りでございまして、いわゆる「鉄男」です。長男は仙石線の駅で一番好きな駅は「陸前大塚」と申しております。海に近い駅(ホーム下が海ですから)なのと、「松島湾に注ぐ夕日の美しさはこの駅にまさるものはない」とコメントしております。仙石線は現在東塩釜より石巻まではローカル線の雰囲気に変わります。
昭和50年当時の仙石線は、まだ「下駄電」の走る東北唯一の国電型車両の走る線でした。本塩釜駅は今の駅舎の前、現在七十七銀行のビルのあたりにありました。新河岸川の河口の上、駅は夏になると「くさい?」駅でした。西塩釜駅より先は複線でしたが、本塩釜駅は単線でした。
小学校から中学校、そして高校、大学と仙石線で仙台まで通いました。その間、西塩釜~東塩釜が高架橋複線化になりましたが、当時はまだ不便なダイヤでした。
しかも、仙台駅がプレハブ駅舎の様子で、東北新幹線駅は、高校受験の当日に開業したのでした。
よく乗車したのは、本塩釜発6時55分。その前43分。7時12分。でした。55分に乗車し、西塩釜で一旦下車し、西塩釜始発7時8分に乗るパターンを知ったのは、中学校に入学してからでした。4両車両の後ろから2番目に乗るのは、この時から大学まであまり変えませんでした。木造電車でエアコンはなし。7時台の電車だとサラリーマンでいっぱいの車両です。大人の背中に顔を押し付けられる状態での通学はかなりしんどいものがありました。
朝6時、母親が起こしに来ます。NHKは朝6時からの放送開始でした。一番最初はでかいパラポラアンテナが動くシーンと重厚な音楽、画面いっぱいに広がるNHKの文字。2月はまだ外が暗い状態です。外は氷点下です。コタツに入りながら、朝食を取り、6時半のテレビ体操の途中から家を出ます。小松崎の坂を下り、本塩釜駅へと向かいます。そして、仙石線に乗り込むわけです。中学校には、塩釜組がおりまして、一緒に通学いたしましたが、小学校の約1ケ月は一人で通学いたしておりました。
仙台駅は仙石線口がありまして、そこから青葉通りを東二番丁へ向かいます。まだ市電の走っている時代です。サヨナラ市電はその後でした。
東二番丁小学校は現在の校舎の前の建物です。当時としても、市内モデル校舎でした。前回のブログで紹介しましたが、塩釜二小が木造校舎でしたから、建物を見ても天と地の差ほどもありました。それと学年6クラス(一学級45人)の大所帯から学年3クラス(一学級38人)へと児童数の少ないのも驚きでした。下駄箱は個人ロッカーでしたし、床はタイルだし、暖房は集中スチームでしたし、給食を上の階へ運ぶエレベーターまであったのですから。そして、教室にあるテレビはカラーだし、OHPは教室に一台ずつあったし(塩釜は学年2台)あし踏みオルガンはないし。もう目がテンでした。教室へ向うまであたりをキョロキョロしっぱなしでした。ですが、廊下ですれ違う小学生が誰一人としてジャス(仙台弁ジャージ)を着てないし、6年生のほとんどがスポーツバッグで通学。
先生はスーツを着てました。緊張したまま、(本当に緊張した。芝居の出番を待つほうがまだまし)教室へ入りました。これまでガヤガヤしていた教室が水を打ったように静かになりました。全員が一斉に僕を見ました。
「ハイみんな静かにしてください」
(エツジだったら「なにすぃて騒いでんだ!しずかにすぃろ!」です。)
「標準語かや?」と思いました。
黒板には「卒業式まであと36日」という文字が日直の名前の下にかいてありました「今日からみなさんと一緒に勉強することになりました酔漢君です。塩釜の小学校から転校しました。卒業式までわずかですが、仲良くするように」
きぬえ先生は手短に紹介してくれました。
緊張のあまりです。いつもの口調になっておりました。
「すぅいかぁんです。んでまずよろすぃく」
一瞬教室が静まりかえりました。その後 爆笑。
「あいつ訛ってる」あちこちから聞こえてきました。(もう早く出たい!)
一番前真ん中に座っていた男の子が僕の目を見ながら笑っていました。
彼の口から僕が思いもしなかった言葉を聴きました。
「あんたも不幸だね、仲間入りだね」
(ど、どういう意味だぁーー)
こじま君でした(彼は以前のブログに登場してます。「水の事故に想う」編参照)
ちなみに彼とはこれから先、高校まで一緒なのでした。(今後彼のおもしろさは紹介させていただきます)
先生が教室を出た後はもうインタビューの嵐でした
「どうしてこの時期に転校してきたのか」話題はこの一点に付きました。
事情を話ますと「だいじょうぶこんなのこのクラスにはいっぱいいるから」との声「塩釜は久しぶりだなぁ。バスの泉組より遠いよね」
まてよ、じゃぁこのクラスちゃんとした学区から通っているのは?「そうだね、クラスの半分じゃないかな」と平然とした答えが返ってきました。
一人の長身な男の子が声をかけて来ました。
「酔漢君。以前会ったことあるのを覚えてる?」
(このクラスにそんなのいたっけ?)とキョトンとしていると。
「塩釜のたつま君の得度式に一緒にいたでしょ」
そういえば、塩釜二小4年生時、仲が良かった たつま君のお坊さんになる儀式にお呼ばれしましたが、その時いた子だったのです。一緒のお昼を食べたことを思い出しました。
「けいたです。これからもよろしく。たつま君は僕のいとこだから」
さいかわけいた君がこのクラスにいたわけです。僕は少し安心しました。
彼とは中学入学後も一緒に遊びました。
彼がいたおかげで僕は今後起こりうるクラスの悪事から助けられることになるのでした。
今日は、当時の仙石線の様子を少しお話いたします。
池袋にあります鉄道高校に長男は通学いたしております。高校が高校ですから本人の鉄道好きは筋金入りでございまして、いわゆる「鉄男」です。長男は仙石線の駅で一番好きな駅は「陸前大塚」と申しております。海に近い駅(ホーム下が海ですから)なのと、「松島湾に注ぐ夕日の美しさはこの駅にまさるものはない」とコメントしております。仙石線は現在東塩釜より石巻まではローカル線の雰囲気に変わります。
昭和50年当時の仙石線は、まだ「下駄電」の走る東北唯一の国電型車両の走る線でした。本塩釜駅は今の駅舎の前、現在七十七銀行のビルのあたりにありました。新河岸川の河口の上、駅は夏になると「くさい?」駅でした。西塩釜駅より先は複線でしたが、本塩釜駅は単線でした。
小学校から中学校、そして高校、大学と仙石線で仙台まで通いました。その間、西塩釜~東塩釜が高架橋複線化になりましたが、当時はまだ不便なダイヤでした。
しかも、仙台駅がプレハブ駅舎の様子で、東北新幹線駅は、高校受験の当日に開業したのでした。
よく乗車したのは、本塩釜発6時55分。その前43分。7時12分。でした。55分に乗車し、西塩釜で一旦下車し、西塩釜始発7時8分に乗るパターンを知ったのは、中学校に入学してからでした。4両車両の後ろから2番目に乗るのは、この時から大学まであまり変えませんでした。木造電車でエアコンはなし。7時台の電車だとサラリーマンでいっぱいの車両です。大人の背中に顔を押し付けられる状態での通学はかなりしんどいものがありました。
朝6時、母親が起こしに来ます。NHKは朝6時からの放送開始でした。一番最初はでかいパラポラアンテナが動くシーンと重厚な音楽、画面いっぱいに広がるNHKの文字。2月はまだ外が暗い状態です。外は氷点下です。コタツに入りながら、朝食を取り、6時半のテレビ体操の途中から家を出ます。小松崎の坂を下り、本塩釜駅へと向かいます。そして、仙石線に乗り込むわけです。中学校には、塩釜組がおりまして、一緒に通学いたしましたが、小学校の約1ケ月は一人で通学いたしておりました。
仙台駅は仙石線口がありまして、そこから青葉通りを東二番丁へ向かいます。まだ市電の走っている時代です。サヨナラ市電はその後でした。
東二番丁小学校は現在の校舎の前の建物です。当時としても、市内モデル校舎でした。前回のブログで紹介しましたが、塩釜二小が木造校舎でしたから、建物を見ても天と地の差ほどもありました。それと学年6クラス(一学級45人)の大所帯から学年3クラス(一学級38人)へと児童数の少ないのも驚きでした。下駄箱は個人ロッカーでしたし、床はタイルだし、暖房は集中スチームでしたし、給食を上の階へ運ぶエレベーターまであったのですから。そして、教室にあるテレビはカラーだし、OHPは教室に一台ずつあったし(塩釜は学年2台)あし踏みオルガンはないし。もう目がテンでした。教室へ向うまであたりをキョロキョロしっぱなしでした。ですが、廊下ですれ違う小学生が誰一人としてジャス(仙台弁ジャージ)を着てないし、6年生のほとんどがスポーツバッグで通学。
先生はスーツを着てました。緊張したまま、(本当に緊張した。芝居の出番を待つほうがまだまし)教室へ入りました。これまでガヤガヤしていた教室が水を打ったように静かになりました。全員が一斉に僕を見ました。
「ハイみんな静かにしてください」
(エツジだったら「なにすぃて騒いでんだ!しずかにすぃろ!」です。)
「標準語かや?」と思いました。
黒板には「卒業式まであと36日」という文字が日直の名前の下にかいてありました「今日からみなさんと一緒に勉強することになりました酔漢君です。塩釜の小学校から転校しました。卒業式までわずかですが、仲良くするように」
きぬえ先生は手短に紹介してくれました。
緊張のあまりです。いつもの口調になっておりました。
「すぅいかぁんです。んでまずよろすぃく」
一瞬教室が静まりかえりました。その後 爆笑。
「あいつ訛ってる」あちこちから聞こえてきました。(もう早く出たい!)
一番前真ん中に座っていた男の子が僕の目を見ながら笑っていました。
彼の口から僕が思いもしなかった言葉を聴きました。
「あんたも不幸だね、仲間入りだね」
(ど、どういう意味だぁーー)
こじま君でした(彼は以前のブログに登場してます。「水の事故に想う」編参照)
ちなみに彼とはこれから先、高校まで一緒なのでした。(今後彼のおもしろさは紹介させていただきます)
先生が教室を出た後はもうインタビューの嵐でした
「どうしてこの時期に転校してきたのか」話題はこの一点に付きました。
事情を話ますと「だいじょうぶこんなのこのクラスにはいっぱいいるから」との声「塩釜は久しぶりだなぁ。バスの泉組より遠いよね」
まてよ、じゃぁこのクラスちゃんとした学区から通っているのは?「そうだね、クラスの半分じゃないかな」と平然とした答えが返ってきました。
一人の長身な男の子が声をかけて来ました。
「酔漢君。以前会ったことあるのを覚えてる?」
(このクラスにそんなのいたっけ?)とキョトンとしていると。
「塩釜のたつま君の得度式に一緒にいたでしょ」
そういえば、塩釜二小4年生時、仲が良かった たつま君のお坊さんになる儀式にお呼ばれしましたが、その時いた子だったのです。一緒のお昼を食べたことを思い出しました。
「けいたです。これからもよろしく。たつま君は僕のいとこだから」
さいかわけいた君がこのクラスにいたわけです。僕は少し安心しました。
彼とは中学入学後も一緒に遊びました。
彼がいたおかげで僕は今後起こりうるクラスの悪事から助けられることになるのでした。
いやー話題が尽きることを知らぬ親父の暴走。
西塩釜始発7時8分は、高校生時代は「定番」列車でした。
酔漢さんとの年齢差がありますが、まったく同じ列車に乗っていた時期があったのですね。
私は、確か前から2両目の一番前のドア付近に、待ち合わせて乗車してました。
三中の友人は、たいがい仙台通学組みでしたので。
以下、息子さんへの伝言も兼用。
あの頃の仙石線の車両には「ジュラ電」のお古が走っていました。
また、二等三等が車内で仕切られていた名残があつた車両もありました。
木の床で、ペラペラのモケット生地を貼ったクロスシートでしたね。
塗色は、緑に統一される前は、茶色と国鉄色が混在していました。
運用面で不思議なことに、2両と3両と4両の編成とがありました。
運賃が5円単位でして、小1の頃は、下馬・本塩釜間は大人が10円、子供は5円でした。
昔の本塩釜駅はよーく覚えていますが、そろそろ出社準備のため、後ほど...
「親父と同じ年だっちゃ」と思ったからです。
車両の真ん中に支柱があって、そこに寄りかかると、背中のランドセルがクッションになって、座れないときは、案外楽でした。
クロンシュタット様は西塩釜ですよね。酔漢は7時8分は、このブログにコメントを頂きます丹治氏と3両目に乗りました。
あの頃西塩釜始発は、学生が占領していたような駅でした。自転車で来る学生も多くおりました。
西塩釜駅が無人になっているのを見ますと、やはり街が変わったなぁと思います。
息子から、クロンシュタット様へ伝言です。
昭和30年代仙石線車両を掲載しているホームページがるとのこと。詳しい事が解りましたら、この場でお知らせいたします。
暫くは、「お酒の話」を続けます。
そして、もう一度「ALWAYSな話」を語ろうかとも思いました。
自宅からの距離は、西塩釜駅と大差ないのですが、周辺の住民は下馬駅を使っています。
下馬の方が道路上行きやすいですし、それになにしろ、西塩釜駅は寂しくて...
最近、下馬駅から西塩釜駅を通って本塩釜駅まで歩いたことがあります。
まだ、単線時代の遺物が残っているんですね。
それよりも早いヤツだと0657で、これは高城町始発。結構沢山の人が西塩釜で0708に乗り換えてましたね。酔漢さんも、その一人だったのでは?
それよりもっと早いヤツだと0640。これは滅多に利用しませんでした。
あのボックスシートと長くないロングシート(形容矛盾だなぁ)の車両、小生も乗りましたよ。ボックスが空いている時は、勿論ボックスの窓側にネ。ちょっとした旅行気分だったなぁ・・・
それからドアが半開きの狭いやつから両開きの広いやつに変った時(勿論当時の仙石線新型車両になった時)、ドアが開ける時に物凄くきつくなったのを覚えてませんか。
発車でドアが閉る時、何人がかりかでドアを閉めまいとするイタズラ、時々やってました。
私は昭和50年代の初めに苦竹から下馬まで仙石線に乗って、自衛隊の隣の高校へ通っていました。
お盆や年末年始も部活のため電車に乗っていたのですが、その時期は首都圏からの帰省客が「このドアは手で開けてください」とシールが張ってあるのに、ホームでドアが開くのを待っているのです。それを私たちは初めニヤニヤして見ていて、発車間際になって「かわいそうだがら開げでやっぺ」とドアを開けてあげたものでした。
今は開閉ボタンがついているけど、あの当時、冬にお客さんが降りた後車掌が閉めるまで寒がったなや。でも、あの電車、酔漢氏がランドセルをクッションにして寄りかかったポールは、込んでいるときつかまることができて便利でしたよね。んでまず。
そうですよね。夏休みに観光客が大勢のります仙石線。みなさん、ドアの前で待ってましたよね。冬になると、ありがたいシステムでしたが、下駄電からスチールの電車に変わったばかりに時、ドアが重くて、嫌だったのを思い出しました。エアコンは高校二年のとき。
暑い朝、エアコンの電車がホームに入ったときに、みんなで拍手しました。
初めまして!あいさつ遅れまして申し訳ございませんでした。
また、遊びに来てけらいん!
仙石線のドアが片開きから両開きになったときの重いドアですが、何かの拍子で、エアーが完全に抜けてから開けるとわりと軽く開けられることがわかり、自称「健全なオタク」の私としては得意になって友達に教えていました。
塩釜には今も何軒か親戚があり、酔漢様のご実家がある「こまっつぁぎ」やサイレン山の「東園寺」へも年に1,2回は出没しています。というわけで、これはという塩釜話や仙石線話のときには参戦させていただきますのでよろしくお願いします。
隣りの高校へは弟が通学しておりました。
私が三中に通っていた頃までは、三中と駐屯地の敷地の間は、田んぼと原っぱでした。
用水路も流れており、よくザリガニを釣ったものです。
今では埋め立てられ高規格の道路が通ってしまいましたが。
仙石線は103系が投入される前の時代に慣れ親しんでおりました。ジュラ電も走っておりました。
冷房装置がなくとも、あの頃の仙台周辺は今よりも夏が涼しかったので平気でした。
夏の最高気温が30℃を超えると、ニュースになった時代でした。
毎日乗車するE233系(中央快速線の新型車両)のドア脇には、開閉ボタンが設置されております。
地方へ転出する際の事前準備ということなのでしょうか。
10月にやっと教室棟だけが完成し(実習棟と体育館はまだ)引っ越したのですが、グラウンドは石というより岩がごろごろしている状態で、2年生の1学期ぐらいまでは体育の時間は「ドカチン」でした。
仙石線は日中(試験の時など)は下手すると1時間ぐらい待たなければならないときもあり、やっと来たと思うと72系(?)の2両編成だったりして、今思うとずいぶんのどかでした。
E233系の開閉ボタンの情報は初めて知りました。こんど上京するとき確かめます。
下馬駅前の坂病院。なかなか政治色の強い病院ではあるのですが、小さい頃に年に3回も入院したことがあります。
下馬の45号線の交差点から三中へ向かう坂は、雪が降ると「スキージャンプ台の助走路」状態となり、昔は通行止めになったことがあります。
坂を登りきった地点にある赤石病院は、双方の兄弟同士が三中で友人でした。
やがて右側にある床屋さん。左側にある米屋さんに食堂。三中手前にあった本屋さん。どこもかしこも深いお付き合いがありました。
火の見やぐら脇の山道を通って行くと、私の自宅はあと数分です。
昔の仙石線は3両編成てのもありまして、乗車位置の選択に悩んだものです。
酔漢さんの息子さん、シティラピッド君が鉄道ファンでして、なんと4月からは私の息子の進学先の先輩になります。