酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

塩釜市立第二小学校から 最後の日に

2007-09-14 15:57:44 | 塩竈小学校の頃の話
お気づきの方もいらっしゃったかと存じますが、「しおがまし」は「塩竈市」が正式名称です。「竈」(かまど)が古来より使われております地名です。「釜」(かま)ではありません。現在は両方、使用しても良い事になっておりますので、あまり制約はないようです。ですから、駅名は時刻表に記載されております「本塩釜駅」を使用しましたし、「塩竈神社」といたしました。小学校の名称は各ホームページ上で使われております名称を使いました。よく「塩竈」を「塩釜」の旧字と思われていらっしゃる方もおられるようですが、漢字上、意味は全く異なります。でも、このブログでも酔漢自身その区別をどうしようか迷ったことも多々ありました。

小学校時代の事を中心にブログを進めてまいりましたが、そろそろ小学校の卒業式が近づいてまいりました。今日は当時の塩釜二小を今一度紹介したいと思います。

木造2階建ての校舎が二棟、昭和44年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての校舎が1棟。各学年6~7クラスの児童数の多い小学校でした。この鉄筋コンクリートの校舎は今も使われているようです。児童数は全校生徒1200人を越え、県下では岩沼小学校に継いで2番目に児童数の多い小学校でした。杉の入小学校が建てられて児童が2つに分かれましたが、酔漢が高校時代の事です。もっとも酔漢の時代は塩竈市内には4つの小学校しかありませんでした。一小、この二小、三小、玉川にあります月見ケ丘小です。(離島、松島湾内に浦戸小がありましたが)
ですが、この塩釜二小は、立て替えもなかなか進まず、いつまでも木造校舎のままでした。ですから、木造校舎ならではのトラブルが多発するわけです。
その1「牛乳が降ってきた」
北側にある木造校舎1階は1年生の教室が並んでおりました。2階は4年生に教室です。給食の時間中です。ちなみに、当時はまだやかんに入った「脱脂粉乳」でした。(ビン入り牛乳に変わったのは酔漢3年生時です)給食を食べておりますと、なにやら天井からポタポタと落ちてくるではありませんか。
「なんだべ」「なにやこいず?」といいながら教室は大騒ぎになりました。先生(としこ先生)が気を利かせて、なにやら落ちてくるあたりの子供達をよけさせましたが、その落ちる量がだんだん増えてきました。その時、4年生の先生が教室に入ってきて「牛乳のやかん倒してこぼしたんだおん」と言いに来ました。天井から牛乳が降ってきたのでした。ですが酔漢この事件と同じような事を中学校時代にも経験しました。(仙台の真ん中なのになぁ)
その2「煙が充満」(木造校舎とはあまり関係ありませんが)
小学校4年生時に全学級にサンポットの石油ストーブが入りました。それまでは、例の「だるまストーブ」です。日直はあの重いコークスの入ったカゴと薪束を教室に運ばなくてはなりません。で薪ですが、外の方に向いたところに置いてありますので、雪の降った日には湿気っている場合があるのでした。そうすると・・・いたるところで煙が充満しました。廊下中白い煙に包まれたことがありました。石油ストーブになった時もそうでしたが、給食の牛乳を大きなたらいで暖めて飲んだりしました。集中暖房じゃできない業ですね。
その3「机に雪?」
窓側の机、雪の日は必ず雪がうっすら積もって(ほんのわずかですが)おりました。隙間から吹き込んだ雪です。4年生時の担任ちえこ先生は窓側を北極、ストーブ側をアフリカと称して、まめに席替えをいたしておりました。
こんな教室でした。ブログの背景にいたしました小学校5・6年は、毎度登場のエツジが担任でしたが、5年生時は南側の木造校舎の2階、6年生時は鉄筋コンクリート校舎3階でした。で、もっと凄いのは、学校のプールです。このブログでも一度紹介しましたが(「光化学スモッグの話」で)ビニール製の25mプールなのです。全国的にも大変珍しいプールだったのではないでしょうか。うわさの域ですが、何度となくプール改築の話があったそうなのですが、そのつど頓挫し、工事中のまま(きちんと掘り下げてはありました)青いビニールシートを敷き詰めた状態のプールになったとの事でした。不思議と水が漏れたという話は聞きませんでした。市内の水泳大会では打倒三小をめざして練習しておりました。
ふろくです。教室備えつけのテレビは最後まで白黒テレビでしたし、同じく足踏みオルガンで授業をいたしました。音楽室でも同様に足踏みオルガンでした。酔漢ピアノを練習しておりましたので(叔母がピアニストでした)よく校歌を伴奏しましたが、足を踏みながらオルガンを弾くのは案外難しかったのを覚えております(気にするほどでもないのかもしれませんが)

昭和50年1月半ば、酔漢の仙台への転校が決まりました。卒業アルバムの撮影も終了しておりました。教室の黒板には卒業式までの日数が書き込まれておりました。
塩釜から仙台へは通う事になります。いわゆる越境通学です。
エツジは「みんなさぁは俺から話すっかっらっしゃ。おめぇはまだ話すっことねぇんだど」と言いました。事件?のたくさんあった教室と友人達。はっきり言って悪ガキ集団との別れは小学生の酔漢でも気が重くなるのでした。昭和50年2月1日の朝。「酔漢前さぁ来!」エツジが呼びました。僕は「来たな」と思いました。
「酔漢さぁ、来週から仙台さぁ転校する事になったからっしゃ。んでも家は塩釜さぁあるから、遊びてぇ奴は遠慮すっことねぇから誘ってやったらいいっちゃ。んで酔漢、挨拶ばしろ」
「今、先生から話あったけんど、来週から仙台市立東二番丁小学校さぁ転校すっことになりました。もうすぐ卒業式だけんど。。。(言葉が続きませんでした)おもせぇがったなや」(この最後のフレーズは生涯忘れないと思います)
「なして今まで話さねがったのっしゃ!」教室からそんな声が響きました。
「酔漢には酔漢の事情があんのっしゃ。あんまししつこく聞ぐんでねぇど」
2月4日が塩釜二小最後の登校日でした。前日に降った雪がまだ校庭に残っておりました。酔漢は6年4組に水沼君を訪ねました。
「たけちゃん、俺転校すっから。子供会の委員長はまつもと君に言っておいたからっしゃ」「なして?」
酔漢は彼の質問には答えず教室を出ました。
掃除が終了し、エツジが教室に入って来ました。「酔漢オルガン弾け。校歌な、みんなして歌うべっちゃ。いいか最後だかんな。ほれ 1 2 3」
僕はいつもより力が入りました。

港を抱く 磯山上に
太平洋を真下に見つつ
いつも楽しい我らが学校
はるかな沖に浮く白雲が あかるい希望を呼んでいる
来よ 来よ 共に学ぼう

2番まで歌いました。酔漢この校歌今でも好きです。明るいメロディーもさることながら、校名が一度も登場しないこの詩がいいですね。小学校は「共に学ぼう」でいいんです。高校三年生の時、担任の先生(現築館高校校長先生)と一番だけ歌ったのが最後かな。

「仙台さぁ行っても、頑張ってやってけらいん」
「家さぁいんだべ。遊びさぁ行ぐからっしゃ」
「こいづば持って行ってけさいん」さとうただし君です。彼は僕の顔をまんがにしてくれたのでした。

校門を出た時、これまでおとなしく降っていた雪がすこし激しく降って来ました。本当におもせぇがった小学校でした。

昭和50年2月8日。仙台市立東二番丁小学校、初日でした。教室の雰囲気はこれまでとは全く違っておりました。(いきなりカルチャーショックでした)


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