寺田寅彦の言葉は、かなり重かった。
こう思わらざるを得ませんでした。
くだまきでは、地震と津波、災害への警鐘としてその言葉を整理し、私見を語りました。
「原子力発電所の事故」は、まさしく現代の象徴です。
化石燃料の乏しい日本で、その有効活用に活路を見出した過去の歴史を否定するつもりはありません。
ですが、その過程と経緯を知りませんとどうもこの事故を自分の中で消化不良を起こしているように感じます。
「ふたりの科学者」
一人目の寺田はその言葉から「くだまき」で語りました。
そして二人目「仁科芳雄」を語ってまいります。
量子力学の祖とされる仁科芳雄。
寺田と同様、理化学研究所に席を置き、日本原爆開発の中心的役割を果たします。
くだまきでは仁科芳雄の書簡を手がかりに、日本原爆開発の歴史。
そして、朝永、湯川らノーベル賞受賞者の若き頃の様子等を語ってまいります。
日本の原子力政策は、科学者達の思惑と違った方向へ進んで行きました。
ですが、最近はそうでもない事実も浮かんでまいります。
その接点はどこにあるのか。
かなり政治性の強い「くだまき」になるかもしれません。
冷静になって判断していきたいと考えております。
まずは、下記の映像をご覧ください。
ひーさんからのコメントにあったものです。
「格納容器は壊れないしプルトニウムは飲んでも大丈夫」
仁科芳雄がこれを見たらどう考えるのでしょうか。
実は、仁科自身戦後、原子力の安全性について、非常に憂いた書簡を認めております。
当時は原発というよりは核実験の視点に立ってというものですが、その大所にたった見方は現在にも伝わってまいります。
上記の映像が東京大学大橋教授の発言。
そしてもう一つの映像です。
小出裕章参考人の全身全霊をかけた凄まじい原発批判
京都大学 小出教授の発言です。
これら、二人の意見について、どうこうとする「くだまき」ではございません。(失礼。寺田の「くだまき」ではどうこう言っておりますが。)
尤も、どうとらえるかは、くだまきを視聴されておられます皆様のご判断にお任せしたいと考えております。(今の段階では)
「くだまき」の視点では、こうです。
「過去と現在は別」ではございますが、大橋教授は東京大学で寺田の後輩になり、小出教授は京都大学で仁科の後輩に当たります。
量子力学、原子力基礎研究で日本をリードしてきた京大。
戦後、「遅れを取った」(京大に)と感じていた東大。
立場が逆転しているような印象を持つのは酔漢だけでしょうか。
このあたりは拘りたいと考えております。
この章は、寺田とはまた違って、物理学の知識に乏しいこともあり、時間を使っていかざるを得ません。
本文中に、間違い等、お気づきの点がございましたら、ご意見を拝聴させていただきたいとも考えております。
冒頭の写真。
仁科芳雄。
理研では「親方」と呼ばれております。
その門下生には数多く優秀な研究者が育っております。
次回、その仁科を中心に「くだまき」を語ります。
2006年3月20日(月)東奥日報
--------------------------------------------------------------------------------
■中曽根康弘元首相に聞く
(下)原子力50年/政治の力で利用に道
-中曽根氏が、昭和二十八(一九五三)年度予算に突然、修正案という形で原子力関連予算を提出したのは、どういう思いからだったのか。
「五三年、私は米国ハーバード大学の国際研究セミナーに招待され、終了後に米国の原子力施設を視察した。アイゼンハワー米国大統領の『アトムズ・フォー・ピース』(平和のための原子力)という発言が大いに注目を集めたころで、軍事機密を民間に公開していた。米国では民間の原子力産業会議が発足したことも知り、このままでは日本は遅れてしまうとの危機感を抱いた。そこで、カリフォルニア州バークレーのローレンス研究所にいた、理化学研究所の嵯峨根遼吉博士と会って相談した」
-博士からは、どんな助言があったのか
「彼は三原則をぜひ守ってくれ、と言った。一つは、長期的展望に立った国策を確立すること。二つ目は、法律と予算でそれを裏付けること。三つ目は、優秀な学者を集めること。いいかげんな学者が群がって来るが、いい学者を入れないと発展しない-と彼は言っていた。私はいい話を聞いたと思って、それを実行したわけだ」
-当時の学術界の様子はどうだったのか。
「日本学術会議の茅誠司会長、伏見康治さん(大阪大学教授)らが原子力研究の承認を得る動議を出しては、ことごとく否決され、動きがとれなかった。そういう状況を見て、政治で壁を破る以外にないと決心した。事前に情報が漏れると反対運動が起きるから、川崎秀次君、桜内義雄君、稲葉修君ら同志にだけ極秘に相談した。私は予算委員会の筆頭理事を務めていたが、党幹部に前日に相談し、予算案が予算委員会を通過する直前に修正案として出した」
党派を超えて
-修正案提出は各界に衝撃を与え、大騒ぎになったとか。
「当時、私は改進党に所属していた。予算案を組んでいた自由党は小憎らしいと思っただろうが、反対するわけにもいかない。改進党が賛成しなければ、予算案が通らない状況だったからだ。短時間の仕事だったからうまくいった。成立した原子力関連予算は、原子力平和利用研究費補助金二億三千五百万円とウラニウム資源調査費千五百万円だった」
-翌五五(昭和三十)年にはジュネーブで第一回原子力平和利用国際会議も開かれた。
「会議には日本も代表団を送った。工業技術院長の駒形作次博士が団長で、私と自由党の前田正男君、社会党右派の松前重義君、同党左派の志村茂治君の四人が顧問として同行した。議長はインドのバーバー博士。インドの原子力開発がかなり進んでいることが分かったし、世界の原子力情勢も知り、日本も早く取り組まなければいけないと感じた。会議終了後、四人でフランス、ドイツ、イギリス、米国を回って原子力施設を視察したほか、政策を子細に調べて、道中、四人で議論をした。羽田空港に戻る前には日本の原子力政策の要綱を作り上げた」
「帰国後は、超党派で原子力合同委員会をつくり、私が委員長になり、原子力関連法を制定した。原子力基本法、原子力委員会設置法など八法案を一つの国会で通した。これは超党派で取り組んだ結果だ。与野党とも世界の進運に遅れてはならない、との切迫感があった。それが原子力推進の大きな力になった」
-原子力基本法の施行から半世紀がたち、国内では五十五基の原発が運転し、電力供給の三割を賄うまでになった。
「今後もさらに動力炉の改善が進んでいくと思う。プルサーマル(軽水炉でのプルトニウム利用)、高速増殖炉といった技術的進歩に取り組んでいかなければならない。ナトリウム漏れで停止したままの高速増殖炉原型炉『もんじゅ』についても事態を改善して前進させる段階になってきた」
「米国は原子力開発を一時ストップしていたが最近、ブッシュ政権が日本やフランスに追い付こうとして、再処理まで含めて動きだした。米国では既に百基以上の原子炉が動いているから、追い付くのも早い。ドイツ人は用心深いために遅れているが、フランスはもう十分な発展を遂げ、実績を積んでいる。英国も進んでいる」
地域の理解大事
-原子力関係者や立地地域に望むことは何か。
「新型原子炉開発、廃棄物処理、放射線の多目的利用をさらに前進させる段階になってきた。石油が高騰して(資源小国の)日本は原子力開発が一番必要な状況になってきている。米国ですら今、慌てて再開し始めたのだから。原子力推進のためには、やはり(地元住民と)話し合い、理解を得ることが大事な要素だ。分からない分野だから(不安を抱くのも)無理もない。日本の原子力施設は震度6ぐらいでも問題ないような耐震構造にしてあるため、費用はかかるが、それでもやらざるを得ない状況だ」
「嵯峨根君。サイクロトロンの設計図は進んでいるかね?」
「大丈夫ですよ。もうすぐ完成です」
「それにしても、君は手先が器用だなぁ」
我が国初のサイクロトロン完成に尽力した嵯峨根良吉博士。
世界で二番目の完成。
昭和12年の事でした。
そしてそれから八年後。
昭和二十年八月九日。
彼自身が歴史の渦中に巻き込まれていく。
まだ誰も想像をしておりません。
こう思わらざるを得ませんでした。
くだまきでは、地震と津波、災害への警鐘としてその言葉を整理し、私見を語りました。
「原子力発電所の事故」は、まさしく現代の象徴です。
化石燃料の乏しい日本で、その有効活用に活路を見出した過去の歴史を否定するつもりはありません。
ですが、その過程と経緯を知りませんとどうもこの事故を自分の中で消化不良を起こしているように感じます。
「ふたりの科学者」
一人目の寺田はその言葉から「くだまき」で語りました。
そして二人目「仁科芳雄」を語ってまいります。
量子力学の祖とされる仁科芳雄。
寺田と同様、理化学研究所に席を置き、日本原爆開発の中心的役割を果たします。
くだまきでは仁科芳雄の書簡を手がかりに、日本原爆開発の歴史。
そして、朝永、湯川らノーベル賞受賞者の若き頃の様子等を語ってまいります。
日本の原子力政策は、科学者達の思惑と違った方向へ進んで行きました。
ですが、最近はそうでもない事実も浮かんでまいります。
その接点はどこにあるのか。
かなり政治性の強い「くだまき」になるかもしれません。
冷静になって判断していきたいと考えております。
まずは、下記の映像をご覧ください。
ひーさんからのコメントにあったものです。
「格納容器は壊れないしプルトニウムは飲んでも大丈夫」
仁科芳雄がこれを見たらどう考えるのでしょうか。
実は、仁科自身戦後、原子力の安全性について、非常に憂いた書簡を認めております。
当時は原発というよりは核実験の視点に立ってというものですが、その大所にたった見方は現在にも伝わってまいります。
上記の映像が東京大学大橋教授の発言。
そしてもう一つの映像です。
小出裕章参考人の全身全霊をかけた凄まじい原発批判
京都大学 小出教授の発言です。
これら、二人の意見について、どうこうとする「くだまき」ではございません。(失礼。寺田の「くだまき」ではどうこう言っておりますが。)
尤も、どうとらえるかは、くだまきを視聴されておられます皆様のご判断にお任せしたいと考えております。(今の段階では)
「くだまき」の視点では、こうです。
「過去と現在は別」ではございますが、大橋教授は東京大学で寺田の後輩になり、小出教授は京都大学で仁科の後輩に当たります。
量子力学、原子力基礎研究で日本をリードしてきた京大。
戦後、「遅れを取った」(京大に)と感じていた東大。
立場が逆転しているような印象を持つのは酔漢だけでしょうか。
このあたりは拘りたいと考えております。
この章は、寺田とはまた違って、物理学の知識に乏しいこともあり、時間を使っていかざるを得ません。
本文中に、間違い等、お気づきの点がございましたら、ご意見を拝聴させていただきたいとも考えております。
冒頭の写真。
仁科芳雄。
理研では「親方」と呼ばれております。
その門下生には数多く優秀な研究者が育っております。
次回、その仁科を中心に「くだまき」を語ります。
2006年3月20日(月)東奥日報
--------------------------------------------------------------------------------
■中曽根康弘元首相に聞く
(下)原子力50年/政治の力で利用に道
-中曽根氏が、昭和二十八(一九五三)年度予算に突然、修正案という形で原子力関連予算を提出したのは、どういう思いからだったのか。
「五三年、私は米国ハーバード大学の国際研究セミナーに招待され、終了後に米国の原子力施設を視察した。アイゼンハワー米国大統領の『アトムズ・フォー・ピース』(平和のための原子力)という発言が大いに注目を集めたころで、軍事機密を民間に公開していた。米国では民間の原子力産業会議が発足したことも知り、このままでは日本は遅れてしまうとの危機感を抱いた。そこで、カリフォルニア州バークレーのローレンス研究所にいた、理化学研究所の嵯峨根遼吉博士と会って相談した」
-博士からは、どんな助言があったのか
「彼は三原則をぜひ守ってくれ、と言った。一つは、長期的展望に立った国策を確立すること。二つ目は、法律と予算でそれを裏付けること。三つ目は、優秀な学者を集めること。いいかげんな学者が群がって来るが、いい学者を入れないと発展しない-と彼は言っていた。私はいい話を聞いたと思って、それを実行したわけだ」
-当時の学術界の様子はどうだったのか。
「日本学術会議の茅誠司会長、伏見康治さん(大阪大学教授)らが原子力研究の承認を得る動議を出しては、ことごとく否決され、動きがとれなかった。そういう状況を見て、政治で壁を破る以外にないと決心した。事前に情報が漏れると反対運動が起きるから、川崎秀次君、桜内義雄君、稲葉修君ら同志にだけ極秘に相談した。私は予算委員会の筆頭理事を務めていたが、党幹部に前日に相談し、予算案が予算委員会を通過する直前に修正案として出した」
党派を超えて
-修正案提出は各界に衝撃を与え、大騒ぎになったとか。
「当時、私は改進党に所属していた。予算案を組んでいた自由党は小憎らしいと思っただろうが、反対するわけにもいかない。改進党が賛成しなければ、予算案が通らない状況だったからだ。短時間の仕事だったからうまくいった。成立した原子力関連予算は、原子力平和利用研究費補助金二億三千五百万円とウラニウム資源調査費千五百万円だった」
-翌五五(昭和三十)年にはジュネーブで第一回原子力平和利用国際会議も開かれた。
「会議には日本も代表団を送った。工業技術院長の駒形作次博士が団長で、私と自由党の前田正男君、社会党右派の松前重義君、同党左派の志村茂治君の四人が顧問として同行した。議長はインドのバーバー博士。インドの原子力開発がかなり進んでいることが分かったし、世界の原子力情勢も知り、日本も早く取り組まなければいけないと感じた。会議終了後、四人でフランス、ドイツ、イギリス、米国を回って原子力施設を視察したほか、政策を子細に調べて、道中、四人で議論をした。羽田空港に戻る前には日本の原子力政策の要綱を作り上げた」
「帰国後は、超党派で原子力合同委員会をつくり、私が委員長になり、原子力関連法を制定した。原子力基本法、原子力委員会設置法など八法案を一つの国会で通した。これは超党派で取り組んだ結果だ。与野党とも世界の進運に遅れてはならない、との切迫感があった。それが原子力推進の大きな力になった」
-原子力基本法の施行から半世紀がたち、国内では五十五基の原発が運転し、電力供給の三割を賄うまでになった。
「今後もさらに動力炉の改善が進んでいくと思う。プルサーマル(軽水炉でのプルトニウム利用)、高速増殖炉といった技術的進歩に取り組んでいかなければならない。ナトリウム漏れで停止したままの高速増殖炉原型炉『もんじゅ』についても事態を改善して前進させる段階になってきた」
「米国は原子力開発を一時ストップしていたが最近、ブッシュ政権が日本やフランスに追い付こうとして、再処理まで含めて動きだした。米国では既に百基以上の原子炉が動いているから、追い付くのも早い。ドイツ人は用心深いために遅れているが、フランスはもう十分な発展を遂げ、実績を積んでいる。英国も進んでいる」
地域の理解大事
-原子力関係者や立地地域に望むことは何か。
「新型原子炉開発、廃棄物処理、放射線の多目的利用をさらに前進させる段階になってきた。石油が高騰して(資源小国の)日本は原子力開発が一番必要な状況になってきている。米国ですら今、慌てて再開し始めたのだから。原子力推進のためには、やはり(地元住民と)話し合い、理解を得ることが大事な要素だ。分からない分野だから(不安を抱くのも)無理もない。日本の原子力施設は震度6ぐらいでも問題ないような耐震構造にしてあるため、費用はかかるが、それでもやらざるを得ない状況だ」
「嵯峨根君。サイクロトロンの設計図は進んでいるかね?」
「大丈夫ですよ。もうすぐ完成です」
「それにしても、君は手先が器用だなぁ」
我が国初のサイクロトロン完成に尽力した嵯峨根良吉博士。
世界で二番目の完成。
昭和12年の事でした。
そしてそれから八年後。
昭和二十年八月九日。
彼自身が歴史の渦中に巻き込まれていく。
まだ誰も想像をしておりません。
多分私が書いたら、怒りのせいで誹謗中傷だけになってしまうでしょう。
しっかり反論する学者がいることに少し安心します。
大橋教授、小出教授。お二人のご意見を拝聴することに、意義があると考えました。
小出教授は今、大橋教授との対談を申し込まれておりますが、大橋教授は雲隠れ状態です。
福井原発の委員のままでおりますが、これも批判されているところです。
寺田のところで自身の私見は語ったところですが、今後、掘り下げていく予定です。