最終です。
この手記に関する「くだまき」をもう一度だけ語らせていただくこと、平にご容赦くださいませ。
二週間たつと「天災」だけを受けた人たちにも「人災」の要素が見え隠れしてくる。いわゆる震災関連死だ。一ヶ月でその疑いがある人が少なくとも二百八十二人を越えていると、読売新聞が報じている。その内の二百十四人は宮城県で起こっている。せっかく大震災でも生き延びた人が過酷な避難所暮らしで亡くなっていく状況は、「人災」の可能性もある。いずれにせよ、そんな形で人が亡くなっている状況では復興などまだまだ先の話だ。
そんな避難所などの劣悪な環境から早く住み易いところへと移住させるべきだという論調も聞こえてくる。先の見えない避難所暮らしを心配しての事だろうし、間違ってはいないとは思う。しかし行方不明者は三週間たっても一向に減らない。三月末でも一万五千人を越えている(四月末でも一万一千人)。更に津波被害の特徴として遺体が遠く離れた地域の海岸で見付かる場合もあり、遺体の確認や引き取りも遅れている。家族の安否が分からないまま、その地を離れられる人はほぼいない。たとえ見つからぬままになっても、納得する時間がないと、人は次に進めない。何事にも時間がいる。
だからまずは迅速な捜索活動が大事だった。被害の大きさや捜索の難しさを考慮しても、政府の対応の遅さは明白だ。それが震災関連死の遠因のひとつにもなっている。それは原発の避難エリアでも違う悲劇を生んでいる。せっかく発見された遺体も高濃度の放射線に汚染され、家族は最期にゆっくりと手すら握ってやれないのだとしたら、その痛みをどう拭い去れというのか。あまりに残酷な話だ。
残酷と言えば、東北道の規制が解除され、一般車両の通行が出来るようになったら、他県から見物にきて、はしゃぎながら写真を撮りまくり、挙げ句に作業車両を渋滞させている連中が現れた。亘理町はたまりかねて独自の車両規制をした。殴り飛ばしてやりたいがそうもできない。まあ塩釜とか石巻とか気の荒い港町で同じ事をやれば、きっと油の浮いた海に叩き込まれるだろう。少なくとも僕の父親ならそうする(僕はしない、という事にしておく)。それに期待したい。
様々な現実を無視して、全国放送のニュースは、見通しのつかない原発問題と、復興に向けて歩み出す被災地という対照的な構図を出そうと、取材する前からシナリオを決めているような気がしてならない。
しかし震災から三週間が過ぎても、地元の新聞には物資がなくなった気仙沼のケアハウスで、自力での食糧や水の確保が求められ、灯油が入っていたポリタンクを軽く洗っただけで飲料用に回している人などもいると書かれてある。
ほとんどニュースにならない仙台市の津波を受けなかった地域ですら、水道の全戸復旧は三月いっぱいかかり、ガスの復旧率は三月末時点でまだ二十パーセント程度だ。地震被害によって青葉区の折立地区や宮城野区の岩切地区など、多くの人が住めなくなったところもあるが、津波の被害がひどくて行政にも後回しにされている。また宮城県全体で津波による瓦礫は、県の二十三年分であり、石巻市はなんと百年分だという。被災車両は判明しているだけで約十五万台近くにのぼる。片付ける場所さえない。国は私有財産であれ瓦礫の撤去を認める法律は作ったが、廃棄物としての瓦礫をどう処理するかは決められず、結局は勝手に個人が撤去するなという矛盾するお達しが出たりする。また瓦礫であれ、誰かの生活の痕跡であり、その中に思い出の品を探す人は今でもたくさんいる。いずれにせよ瓦礫の撤去はどうにも進まない。
小型船舶の九割が使えなくなり、そんな船を修理する造船所はもちろん、魚市場や水産加工業も壊滅。また鮮度維持に不可欠な製氷工場や保冷倉庫も駄目。それもあって宮城ではすでに合計十万トン以上もの保冷庫などにあった魚を廃棄しなければならなかった。それらの産業は一体化したものだから、どれかひとつだけ回復してもうまくはいかない。港の機能はただ単に魚を取ってくればいいという訳ではないのだ。他にもいろいろと裾野は広い産業である。しかも働いている人たちは高齢者も多いし、犠牲になった方も少なくない。土地を離れる人も少なくないだろうし、水産研修でやってくる外国人も減るだろうから、産業はもちろん、三陸の小さな集落は、相当数が復興しないまま消えてしまう事だろう。
また製造関係では工場をはじめ、生産の見通しが立たなかったり、被災地から撤退したり、という状況もある。今後の電力不足を見据えて拠点を西日本に移すところも増えるだろう。働く場の不足は確実だ。政府の無策ぶりのひとつだが、関東大震災の時のようにモラトリアムをやらなかったせいで、被災地の優良な中小企業が、一時的な支払いが不能なだけなのに不渡りを出して倒産している。
仕事だけでなく教育面にも問題がある。たとえば宮城県だけで四月に入っても百六十二の小中学校が震災の影響で授業開始の目途が立たない。その後に避難所の統合などで、再開の目途が立った学校も増えたが、校舎のダメージが大きく、他地域の学校に生徒を分散させたりして存続が危ういところも多い。そもそも津波が来た地域に学校を建設するのは、石巻市の大川小学校のように相当な犠牲者が出たところもあるので無理だ。教育の問題で若い人が町を出てしまい、ただでさえ高齢化の進む町で、復興に十年以上もの時間がかかるとなれば、再生を諦める人も多いだろう。でもそうして町を離れて行く人を誰も責める事はできないし、町が消えても誰の責任でもない。
あれこれ復興を考えると、同じように大きな震災を受けた神戸とでは、あまりに人口構成が違うなあと思う。東北沿岸部の高齢化は相当なものだ。それに地理的な問題もある。被災地があまりに広すぎる。その時の国の経済力も違っている。今後、電力不足は更に深刻な経済停滞を生むだろう。
自粛ムードなんていらない。余計なお世話だ。
だから花見ぐらいやれよ、美味い東北の酒で。祭りぐらいやれよ、そしてそこで祈ってくれ。
どう楽観視しても、東北沿岸部の復興はおそらく、ない。
無理だと思う。
地元の人もテレビ向けには復興させると言うが、現実的には誰も心から信じている訳ではないだろう。一種の夢を語るようなものだと思う。
それほど何もかもが壊滅的だ。
それほどあまりに絶望的だ。
更に復興段階になれば様々な利害がからんでくる。
でも、生きていくために、目の前にある、自分にやれる事を粛々とやるしかない。
希望はいつだってはじめからあるものじゃないのだから。
少なくとも被災地の感覚では、復興など遠い遠い先の話で、今もまだ、そしてこれからも長い事、被災のまっただ中にいる。
話がちょっと大きくなってしまった。
僕は政治家でもないし、評論家でもないし、ましてや予言者でもない。
等身大の僕に戻ろう。
ちっぽけで無力な僕に戻ろう。
被災から二週間たって、僕と妻は近所で散歩している最中に、店を開けているラーメン屋を見つけた。もちろん出来るメニューは限定で、具はしなちくが三本と小さな海苔だけ。それでもしみじみと美味かった。それが僕にとっては復興の一歩だった。同じようにメニューや数量限定で弁当屋とか、宅配ピザの店頭販売も始まっていた。
続いて近くの生協が品数制限をやめて店舗営業をはじめた。どの棚も五割程度の品数で量も種類も少なかったし、価格も高騰しているが、とりあえずは日常に近づいた。ちなみにミネラルウォーターもあるが、別に買い占められたりはしていない。必要な人が買ってくれればいい。また少し遅くなったが、妻がホワイトデーに欲しがっていたロシアンケーキがひとつだけ残っているのを買う事ができた。妻の笑顔は何よりも嬉しい。
亡くなった方が多いためか、花屋も遠慮がちに営業をはじめた。震災の後、ガソリン不足で車が少なくて空気が綺麗だったためか、あるいは緊張の続く生活で五感が鋭くなっていたのか、妻は相当に遠くから花の匂いに気がついた。
宅急便も届くようになった。妻の妹や知人が心配をしていろいろ送ってくれた。本当にありがたかった。ガスが使えないので電気での調理器具は、食事の幅を広げてくれた。食べる物の変化は、確実に小さな喜びだ。冷凍庫の奥にあった肉を二週間半ぶり食べた時、こんな味だっけと新鮮だった。動物性タンパクがすっかり身体から抜けていたせいか、お腹が驚いたのだろう、その後見事に下してしまったのには笑えた。
本屋は三週間過ぎてようやく一部新刊が入荷したとローカルニュースで見たが、子どもたちが待ちわびる週刊漫画雑誌はもう一週間はかかるそうだ。
この凄まじい津波の中で、日本三景の松島町は浦戸諸島などの島が防波堤代わりになり、被害は驚くほど軽度だったらしい。国宝の瑞巌寺も五大堂も健在、松島水族館もコマッコウクジラや淡水に生きるビーバーの一部は残念ながら駄目だったようだが、パンダイルカもアシカもペンギンも元気だそうである。ケープペンギンは子どもが生まれたそうだ。塩釜はその松島の隣だけど、地形的には津波に弱いのに、石巻などと比べて壊滅的なほどの打撃を受けずに済んだのは、松島同様、湾に浮かぶ島々のお陰かもしれない(それでも後に見た塩釜の被害は、空虚さを感じさせるには十分過ぎるほどだったが)。人工の防波堤よりも、自然の島々が勝ったという事なのだろうか。
そうそう。石巻にある石ノ森章太郎の漫画記念館も、津波にのまれたそうだが、なんと仮面ライダーの看板だけはちゃんと立って残っていたそうだ。ロボコンの看板は駄目だったらしい。さすがに仮面ライダーだ。ロボコンはやっぱり0点か。
今もまだ安否の分からない人がいる。
亡くなったおばさんに線香を手向ける事もできていない。
毎晩、夢は避難や地震に関わる事ばかりで、正直なところあまり眠った気がせず、疲労感が抜けない。
焦らずに行こう。
何事も時間がかかる。
でも忘れてしまわないように思いを胸にとどめて。
追伸
暦が四月に変わったその日、ようやくお風呂に入る事ができた。震災の日から数えて二十二日目だった。それでも仙台市内ではかなり早い方だ。月が変わったり、震災から一ヶ月とか言っても、被災地は秩序正しく暦で動いている世界ではなくなっている。プラスティクごみはまだ出せない。
原発は相変わらず必要以上に風評を撒き散らしている。そして相も変わらず同レベルの話が繰り返されている。この問題が下火になるのはきっと危機回避が決定的になる日よりも、福島県民以外が飽きた時に違いない。
とても大きな余震がちょうど四週間後に来たが、余震なのにかつての宮城県沖地震並みの大きさだった。そのせいで少しずつ並べ直した部屋のものがまたも次々落下した。地震の後、妻と二人でやけくそ気味に笑うしかなかった。僕の実家はせっかく通ったばかりのライフラインがまた止まったという。地下鉄でここからひと駅先の長町南にある西友が経営する大きなショッピングモールも、その余震の影響で全面再開が先に伸びた。限定的に運転を再開していたJR線もストップ。足踏み状態でなんだかため息だ。
他にも余震などと簡単に言えないような揺れが本当に広い範囲で続いている。犠牲者も出た。別に僕らのせいではないけれど、宮城沖で起こった地震の余波だけに、なんだか他地域の人にすまないなあと、妻と二人で頭を垂れている。
東北の桜はまだ先だ。でも花見の季節になったら、酒は塩釜の誇る名酒「浦霞」にしよう。日本酒はあまり飲まないけど、今年だけは特別だ。
順調なら花見の頃には、新幹線も再開し、プロ野球もサッカーも開催されるだろう。
今は雄々しく、それを待つだけだ。
僕は許せるなぁ。
住宅の問題はこちらでは「仮設住宅」の情報ばかりで、ミクロ的な情報が少ないのが現状です。
小さな問題も声を上げて訴えてもらいたいです。県と特に「仙台市」の連携が上手く行ってないような印象をもちました。
奥山市長は知らない間柄ではないのですが、指示行動が見えてこないジレンマをこちらでも感じます。
仮設住宅は締め切りましたので、私はアパートを探しましたが 、り災証明の発行が遅かったため、もう無くなっていました 。
多賀城及び 宮城野区辺りで探しましたが、ことごとくありませんの返事でした。空き家を見つけ壁に貼てある不動産に電話しますがどこも予約済みでした。
娘がネットで見つけた近くのマンションに一部屋空きがあるとわかり、 高額なマンションでしたが、背に腹は変えられないと現在申請中です。
もう選ぶ選択肢は無くなりました。
そうそう避難所ですが、実は仮設住宅に入りたくない家族もあると聞きます。
それは、避難所に居れば食事を摂れますが、仮設に入ると光熱費を含め食事の援助が無くなるからです。
七ヶ浜の仮設には、茶碗などの食器などが揃っておりウヰスキーも一本入っていたそうです。
支援物資が配られたのでしょう。
其々の人生がこの震災で大きく変わりましたね。