この「くだまき」は「ひーさん」のテリトリーかもしれません。
実際、今回もお借りする写真、記事がございます。
ひーさんは、これらの事を震災前にまとめておられます。
震災後、それらの記事(例えば、田老の防潮堤の記事など→津波防災の町/田老町2010年07月12日 | 岩手県の散歩道)を改めて読む機会を作りました。
さり気に、ひーさんは、この震災があたかも近未来的に起こりうるような文章をお書きになられておられます。
冒頭の写真もそうです。
塩竈市内権現堂にございます「浪切不動尊」です。ここでもひーさんは上記田老の記事と同様。塩竈市の津浪への伝承を記事にされておられます。
今回のくだまきは、前回からの続きです。
寺田寅彦の言葉を借りながら、震災を検証していこうとするものです。
追記
三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。
ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍らで通行人の最も眼につく処に建てておいたが、その新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。(略)
寺田の上記の言葉の後、津波の伝承が三陸の地ではどのように記録されているのか。これには興味がありました。
これは、私ばかりではなく、多くの学者、研究者が分析している事実も分かりました。
事実、この手の記事は数多くネット上で公開されております。
宮城県塩竈市権現堂12
浪切不動尊がございます。「ひーさんの散歩道」からこの不動尊の謂れを今一度見てみます。
浪切不動尊
江戸時代、夢枕に不動尊が立った都の僧侶が、泉沢堤の畔でお不動様を見つけだし、
当地の清水湧く崖の窪みに祀ったと云われる。
戦争中鉄道敷説のため隧道の先に遷座した。
この浪切不動尊の浪切とは、鹽竈神社の前を祓川がこの道路の辺りまで来ていました。
古くから多くの大津波を受けている三陸地方ですが、やはりここも津波が川を遡ったことでしょう。
多分この辺りで浪が分かれたり切れて治まったりしたのでしょう。
先人の達の教授を忘れるべからず。
浪切不動尊とマグロのポスト/塩竈市2010年02月09日 | 狛犬・神社・仏閣
夜というものが二十四時間ごとに繰り返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜がめぐりあわせてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起こるであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起こらないとは限らない。(中略)個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年後には必ず入れ代っている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更そうである。政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。
災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは一目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちこちを移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹林の中に埋もれないとも限らない、そういうときに若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことを相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。(寺田寅彦「津浪と人間」より抜粋)
塩竈市内におって、津波に関する防災意識はどうであったでしょうか。
酔漢は、先の「くだまき」でも語ったとおり、それは父から聞いたものだけす。
ひーさんが記事にしておられます「浪切不動尊」の意味にしても「ああそんな昔話だね」で終わっていたのは事実なのです。
実際、塩竈市内の浸水エリアと浪切不動尊の位置を見てみます。
(すみません、少し北よりだったかもしれません。正確には地図を参照されますことをお勧めいたします。ご容赦下さい)
水色の部分が今回の津浪の到達エリアです。
ひーさんのご解説にありますように、祓川がそこまでむき出しで流れていた当時のロケーションです。
これを差し引きましても、あながち「浪切不動尊」の位置は、津波到達地点を記しておると理解できます。
しかし、現在の位置は当初たてられた位置とは違っております。
位置をずらせば、その伝承の記録は、それを伝える術からは離れてしまう。
上記、寺田は「はじめは一目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちこちを移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹林の中に埋もれないとも限らない、そういうときに若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことを相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。」と論じております。
まさしく、その通りの結果となっている事実に驚かされます。
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある(中略)文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。(中略)重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れだして高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力していうものはたれあろう文明人そのものなのである。
(寺田寅彦「天災と国防」より抜粋)
酔漢は、この論説を「寺田の文明批判」と受け取る論説、感想文に出会った経験がございます。中学時代の先輩はこう記することで「感想文の賞」を受け取っております。
確かに、こうした見方はあって、それが寺田寅彦をとらえるひとつのメルクマールであることは否定致しません。
ですが、「これは『文明批判』ではないのではないか」これが、酔漢の私見でございます。
「力で対抗しても、対抗できない自然の威力。それを過信している現在。これでは対抗するには大きな落とし穴があって、もっと危険なことである」こう捉えれば、寺田のいわんとしておるところが直接伝わってくると考えております。
上記をお聞きになられました方の多くは、岩手県田老の防潮堤を思い浮かべたことだと存じます。
その様子も「ひーさんの散歩道」に見る事が出来ます。
「津波防災の町/田老町2010年07月12日 | 岩手県の散歩道」
防潮堤や防波堤を構築させ、津波から人命、財産を守るという発想は当然です。
「田老の万里の長城」は二重構造になっていて、高さ約10メートル(今回の震災調査では、一部10メートルない部分も見つかったと報告がありますが、このくだまきでは、この部分を問題にするところではございません)長さ約2キロメートルに及びます。
過去の三陸大津波を想定しての建設。
酔漢も何度か見ておりますが(過去の自転車旅行他)、これを越える浪は想像することが出来ませんでした。
ですが、時が立ってきますと、二重構造の内側に家が立ちはじめます。
これを寺田は「鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はない」と論じております。
酔漢は「無理はなかろう」こう考えもいたします。
「あの防潮堤を見たら、その姿だけで安心感は芽生える」
この考えを否定致しませんし、実際住んでおったら自身もそうであろうと、容易に想像はつくわけです。
今回の津浪は想像、想定をはるかに上回るものです。この「万里の長城」を越える津波が押し寄せてきました。
歴史の話ではありませんが「万里の長城」これ自体が蒙古の襲来を防ぐものでもなく、当時の中国は、その安心感から国防体制を築く遅れが出たことは歴史の正確な解釈です。
正に、それに似ている現象が起きてしまった。
田老の防潮堤は、その規模から津波の威力を軽減させ、避難する時間を与え、人命を救った。これも事実です。
ですが、人々の間に「過信」はなかったか。こう考えてしまいます。
寺田の言葉を借りるならば、「人間の傲慢さ」が浮き出た結果になっているとも考えられます。
譜代村の防潮堤は高さ約15メートル。これも、多くの人命、財産を守ったとして評価されております。
「二度あることは三度あってはならない」当時の数多い批判のなか、和村幸得村長(故人)が「15メートル以上は譲らない」とした結果であったことは、良く知られるところとなりました。
「『くだまき』は『くだまき』の中で先の語った内容を批判しているのか」
「譜代の防波堤は巨大津波に勝ったではないか」
違います。
この譜代の堤防、水門の建設と、田老の場合は、意味が違うと考えております。
先に、姉吉の碑の話をいたします。
「此処ここより下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫じそんの和楽わらく 想おもへ惨禍の大津浪おおつなみ」
本州最東端の魹ヶ埼とどがさき灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
(2011年3月30日07時22分 読売新聞より抜粋)
三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。
ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍らで通行人の最も眼につく処に建てておいたが、その新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。
寺田の上記の言葉を掲載するのは三度目です。
姉吉の碑は、寺田の言葉に反するように、頑なに地元の人たちの戒めとなって現在に残っている数少ない例であろうと考えております。
これは、決して「機械的な建設物による津波対策」ではなく、「精神的な部分での津波対策」の最たるものです。
譜代の話に戻ります。
譜代の故和村町長は「歴史の戒めを蔑ろにすることは決してせず、それを具現化しようとして防潮堤を建設している」のです。
「津波は過去の記録から15mであった。決して譲らない」
このジャッジは過去の伝承を粗末にせず、また自身の信念すら曲げなかった結果だということなのです。
防波堤完成後「これでも安心して眠る事は出来ない」と和村氏は話しておったと聞きます。
「防災教育は充実させていく。堤防が15mだからと言って安心しては困る」とも。
「堤防では決して人を救えない」声を大にして、話しております。
大津浪が来ると一と息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも、繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかも分からない津浪の心配よりもあすの米櫃の心配の方がより現実的であるからであろう。生きているうちに一度でも金を儲けて三日でも栄華の夢を見さえすれば津浪に攫われても遺憾はないという、そういう人生観を抱いた人達がそういう市街を造って集落すのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬ六かしい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたり外らしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりも一層難儀なことであるかもしれないのである。
(寺田寅彦「災難雑考」昭和十年七月「中央公論」より抜粋)
三陸を自転車で旅しております。
釜石から先は堤防、防潮堤が高くて、海の風景が見えません。
「なんだや、もっと見せてけたらいいちゃ」
高校生の頃です。
酔漢のこの発想自体が、「津波の怖さ」を全く知らない「素人考え」だと思いました。
これだけ、意識が薄れていた。
身を持って考えさせられました。
追記
前回、今回と「ひーさんの散歩道」より写真、記事を拝借いたしております。
ひー様へは、感謝の意を表する次第です。
誠にありがとうございます。
実際、今回もお借りする写真、記事がございます。
ひーさんは、これらの事を震災前にまとめておられます。
震災後、それらの記事(例えば、田老の防潮堤の記事など→津波防災の町/田老町2010年07月12日 | 岩手県の散歩道)を改めて読む機会を作りました。
さり気に、ひーさんは、この震災があたかも近未来的に起こりうるような文章をお書きになられておられます。
冒頭の写真もそうです。
塩竈市内権現堂にございます「浪切不動尊」です。ここでもひーさんは上記田老の記事と同様。塩竈市の津浪への伝承を記事にされておられます。
今回のくだまきは、前回からの続きです。
寺田寅彦の言葉を借りながら、震災を検証していこうとするものです。
追記
三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。
ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍らで通行人の最も眼につく処に建てておいたが、その新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。(略)
寺田の上記の言葉の後、津波の伝承が三陸の地ではどのように記録されているのか。これには興味がありました。
これは、私ばかりではなく、多くの学者、研究者が分析している事実も分かりました。
事実、この手の記事は数多くネット上で公開されております。
宮城県塩竈市権現堂12
浪切不動尊がございます。「ひーさんの散歩道」からこの不動尊の謂れを今一度見てみます。
浪切不動尊
江戸時代、夢枕に不動尊が立った都の僧侶が、泉沢堤の畔でお不動様を見つけだし、
当地の清水湧く崖の窪みに祀ったと云われる。
戦争中鉄道敷説のため隧道の先に遷座した。
この浪切不動尊の浪切とは、鹽竈神社の前を祓川がこの道路の辺りまで来ていました。
古くから多くの大津波を受けている三陸地方ですが、やはりここも津波が川を遡ったことでしょう。
多分この辺りで浪が分かれたり切れて治まったりしたのでしょう。
先人の達の教授を忘れるべからず。
浪切不動尊とマグロのポスト/塩竈市2010年02月09日 | 狛犬・神社・仏閣
夜というものが二十四時間ごとに繰り返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜がめぐりあわせてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起こるであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起こらないとは限らない。(中略)個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年後には必ず入れ代っている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更そうである。政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。
災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは一目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちこちを移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹林の中に埋もれないとも限らない、そういうときに若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことを相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。(寺田寅彦「津浪と人間」より抜粋)
塩竈市内におって、津波に関する防災意識はどうであったでしょうか。
酔漢は、先の「くだまき」でも語ったとおり、それは父から聞いたものだけす。
ひーさんが記事にしておられます「浪切不動尊」の意味にしても「ああそんな昔話だね」で終わっていたのは事実なのです。
実際、塩竈市内の浸水エリアと浪切不動尊の位置を見てみます。
(すみません、少し北よりだったかもしれません。正確には地図を参照されますことをお勧めいたします。ご容赦下さい)
水色の部分が今回の津浪の到達エリアです。
ひーさんのご解説にありますように、祓川がそこまでむき出しで流れていた当時のロケーションです。
これを差し引きましても、あながち「浪切不動尊」の位置は、津波到達地点を記しておると理解できます。
しかし、現在の位置は当初たてられた位置とは違っております。
位置をずらせば、その伝承の記録は、それを伝える術からは離れてしまう。
上記、寺田は「はじめは一目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちこちを移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹林の中に埋もれないとも限らない、そういうときに若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことを相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。」と論じております。
まさしく、その通りの結果となっている事実に驚かされます。
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある(中略)文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。(中略)重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れだして高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力していうものはたれあろう文明人そのものなのである。
(寺田寅彦「天災と国防」より抜粋)
酔漢は、この論説を「寺田の文明批判」と受け取る論説、感想文に出会った経験がございます。中学時代の先輩はこう記することで「感想文の賞」を受け取っております。
確かに、こうした見方はあって、それが寺田寅彦をとらえるひとつのメルクマールであることは否定致しません。
ですが、「これは『文明批判』ではないのではないか」これが、酔漢の私見でございます。
「力で対抗しても、対抗できない自然の威力。それを過信している現在。これでは対抗するには大きな落とし穴があって、もっと危険なことである」こう捉えれば、寺田のいわんとしておるところが直接伝わってくると考えております。
上記をお聞きになられました方の多くは、岩手県田老の防潮堤を思い浮かべたことだと存じます。
その様子も「ひーさんの散歩道」に見る事が出来ます。
「津波防災の町/田老町2010年07月12日 | 岩手県の散歩道」
防潮堤や防波堤を構築させ、津波から人命、財産を守るという発想は当然です。
「田老の万里の長城」は二重構造になっていて、高さ約10メートル(今回の震災調査では、一部10メートルない部分も見つかったと報告がありますが、このくだまきでは、この部分を問題にするところではございません)長さ約2キロメートルに及びます。
過去の三陸大津波を想定しての建設。
酔漢も何度か見ておりますが(過去の自転車旅行他)、これを越える浪は想像することが出来ませんでした。
ですが、時が立ってきますと、二重構造の内側に家が立ちはじめます。
これを寺田は「鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はない」と論じております。
酔漢は「無理はなかろう」こう考えもいたします。
「あの防潮堤を見たら、その姿だけで安心感は芽生える」
この考えを否定致しませんし、実際住んでおったら自身もそうであろうと、容易に想像はつくわけです。
今回の津浪は想像、想定をはるかに上回るものです。この「万里の長城」を越える津波が押し寄せてきました。
歴史の話ではありませんが「万里の長城」これ自体が蒙古の襲来を防ぐものでもなく、当時の中国は、その安心感から国防体制を築く遅れが出たことは歴史の正確な解釈です。
正に、それに似ている現象が起きてしまった。
田老の防潮堤は、その規模から津波の威力を軽減させ、避難する時間を与え、人命を救った。これも事実です。
ですが、人々の間に「過信」はなかったか。こう考えてしまいます。
寺田の言葉を借りるならば、「人間の傲慢さ」が浮き出た結果になっているとも考えられます。
譜代村の防潮堤は高さ約15メートル。これも、多くの人命、財産を守ったとして評価されております。
「二度あることは三度あってはならない」当時の数多い批判のなか、和村幸得村長(故人)が「15メートル以上は譲らない」とした結果であったことは、良く知られるところとなりました。
「『くだまき』は『くだまき』の中で先の語った内容を批判しているのか」
「譜代の防波堤は巨大津波に勝ったではないか」
違います。
この譜代の堤防、水門の建設と、田老の場合は、意味が違うと考えております。
先に、姉吉の碑の話をいたします。
「此処ここより下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫じそんの和楽わらく 想おもへ惨禍の大津浪おおつなみ」
本州最東端の魹ヶ埼とどがさき灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
(2011年3月30日07時22分 読売新聞より抜粋)
三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。
ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍らで通行人の最も眼につく処に建てておいたが、その新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋れてしまっているそうである。
寺田の上記の言葉を掲載するのは三度目です。
姉吉の碑は、寺田の言葉に反するように、頑なに地元の人たちの戒めとなって現在に残っている数少ない例であろうと考えております。
これは、決して「機械的な建設物による津波対策」ではなく、「精神的な部分での津波対策」の最たるものです。
譜代の話に戻ります。
譜代の故和村町長は「歴史の戒めを蔑ろにすることは決してせず、それを具現化しようとして防潮堤を建設している」のです。
「津波は過去の記録から15mであった。決して譲らない」
このジャッジは過去の伝承を粗末にせず、また自身の信念すら曲げなかった結果だということなのです。
防波堤完成後「これでも安心して眠る事は出来ない」と和村氏は話しておったと聞きます。
「防災教育は充実させていく。堤防が15mだからと言って安心しては困る」とも。
「堤防では決して人を救えない」声を大にして、話しております。
大津浪が来ると一と息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも、繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。いつ来るかも分からない津浪の心配よりもあすの米櫃の心配の方がより現実的であるからであろう。生きているうちに一度でも金を儲けて三日でも栄華の夢を見さえすれば津浪に攫われても遺憾はないという、そういう人生観を抱いた人達がそういう市街を造って集落すのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬ六かしい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたり外らしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりも一層難儀なことであるかもしれないのである。
(寺田寅彦「災難雑考」昭和十年七月「中央公論」より抜粋)
三陸を自転車で旅しております。
釜石から先は堤防、防潮堤が高くて、海の風景が見えません。
「なんだや、もっと見せてけたらいいちゃ」
高校生の頃です。
酔漢のこの発想自体が、「津波の怖さ」を全く知らない「素人考え」だと思いました。
これだけ、意識が薄れていた。
身を持って考えさせられました。
追記
前回、今回と「ひーさんの散歩道」より写真、記事を拝借いたしております。
ひー様へは、感謝の意を表する次第です。
誠にありがとうございます。
確かに石碑などはビルなどの陰になっては誰も気付きませんね。
金成に「金売り吉次」(義経を平泉に連れて来たと云われ、金が発見された炭焼き藤太の伝説)の伝説があります。
同じ宮城でもこの話を知っている人は、歴史好きでないと分かりませんが金成出身の人は皆知っています。
それは地元だからという理由だけではありません。
小学校でこの伝説を教えているのです。
子供の頃に繰り返し覚えたことは大人になっても記憶しているものです。
絵本やVTRなどの媒体を利用したり、語りべの話でもいいでしょう。
皆が必ず通過する小中学校の中で教えるべきでは?
と考えていました。
理科でも国語でも社会でもどの角度からでも、この問題は授業になりますね。
原発の問題も含め見直さなければいけない課題ですね。
地元でも知られていないというのが問題かもしれませんね。地域によって、伝承できる、できないは深い問題がいろいろあるような気がしています。