五城楼関が引退後、宮城県出身幕内力士がおりません。
さみしい限りです。嘗ては、「青葉山」「青葉城」がおりましたし、遠くは「谷風」(勾当台公園像で有名。千代の富士の土俵入りを見ました)がおりました。
当時、五橋中学校には、相撲場がありました。ちゃんと櫓がたっていたんです。
ですから、3年生では相撲の授業があったのでした。
「今日の授業相撲だとや」
「また、すり足で土俵5周かや。あれ足がつっと!」
やはり人気はありません。
まわしを締めることはないのですが、けっこうきつい授業でした。
合唱や勉強の方ばかり、巷では語られますことの多かった母校ですが、運動もさかんな学校でした。体育ははんぱじゃなかった。
剣道は「のぶなが」でしたし、柔道は「こじま」でした。どちらも、現役時代一流の成績を残した「猛者」でございました。
(本当に「ささきのぶなが」先生は、凄かった。国士舘大学剣道部副将。そして、漫画にでもでてきそうな、名前)
相撲はと申しますと、数学の大家。「すずべん」さんの得意分野です。
数学の主任でありながら、相撲の授業も行うのでした。
土俵の集合。すり足の練習。そして柱へ鉄砲。また割り(柔軟)と続きます。
汗が噴出すほど。そして何より、股が痛い!足裏も痛い!
最後の実戦がなければ、たんに痛いだけの授業でございました。
「男子全員相撲経験者」となりました中学校ですので、当然「部」もあるのでした
人気はございませんでしたが、体の大きい生徒を集めては、練習しておりました。
仙台市の中体連では、2校のみの出場。相手は「中田中学」だけです。
開会式直後に試合は行われまして、その一時間後には結果がわかります。
当時の主将は「たんの君」。彼、体が大きいのですが、本当にやさしい男です。
ですが、相撲を取らせますと、強い。まっこう勝負の寄りきりで勝ちに行く相撲を取ります。そして、面白い男です。クラブは「落研」なかなかの腕前でした。
「高座名」は忘れましたが、たしか「ときそば」を文化祭でやっておりました。
酔漢、二年のぶらぶら生活から東北福祉大へ入学。最初の日(入学式から二日後)の事です。一年生でありながら、成人しておりますし、同じ年の連中は3年生でした。学生食堂で、最初に出合ったゼミナールの連中と話をしておりました。丁度その時でございます。いきなり黒尽くめの強面の学生が、酔漢の前へ立ちはだかりました。
「何っしゃ?何かようだすぺか?」
「酔漢君ですね。高校時、応援団副団長だった」
「確かにそうだすぺ。んでも、なして知ってんのすか?」
「そんな事はどうでもいい。ちょっとこちらへ来て、話しませんか」
問答無用!の雰囲気でした。
言われるまま、その男達(学生服の凄い奴らです)に取り囲まれて酔漢、部屋の前まで連れて行かれました。
「・・・・ハイリマス!」
「・・・・ハイレ!」
まさしく、まさしく体育会系だぁ。びびっております。(酔漢の図)
一緒に入った先に、親分?ような男が一人。
「酔漢君。応援団は君の入団を歓迎する」
「勝手に言われても、やんだっちゃ。もう『落研』さぁ入部届けだしたっちゃ。そして、『自然の家でボランティア』さも申し込みすんだっちゃ」
「そんなのは、やめてもらうしかないんです。ここに名前を書けば、よろしい」
半ば強制的に応援団へ引きずり込もうという魂胆でした。
(長期戦なら負けネェべさ)と覚悟を決めていたところ。急に後ろの扉が開いたかと思うな否や。
「押忍!」全員の挨拶。体のでかい男が入って来ました。酔漢、後ろを振り返りました。
思わず・・「たんのでねぇか」
「おお!酔漢か。久しぶりだなぁや」
その途端、隣におりました黒服が「三年生に対して、なんて口の利きかたをするんだ」と酔漢に。
「んなこと言われたって同級生だべ、中学だけんどな」
「俺の客だ。何したんだ」と、たんの君。
この言葉で黒服の態度が一変しました。
「たんの副団長のご友人の方でございましたか。失礼いたしました」と。
「俺と同じ中学で学年も一緒だべ。んだから、おめぇらの一つ上だど」
どうやら、当時、応援団は年功序列だったようです。
「応援団経験者を探して、入部させようかと・・・」
「こいづは向山で副団だったのは俺も知ってっぺ。んだども、落語が好きなのも知ってっちゃ・・・酔漢『落研』さぁへぇんだべ?」
「たんのは、中学の頃、落語クラブさぁいたっちゃなや。して相撲部だったすべ」
「今はこの通り、応援団やってっちゃ。一応副団だべ」
「たんの、おえめぇさぁ言うのなんだけんど、俺ばぁここから開放さしてはくんねぇすか?」
「おう、悪かったなや。んで帰っていいからっしゃ」
ほっとしました。こうなれば、この場は自分のものです。
周りを見ますと、あっけに取られた黒服二年生が呆気にとられている顔をしております。
「んで、また。キャンパスで見かけたら声かけっからっしゃ」
「んで、またな。そうだ酔漢『ねごろ君』覚えてっか?」
「んだ。覚えてっちゃ。なして?」
「あいずもここさぁいんのっしゃ。ハンドボール部の主将だべ」
「一高さぁ行った話しは知ってたけんど・・んであの学年はおめえと俺と『ねごろ』の三人すか?」
「ということになっちゃ。んでも、三人とも知らねぇ間ではねぇんだし。こいずも考えればおめせぇっちゃ」
東北福祉大学野球部が初の全国大会出場。神宮球場で相手はエース高野(元ヤクルト投手)を要する東海大学。一回戦で負け。
ですが、たんの君は常連校は負けない声を張り上げておりました。その帰り。
「たんの君相撲には興味なかったのすか?」
「中学の頃もすずべん先生に誘われて入ぇたのっしゃ。んでも、おもせぇかったなや」
「俺も応援しったっちゃ。んでも、おめえのおかげで応援団さぁ入ぇらねぐてすんだんだけんど、球場さぁ来っと、やっぱしぃ血が騒ぐべ!」
「んで、今から入ぇっか?」
「そいずばりは勘弁してけさいん!」
思えば、屋上の天文ドームと中庭の土俵。この二つは五橋中学校には必要だったロケーションでした。
「北斗の拳」「山の不動」を見ますと、彼を思い出すのでした。
酔漢中学三年生。卒業も近くなってまいりました。
もう一度「あの男」を登場させたくなりました。
雪の積もる屋上。雪球を作っております。
「左舷、後方、敵潜水艦音。距離八百。深度八十。爆雷投下用意」
「よう候」
「投下始め!」
「至近弾三。命中弾零」
「だれだぁ!屋上から雪球落としてんのは!降りて来い!」
「やべ!敵索敵機さぁみつがったべ。退避すっちゃ。もんま逃げっと」
「あいざわだっちゃ。始末におぇねぇべさ」
そう、この男です。
さみしい限りです。嘗ては、「青葉山」「青葉城」がおりましたし、遠くは「谷風」(勾当台公園像で有名。千代の富士の土俵入りを見ました)がおりました。
当時、五橋中学校には、相撲場がありました。ちゃんと櫓がたっていたんです。
ですから、3年生では相撲の授業があったのでした。
「今日の授業相撲だとや」
「また、すり足で土俵5周かや。あれ足がつっと!」
やはり人気はありません。
まわしを締めることはないのですが、けっこうきつい授業でした。
合唱や勉強の方ばかり、巷では語られますことの多かった母校ですが、運動もさかんな学校でした。体育ははんぱじゃなかった。
剣道は「のぶなが」でしたし、柔道は「こじま」でした。どちらも、現役時代一流の成績を残した「猛者」でございました。
(本当に「ささきのぶなが」先生は、凄かった。国士舘大学剣道部副将。そして、漫画にでもでてきそうな、名前)
相撲はと申しますと、数学の大家。「すずべん」さんの得意分野です。
数学の主任でありながら、相撲の授業も行うのでした。
土俵の集合。すり足の練習。そして柱へ鉄砲。また割り(柔軟)と続きます。
汗が噴出すほど。そして何より、股が痛い!足裏も痛い!
最後の実戦がなければ、たんに痛いだけの授業でございました。
「男子全員相撲経験者」となりました中学校ですので、当然「部」もあるのでした
人気はございませんでしたが、体の大きい生徒を集めては、練習しておりました。
仙台市の中体連では、2校のみの出場。相手は「中田中学」だけです。
開会式直後に試合は行われまして、その一時間後には結果がわかります。
当時の主将は「たんの君」。彼、体が大きいのですが、本当にやさしい男です。
ですが、相撲を取らせますと、強い。まっこう勝負の寄りきりで勝ちに行く相撲を取ります。そして、面白い男です。クラブは「落研」なかなかの腕前でした。
「高座名」は忘れましたが、たしか「ときそば」を文化祭でやっておりました。
酔漢、二年のぶらぶら生活から東北福祉大へ入学。最初の日(入学式から二日後)の事です。一年生でありながら、成人しておりますし、同じ年の連中は3年生でした。学生食堂で、最初に出合ったゼミナールの連中と話をしておりました。丁度その時でございます。いきなり黒尽くめの強面の学生が、酔漢の前へ立ちはだかりました。
「何っしゃ?何かようだすぺか?」
「酔漢君ですね。高校時、応援団副団長だった」
「確かにそうだすぺ。んでも、なして知ってんのすか?」
「そんな事はどうでもいい。ちょっとこちらへ来て、話しませんか」
問答無用!の雰囲気でした。
言われるまま、その男達(学生服の凄い奴らです)に取り囲まれて酔漢、部屋の前まで連れて行かれました。
「・・・・ハイリマス!」
「・・・・ハイレ!」
まさしく、まさしく体育会系だぁ。びびっております。(酔漢の図)
一緒に入った先に、親分?ような男が一人。
「酔漢君。応援団は君の入団を歓迎する」
「勝手に言われても、やんだっちゃ。もう『落研』さぁ入部届けだしたっちゃ。そして、『自然の家でボランティア』さも申し込みすんだっちゃ」
「そんなのは、やめてもらうしかないんです。ここに名前を書けば、よろしい」
半ば強制的に応援団へ引きずり込もうという魂胆でした。
(長期戦なら負けネェべさ)と覚悟を決めていたところ。急に後ろの扉が開いたかと思うな否や。
「押忍!」全員の挨拶。体のでかい男が入って来ました。酔漢、後ろを振り返りました。
思わず・・「たんのでねぇか」
「おお!酔漢か。久しぶりだなぁや」
その途端、隣におりました黒服が「三年生に対して、なんて口の利きかたをするんだ」と酔漢に。
「んなこと言われたって同級生だべ、中学だけんどな」
「俺の客だ。何したんだ」と、たんの君。
この言葉で黒服の態度が一変しました。
「たんの副団長のご友人の方でございましたか。失礼いたしました」と。
「俺と同じ中学で学年も一緒だべ。んだから、おめぇらの一つ上だど」
どうやら、当時、応援団は年功序列だったようです。
「応援団経験者を探して、入部させようかと・・・」
「こいづは向山で副団だったのは俺も知ってっぺ。んだども、落語が好きなのも知ってっちゃ・・・酔漢『落研』さぁへぇんだべ?」
「たんのは、中学の頃、落語クラブさぁいたっちゃなや。して相撲部だったすべ」
「今はこの通り、応援団やってっちゃ。一応副団だべ」
「たんの、おえめぇさぁ言うのなんだけんど、俺ばぁここから開放さしてはくんねぇすか?」
「おう、悪かったなや。んで帰っていいからっしゃ」
ほっとしました。こうなれば、この場は自分のものです。
周りを見ますと、あっけに取られた黒服二年生が呆気にとられている顔をしております。
「んで、また。キャンパスで見かけたら声かけっからっしゃ」
「んで、またな。そうだ酔漢『ねごろ君』覚えてっか?」
「んだ。覚えてっちゃ。なして?」
「あいずもここさぁいんのっしゃ。ハンドボール部の主将だべ」
「一高さぁ行った話しは知ってたけんど・・んであの学年はおめえと俺と『ねごろ』の三人すか?」
「ということになっちゃ。んでも、三人とも知らねぇ間ではねぇんだし。こいずも考えればおめせぇっちゃ」
東北福祉大学野球部が初の全国大会出場。神宮球場で相手はエース高野(元ヤクルト投手)を要する東海大学。一回戦で負け。
ですが、たんの君は常連校は負けない声を張り上げておりました。その帰り。
「たんの君相撲には興味なかったのすか?」
「中学の頃もすずべん先生に誘われて入ぇたのっしゃ。んでも、おもせぇかったなや」
「俺も応援しったっちゃ。んでも、おめえのおかげで応援団さぁ入ぇらねぐてすんだんだけんど、球場さぁ来っと、やっぱしぃ血が騒ぐべ!」
「んで、今から入ぇっか?」
「そいずばりは勘弁してけさいん!」
思えば、屋上の天文ドームと中庭の土俵。この二つは五橋中学校には必要だったロケーションでした。
「北斗の拳」「山の不動」を見ますと、彼を思い出すのでした。
酔漢中学三年生。卒業も近くなってまいりました。
もう一度「あの男」を登場させたくなりました。
雪の積もる屋上。雪球を作っております。
「左舷、後方、敵潜水艦音。距離八百。深度八十。爆雷投下用意」
「よう候」
「投下始め!」
「至近弾三。命中弾零」
「だれだぁ!屋上から雪球落としてんのは!降りて来い!」
「やべ!敵索敵機さぁみつがったべ。退避すっちゃ。もんま逃げっと」
「あいざわだっちゃ。始末におぇねぇべさ」
そう、この男です。
記憶しております。優秀な生徒が多い学校とイメージしております。
授業で相撲とは珍しいですね。まぁだから2校なんでしょうけど。中体連の種目にあったとは…知らなんだ。
応援団の話しもおもしろかったですね。今日は携帯で読んでたので、大変でした。
もっとも、この先輩の親んっぁんは、家業を継がずに本職の力士(十両になれず廃業)になったんで、履物屋はじーさんの代で廃業したそうですが・・・
あと、若い頃職場の友だちの彼女が福祉大出身で、彼女の大学仲間のおねーちゃん達としょっちゅう飲み歩いてたのも思い出しました。
そういやぁ、その中に小松崎の魚屋の娘がいたっけ、名前は忘れちゃったけど・・・
でも、具体的に五橋を意識したのは、中学時代の県内模試です。確か「みやぎ?」と「みちのく?」の2業者ありました。
3年次の前半、私は県内での成績順において、異常な?成績を残し鼻高々でした。でも、それが仮の成績であることも認識していました。仙台市内の中学校の大半、特に五橋は、まだ模試に参加していなかったのです。
3年次の後半からは、五橋を始めとする仙台市内の中学校の天下となり、私の位置も実力に見合った、妥当な位置に落ちていきました。
川内高校では、五橋出身の友人も多かったのですが、模試への参加タイミングについては聞けずじまいでした。
どなたか、仙台市内の中学校がなぜ「示し合わせて」後半から参加していたのか、ご存じないでしょうか?
仙台市外(よく「郡部」と呼ばれていましたね)の中学生だった者とっては、なかなかに引っかかる記憶です。
仙台市外の中学から来た友人は、皆同じことを言っていましたもんです。
十年近くも前、校舎を建替える際に「旧校舎に御別れをする会」というのがありました。教室に入って幅が狭くて縦に長かったことにビックリ。典型的な学校建築。あの校舎が年代物だということを感じた次第です。
ただ南校舎と中校舎の間の中庭(でしたよね、酔漢さん)にあったはずの土俵がなくなっていました。いつ頃なくなったのかは分りません。あったはずのものがない。淋しい限りでした。
自身では、携帯を使ったことはありませんので、今度シティラピッド君から(彼は両刀使いでした)聞いてみます。
今は中体連の種目から相撲は消えていると聞きました。相撲は、仙台文化の一翼だったと思います。今東北大学が頑張っておりますね。
塩竈五橋組で相撲部の先輩がおられましたか。
案外、先輩っているものなのですね。
小松崎のお魚屋さんって、たぶんあそかな。
昔ありましたが。記憶が今一定かではございません。以前お話いたしましたバー「H&K」ですが、マスターが大学先輩です。
意識はしてなかったと思います。参加は自由でした。ですが、「なるべく全員が参加してください」というのもありました。
家内が八木山中学校ですが、私と同じような話をしておりました。
成績上位者の中に、塩竈小学校時代の友人の名前を時たま見つけますと、うれしくなったりもしました。
綺麗な校舎での勉強時代は仙台小学校時代の数十日だけ。
五橋の校舎をみて、「なんだ、またかや」と想ったのが、窓側の席の上に「雪がうっすらと付いていた」のを見たときでした。解けずに残っていたのでした。塩釜でもありました。
向山のあの木造校舎を解体する際も参加できず。今現在自分の学んだ校舎は塩竈二小の旧校舎だけになってしまいました。