中学校1年時。
(これは何度も語りましたが)
6組は、素晴らしいロケーションに恵まれておりました。
職員室からは遠く、下駄箱からは一番近い。保健室は目の前。体育館への移動も楽。
そんな教室で理科の授業中でした。
理科の先生は、白衣を常に身にまとった「千葉先生」。
もう理科の教師、イメージそのものの先生でした。
今日の授業は「食塩水の濃度」という訳で・・・。
授業が佳境に入っていたかと思いましたら、教室前の扉が静かに開きます。
「千葉先生・・・・ちょっと。ちょっと・・・」
「なんだや・・たづこ先生(保健室の先生)でねぇか!」僕らは何があったのか興味がありました。
一旦教室を出た千葉先生。
教室に戻るなり。
「酔漢。こっち!」と呼びます。
「何があったのすか?」と先生の側に。
「実はな・・・・・と、いう訳で、お前、もう帰れ」
「はぁ・・・俺すか?」
となりまして、授業途中から、早退となりました。
鞄を持って、保健室へ向かいますと。
「酔漢ねぇ、悪いねぇ。『いちろー』熱出してさぁ、家まで送ってもらえないかって、そう思ってね。担任(いたる先生)にも話してあるから」とたづこ先生が話します。
そうなんです。
同じ、五橋塩竈組の一人「いちろー君」が熱を出して、保健室のベッドに寝ているわけです。
「イチロー君。大丈夫すか?」
「朝から調子悪くてさ、急に寒気がして・・」
顔を覗き込みますと、真っ赤でした。
「先生、んで俺家まで送ったらいいんだすぺ?」
「近いんでしょ?」
「同じ塩竈でも、いちろー君は、東北線で、俺は仙石線だおん」
「じゃぁ、どうしようかな?」
「いかすよ!俺、東北線でけぇっから」となりまして。そしたら、保健室の扉が開いたと思ったら。
「何だって!いちろー、ぐぇえ悪くしたってか!」
「こうへい!何して?」
「おらほの担任(当時1年5組。担任名失念)から連絡あってっしゃ。いちろーさぁ塩竈まで連れて行けって・・」
「あらまぁ、二人で早退?じゃぁ、二人で行ったら?」
二人もいらない。だけど、一度切れかかった、根性を立て直すことは至難の業です。
「んで、二人で東北線で帰っか?」
と言うわけで、三人で早退。と相成りました。
東北線の乗ってしばらくしているうちに、薬が効いたのか、いちろー君の調子がだいぶ戻っておりまして。
新駅(と呼びませんと、どうも・・)に着いた頃には、完全に元気を取り戻しておりました。
「ついでだから家に寄らないか?」
と、塩竃は玉川のお屋敷(完全にそう呼べるものです)に伺います。
当時、おばあ様がお元気でらして、お茶とケーキを御馳走になることに。
酔漢も「こうへい君」も、もうかしこまっておりますと。
デカいテレビがリビングにでーんとしてまして。(今のよりは小さいですが・・)
「何か見ようか?」と「いちろー君」の提案。
「何でもいいよ」と、こうへい君。
酔漢とこうへい君は当時としては大変めずらしい(家庭内普及率がまだまだの代物)ソニーの家庭用ビデオデッキの方が気になるのでした。
いちろー君が持ち出して来ましたのは、冒頭写真の映画「バニシング・イン60」というカーチェイス物。
「これ、見ようぜ」と、完全ノーカット版を見さしてもらいました。
かなりのアクション。何せ車があれだけ大破しても超スピードで高速道路(ロサンゼルス)を突っ走る。
そして、あの車泥棒の手口の巧妙さ。
わくわくしながら見ておりました。
「おれさぁ、こんな車にのりてぇなぁ」と話している、いちろー君。
彼の生涯にわたる趣味は、もうこのときからです。
「フェラーリ・テスタロッサ」。
彼の愛車でもありました。
塩竈で唯一のオーナーでもありました。
「俺が運転しても、似合わねぇっちゃ」
「乗り手を選ぶ車。そんな感じ」
最後に会ったときの言葉でした。
錦町にありました「英学塾」。
酔漢、こうへい君、そしていちろー君も一緒に通っておりました。
授業が終わりますと、真っ先に「森民商店」へ向かいます。
何時も、おやつです。
店の奥に、ベンチがありまして、そこでカップヌードルを三人で食べます。
ここでエネルギーを補充しませんと、塩竃までは持たないわけでした。
これは、三人の習慣でした。
いちろー君は当時発売されたばかりの「カップヌードルカレー」がお気に入りでした。
バスケット部の練習から直接塾へ。
「腹減ったぁぁ」が授業終わると同時の彼のセリフ。
もう何度も、何度も、中学同期会の話をしております。
一昨年の同期会では、「中村ハルコさん」の話。昨年は「うの君」、「ちばさん」「とりさん」の話。
東京での会では「会長君」「なんちゃん」お酒のくだまきで「ささき君」・・・。
多くの友人達をくだまきの「主人公」にしております。
いちろー君は、最後の学年で同級生でしたから、つのる話もありました。
「酔漢、久しぶりだねぇ」
「元気なのすか?駅前の看板がねぐなってけんど、歯科医院はどこかさ移ったのすか?」
「ああ、アイエの上ね。今というか、つい3か月前に塩竈に移ったんだ」
「塩竈すか?しゃねがったなや。何処さぁ?」
「塩竈市役所の隣にね。ちょうど親父が最初に開業した場所なんだ。駅前は家賃が高くてさぁ」
(「家賃が高くて・・」彼は、その言葉を言う際に、相当照れておりました。訳は後から分りました)
カメラを持って来ていた酔漢は、クラスメートの写真を数十枚撮影いたしました。
「『モデルかつさだ』の生写真は妹が是非って言っていてっしゃ」(彼はその昔、「男専」のモデルでして、我が妹君が、「お兄ちゃん、この人カッコいいよね」と話しておりまして・・)
彼も、数枚。
「いちろー君、一緒にどうだべ」
「よし、んじゃ二人して」
ちばさんにシャッターを押してもらって。
このときの酔漢の顔は、フェイスブックの写真となっております。
隣には「いちろー君」がいるんです。
「塩竈はなんじょなんだべ」
「まだ開業して日が経ってないけど、昔親父の世話になったっていう患者さんが多くてさ」
「おらいの親父もそうだっちゃ。尾島町の頃に通ってってっしゃ。仙台駅前さぁも行ってたんだおん。『理事長先生でねぐてダメなんだおん』ってっしゃ。一度、君にも治療されたことがあったらしくて・・」
「気がつかなかったなぁ。でも、塩竃で開業してね。何か原点に返ったような気がする」
人工透析を受けながら、彼は情熱を持って歯科医療に取り組んでおりました。
しっかり塩竈市内に、その医院は根付いておりました。
あの震災から二か月。
酔漢が、七ヶ浜へ歩いて行ったお話しはいたしました。
その帰り道すがら、彼の歯科医院の前に立ち寄りました。
声でもかけようか。そう思いましたが、玄関先には靴があふれていて、中から治療の音も聞こえてまいります。
「いちろー君、元気なんだっちゃ。んで今度また同期会で会うべな」
心の中でこう話しかけて、その場を立ち去りました。
同期会に戻ります。
「写真、医院さぁおくっか?」
「今度あったときでいいよ」
「のめねぇのになぁ。大丈夫か?」
「俺は皆に会いたいからさ。また参加するさ」
次は無かった。
もう彼に会う事は出来なくなってしまった。
想えば、大学時代、「ちばさん御実家」で集まったクラス会。
「ハルコ」も「いちろー君」もいた。
ハルコの隣に酔漢。正面に「はらだ君」「つじちゃん」そして、「いちろー君」が座っていた。
12月9日。早朝。
一通のメールを拝受。
「いちろー君他界」の訃報。
通勤途中の電車の中。
涙がこぼれた。
何故か、また、悔しい思いが過って来た。
直ぐに帰塩を決めた。
自宅へ戻り、パソコンから当時の写真を用意する。
彼の笑顔が、まだ彼が世にいないという事を信じさせるにはあまりにも、急であった。
通夜。
「あきこちゃん」「たん君」「かつさだ君」同級が揃った。
塩竈である。「こういち君」の姿も見えた。
「うの君」「かおりちゃん」からの献花も見える。
悲しさを通り越した。そんな思いばかりであった。
実家のある「こまっつあき」からタクシーで会場に向かいました。
場所を告げると運転手さんは、こう聞いて来ました。
「誰が亡くなったのっしゃ?」
「尾島町の歯科医院の医院長だすぺ。おらいの同級生なんだおん」
「何っしゃ!んで亡くなったのは、医院長先生すか?この前、尾島町さぁ出来たばりだっちゃなや、若かったのにやぁ」
「運転手さん、知ってんのすか?」
「俺も、通ってたんだおん。優しい先生だっちゃねぇ。体調わるぐしてぇって聞いてたからっしゃ。最近では、先生が臨時でころころ代わってから、いがねぐなったんだおん。だれ、あの院長先生でねぐて・・って思ってたからっしゃ。先生が元気さぁなったら、またいぐべ。ってこう思ってたのっしゃ」
彼はしっかり、市民の健康を守る一翼にいたんだ。
こう確信した言葉に聞こえました。
彼が写っている写真は、その席上で、奥様にお渡しいたしました。
素晴らしい笑顔で写っております。
ガタイがいい上に、常に、みんなの真中にいる彼。
でも、笑顔ばかりの写真。
奥様も驚いておりました。
「彼自身に渡すことが出来なかった。医院宛に送れば良かった」
またしても、またしても、後悔が先に来ます。
三人のご子息はしっかりしていらっしゃいました。
いちろー君同様、真っ直ぐな、素直な目をしてらっしゃいました。
「いちろー君に似ている」
こう思いました。
「なんちゃん」からメール。
「いちろー君の写真を添付しております」と。
やはり、彼らしい写り方。
そして、まだ、彼は元気でいる。こう思えるような、写真でした。
そういう年齢なんだろう。
そうした思いも確かにあります。
ですが、やはり、彼らはまだ若い。
僕らは、彼らの短かった生き様、そして、多くの物を彼らから頂いてきたこれまでの思い出。
語り継ぐことが、何よりの供養と、こう思います。
「いちろー君。今週末、東京で同期会が開催されますよ。君が近くにいたら、必ず参加だよね」
「賽じいさんはあの世に逝っていったい誰と酒を酌み交わすのだろう。あの世にわしはいないのに、誰と呑むつもりなんだい?」
李白の漢詩を思い出しました。
今週末。
彼の四十九日。
(これは何度も語りましたが)
6組は、素晴らしいロケーションに恵まれておりました。
職員室からは遠く、下駄箱からは一番近い。保健室は目の前。体育館への移動も楽。
そんな教室で理科の授業中でした。
理科の先生は、白衣を常に身にまとった「千葉先生」。
もう理科の教師、イメージそのものの先生でした。
今日の授業は「食塩水の濃度」という訳で・・・。
授業が佳境に入っていたかと思いましたら、教室前の扉が静かに開きます。
「千葉先生・・・・ちょっと。ちょっと・・・」
「なんだや・・たづこ先生(保健室の先生)でねぇか!」僕らは何があったのか興味がありました。
一旦教室を出た千葉先生。
教室に戻るなり。
「酔漢。こっち!」と呼びます。
「何があったのすか?」と先生の側に。
「実はな・・・・・と、いう訳で、お前、もう帰れ」
「はぁ・・・俺すか?」
となりまして、授業途中から、早退となりました。
鞄を持って、保健室へ向かいますと。
「酔漢ねぇ、悪いねぇ。『いちろー』熱出してさぁ、家まで送ってもらえないかって、そう思ってね。担任(いたる先生)にも話してあるから」とたづこ先生が話します。
そうなんです。
同じ、五橋塩竈組の一人「いちろー君」が熱を出して、保健室のベッドに寝ているわけです。
「イチロー君。大丈夫すか?」
「朝から調子悪くてさ、急に寒気がして・・」
顔を覗き込みますと、真っ赤でした。
「先生、んで俺家まで送ったらいいんだすぺ?」
「近いんでしょ?」
「同じ塩竈でも、いちろー君は、東北線で、俺は仙石線だおん」
「じゃぁ、どうしようかな?」
「いかすよ!俺、東北線でけぇっから」となりまして。そしたら、保健室の扉が開いたと思ったら。
「何だって!いちろー、ぐぇえ悪くしたってか!」
「こうへい!何して?」
「おらほの担任(当時1年5組。担任名失念)から連絡あってっしゃ。いちろーさぁ塩竈まで連れて行けって・・」
「あらまぁ、二人で早退?じゃぁ、二人で行ったら?」
二人もいらない。だけど、一度切れかかった、根性を立て直すことは至難の業です。
「んで、二人で東北線で帰っか?」
と言うわけで、三人で早退。と相成りました。
東北線の乗ってしばらくしているうちに、薬が効いたのか、いちろー君の調子がだいぶ戻っておりまして。
新駅(と呼びませんと、どうも・・)に着いた頃には、完全に元気を取り戻しておりました。
「ついでだから家に寄らないか?」
と、塩竃は玉川のお屋敷(完全にそう呼べるものです)に伺います。
当時、おばあ様がお元気でらして、お茶とケーキを御馳走になることに。
酔漢も「こうへい君」も、もうかしこまっておりますと。
デカいテレビがリビングにでーんとしてまして。(今のよりは小さいですが・・)
「何か見ようか?」と「いちろー君」の提案。
「何でもいいよ」と、こうへい君。
酔漢とこうへい君は当時としては大変めずらしい(家庭内普及率がまだまだの代物)ソニーの家庭用ビデオデッキの方が気になるのでした。
いちろー君が持ち出して来ましたのは、冒頭写真の映画「バニシング・イン60」というカーチェイス物。
「これ、見ようぜ」と、完全ノーカット版を見さしてもらいました。
かなりのアクション。何せ車があれだけ大破しても超スピードで高速道路(ロサンゼルス)を突っ走る。
そして、あの車泥棒の手口の巧妙さ。
わくわくしながら見ておりました。
「おれさぁ、こんな車にのりてぇなぁ」と話している、いちろー君。
彼の生涯にわたる趣味は、もうこのときからです。
「フェラーリ・テスタロッサ」。
彼の愛車でもありました。
塩竈で唯一のオーナーでもありました。
「俺が運転しても、似合わねぇっちゃ」
「乗り手を選ぶ車。そんな感じ」
最後に会ったときの言葉でした。
錦町にありました「英学塾」。
酔漢、こうへい君、そしていちろー君も一緒に通っておりました。
授業が終わりますと、真っ先に「森民商店」へ向かいます。
何時も、おやつです。
店の奥に、ベンチがありまして、そこでカップヌードルを三人で食べます。
ここでエネルギーを補充しませんと、塩竃までは持たないわけでした。
これは、三人の習慣でした。
いちろー君は当時発売されたばかりの「カップヌードルカレー」がお気に入りでした。
バスケット部の練習から直接塾へ。
「腹減ったぁぁ」が授業終わると同時の彼のセリフ。
もう何度も、何度も、中学同期会の話をしております。
一昨年の同期会では、「中村ハルコさん」の話。昨年は「うの君」、「ちばさん」「とりさん」の話。
東京での会では「会長君」「なんちゃん」お酒のくだまきで「ささき君」・・・。
多くの友人達をくだまきの「主人公」にしております。
いちろー君は、最後の学年で同級生でしたから、つのる話もありました。
「酔漢、久しぶりだねぇ」
「元気なのすか?駅前の看板がねぐなってけんど、歯科医院はどこかさ移ったのすか?」
「ああ、アイエの上ね。今というか、つい3か月前に塩竈に移ったんだ」
「塩竈すか?しゃねがったなや。何処さぁ?」
「塩竈市役所の隣にね。ちょうど親父が最初に開業した場所なんだ。駅前は家賃が高くてさぁ」
(「家賃が高くて・・」彼は、その言葉を言う際に、相当照れておりました。訳は後から分りました)
カメラを持って来ていた酔漢は、クラスメートの写真を数十枚撮影いたしました。
「『モデルかつさだ』の生写真は妹が是非って言っていてっしゃ」(彼はその昔、「男専」のモデルでして、我が妹君が、「お兄ちゃん、この人カッコいいよね」と話しておりまして・・)
彼も、数枚。
「いちろー君、一緒にどうだべ」
「よし、んじゃ二人して」
ちばさんにシャッターを押してもらって。
このときの酔漢の顔は、フェイスブックの写真となっております。
隣には「いちろー君」がいるんです。
「塩竈はなんじょなんだべ」
「まだ開業して日が経ってないけど、昔親父の世話になったっていう患者さんが多くてさ」
「おらいの親父もそうだっちゃ。尾島町の頃に通ってってっしゃ。仙台駅前さぁも行ってたんだおん。『理事長先生でねぐてダメなんだおん』ってっしゃ。一度、君にも治療されたことがあったらしくて・・」
「気がつかなかったなぁ。でも、塩竃で開業してね。何か原点に返ったような気がする」
人工透析を受けながら、彼は情熱を持って歯科医療に取り組んでおりました。
しっかり塩竈市内に、その医院は根付いておりました。
あの震災から二か月。
酔漢が、七ヶ浜へ歩いて行ったお話しはいたしました。
その帰り道すがら、彼の歯科医院の前に立ち寄りました。
声でもかけようか。そう思いましたが、玄関先には靴があふれていて、中から治療の音も聞こえてまいります。
「いちろー君、元気なんだっちゃ。んで今度また同期会で会うべな」
心の中でこう話しかけて、その場を立ち去りました。
同期会に戻ります。
「写真、医院さぁおくっか?」
「今度あったときでいいよ」
「のめねぇのになぁ。大丈夫か?」
「俺は皆に会いたいからさ。また参加するさ」
次は無かった。
もう彼に会う事は出来なくなってしまった。
想えば、大学時代、「ちばさん御実家」で集まったクラス会。
「ハルコ」も「いちろー君」もいた。
ハルコの隣に酔漢。正面に「はらだ君」「つじちゃん」そして、「いちろー君」が座っていた。
12月9日。早朝。
一通のメールを拝受。
「いちろー君他界」の訃報。
通勤途中の電車の中。
涙がこぼれた。
何故か、また、悔しい思いが過って来た。
直ぐに帰塩を決めた。
自宅へ戻り、パソコンから当時の写真を用意する。
彼の笑顔が、まだ彼が世にいないという事を信じさせるにはあまりにも、急であった。
通夜。
「あきこちゃん」「たん君」「かつさだ君」同級が揃った。
塩竈である。「こういち君」の姿も見えた。
「うの君」「かおりちゃん」からの献花も見える。
悲しさを通り越した。そんな思いばかりであった。
実家のある「こまっつあき」からタクシーで会場に向かいました。
場所を告げると運転手さんは、こう聞いて来ました。
「誰が亡くなったのっしゃ?」
「尾島町の歯科医院の医院長だすぺ。おらいの同級生なんだおん」
「何っしゃ!んで亡くなったのは、医院長先生すか?この前、尾島町さぁ出来たばりだっちゃなや、若かったのにやぁ」
「運転手さん、知ってんのすか?」
「俺も、通ってたんだおん。優しい先生だっちゃねぇ。体調わるぐしてぇって聞いてたからっしゃ。最近では、先生が臨時でころころ代わってから、いがねぐなったんだおん。だれ、あの院長先生でねぐて・・って思ってたからっしゃ。先生が元気さぁなったら、またいぐべ。ってこう思ってたのっしゃ」
彼はしっかり、市民の健康を守る一翼にいたんだ。
こう確信した言葉に聞こえました。
彼が写っている写真は、その席上で、奥様にお渡しいたしました。
素晴らしい笑顔で写っております。
ガタイがいい上に、常に、みんなの真中にいる彼。
でも、笑顔ばかりの写真。
奥様も驚いておりました。
「彼自身に渡すことが出来なかった。医院宛に送れば良かった」
またしても、またしても、後悔が先に来ます。
三人のご子息はしっかりしていらっしゃいました。
いちろー君同様、真っ直ぐな、素直な目をしてらっしゃいました。
「いちろー君に似ている」
こう思いました。
「なんちゃん」からメール。
「いちろー君の写真を添付しております」と。
やはり、彼らしい写り方。
そして、まだ、彼は元気でいる。こう思えるような、写真でした。
そういう年齢なんだろう。
そうした思いも確かにあります。
ですが、やはり、彼らはまだ若い。
僕らは、彼らの短かった生き様、そして、多くの物を彼らから頂いてきたこれまでの思い出。
語り継ぐことが、何よりの供養と、こう思います。
「いちろー君。今週末、東京で同期会が開催されますよ。君が近くにいたら、必ず参加だよね」
「賽じいさんはあの世に逝っていったい誰と酒を酌み交わすのだろう。あの世にわしはいないのに、誰と呑むつもりなんだい?」
李白の漢詩を思い出しました。
今週末。
彼の四十九日。
一郎君は酔漢くんと同じ3組なのになぜかこちらのテーブルに座っていて、酔漢くんにおことづけした写真は、3人で懐かしそうにアルバムを眺めていた時撮った1枚でした。
私は一郎君とは同じクラスになったことがなく、その時、ちょっとはにかんだように、お愛想をいうのが苦手な印象を受けました。
このブログを読みながら、一郎君のあの時の印象と実際の一郎君が重なりました。
幸せな少年時代でしたね。そして50年、一生懸命に駆けて行ったのでしょう。
年を重ね、再会もあれば別れもあり、一期一会という言葉が大切に感じられるこの頃です。
27日、ハルコが亡くなって8年になります。
ここにコメントはないのですが、「てしがわらさん」「まゆみちゃん」よりFB経由でコメントを頂戴いたしました。
うの君が「思い出はは残るよね」と話しておりました。
本当にそう思います。
彼らの言葉を伝える事。
少しでも。
少しでも。
そうしていきたい。こう思いました。
本当にありがとう。
ワルガキで、どんくさい私はよくからかわれていました。
でも人懐っこい笑顔が憎めない人でした。
同期会ではお話できなかったものの、
変わらぬ笑顔にお元気なものとばかり思っていたのに。
なんちゃんや浦野君からお知らせをいただいたときは、
信じられない気持ちでいっぱいでした。
あの笑顔で、患者さんからも愛されていたのですね。
ご冥福をお祈りいたします。
地元では、みんなが「やさしい先生」と言っておりました。
彼の「毒舌」?もまた懐かしく聞こえてきます。
残念です。