言い負けて風の又三郎たらん希いをもてり海青き日は 寺山修司
小学校六年時の話ばかりの「小学校の頃」です。担任のエツジは、時たま僕らに朗読の時間を設けては、自身の好きな本を読んでくれてました。
「どうせお前ら本なんて読まねえんだべ!」
というのが、先生の口癖。
冒頭の「風の又三郎」はまだいい方でした。
ある日いきなり北杜夫の「さみしい王様」なんか読みだすんですから・・。
「大関松三郎」の詩「山芋の歌」はことのほかお気に入りで、「俺の手は山芋のような百姓の手だ」という件には、ことさら力が入っていたのでした。
戦前に小学校時代に書かれた詩が、出版されたのが昭和25年。
この作者「大関松三郎」は、マニラで戦死されておられます。
海軍通信隊ですから、祖父と同じだったのかもしれません。
話がそれました。
塩竈二小の六年七組の教室にはサンポットの大型石油ストーブがごうごうと音を立ておりました。
「どっどとどーどーどーどーど-」
エツジの声が響いております。
「さわぐぅど、罰当番だかんな」
となりますが、誰一人声を立てる者はおりませんでした。
普段は冗談ばかり言っている「さとうただし」君ですが、彼も神妙な顔をして聞いているのでした。
「今日のは少しおもせがったべ」
朗読終了後、僕らはストーブの周りに集まっております。
「宮沢賢治は二回目だべ。この前は『注文の多い料理店』だったっちゃ」
「んでも、今日のは不思議だべ。主人公は又三郎だべ。会話さぁでてきたっけか?」
そうなんです。
彼の目線でかかれている場面がないのも、この話の不思議なところなんです。
「彼は一体何のためにこの学校に転校してきたんだろう」
又三郎伝説は、岩手にあるそうです。
この小学校の彼らとは違った感性をもつ少年、又三郎は一体どれだけの疎外感を持っていたのだろう。
又三郎に自分を当てはめてみることのできない酔漢は、この思いを結構引きずっておったのでした。
寺山は、上記のような歌を残しております。
喧嘩でもしたのか、集団の中で孤独感を感じ、海を膝を抱えて眺めている少年を思い浮かべます。
「田園に死す」のポスターだったか、やはり海を見ている主人公の少年が中央にあります。
「あんな感じ」だったのでしょうか。
酔漢が塩竈二小を離れたのが二月初め。
卒業式まで数十日でした。
卒業アルバムを撮り終えた時期での転校でした。
ですから、卒業した「東二番丁小学校の卒業アルバム」に酔漢の姿はございません。
塩竈二小には写っておりますが、ここが、卒業した小学校ではない事実でございます。
この話は、「くだまき」にいたしました。
又三郎ほど、大胆ではなかったけれど、「異様な転校生」には変わりなかったと思います。
昨年、中学校の同期会が開催されて、仙台へ帰省しました。
「お前が小学校の卒業生でおそらく最短在籍者だったんでないかな。百年の間でもおそらくベストには入る」
と、小学校時代からの友人に言われました。
なるほど「酔漢の前に酔漢なし。後にもなし」ってとこだすぺ。
能天気なものですから、さして気に留めたことはありませんでしたが、やはりこの言葉は少し引っ掛かりました。
喧嘩ではないのですが、やはり少しばかり疎外感を感じた時期はありました。
学校の帰り、本塩釜の駅ホームに降り立ちますと、なにやら「ほっと」したのは確かでした。
海の香(言えば格好いいのですが、あの魚臭さが・・)は鼻に入りますと、「けぇってきたっちゃ」と漏らしておりました。
「俺はまだ28日だべ。しかも卒業式にはでられたっちゃ。又三郎は12日だっちゃ」
勝手に考えて納得していた酔漢でした。
又三郎は風と共に、また学校を去っていきます。だれにも知らせることなく、山々の木々を揺らしながら。
一本の電話。
「お前、今度の同期会出るんだろ」
ある友人から。
この電話だけでも、決定的に又三郎とは違う自分があるのです。
今日九月一日。
新学期が始まった関東です。
又三郎転校の日。
年下君が学校へ向かう後姿をみて「風の又三郎」を思い出しました。
「どっどど、どどーどどーどどー」
エツジの声も思い出しました。
小学校六年時の話ばかりの「小学校の頃」です。担任のエツジは、時たま僕らに朗読の時間を設けては、自身の好きな本を読んでくれてました。
「どうせお前ら本なんて読まねえんだべ!」
というのが、先生の口癖。
冒頭の「風の又三郎」はまだいい方でした。
ある日いきなり北杜夫の「さみしい王様」なんか読みだすんですから・・。
「大関松三郎」の詩「山芋の歌」はことのほかお気に入りで、「俺の手は山芋のような百姓の手だ」という件には、ことさら力が入っていたのでした。
戦前に小学校時代に書かれた詩が、出版されたのが昭和25年。
この作者「大関松三郎」は、マニラで戦死されておられます。
海軍通信隊ですから、祖父と同じだったのかもしれません。
話がそれました。
塩竈二小の六年七組の教室にはサンポットの大型石油ストーブがごうごうと音を立ておりました。
「どっどとどーどーどーどーど-」
エツジの声が響いております。
「さわぐぅど、罰当番だかんな」
となりますが、誰一人声を立てる者はおりませんでした。
普段は冗談ばかり言っている「さとうただし」君ですが、彼も神妙な顔をして聞いているのでした。
「今日のは少しおもせがったべ」
朗読終了後、僕らはストーブの周りに集まっております。
「宮沢賢治は二回目だべ。この前は『注文の多い料理店』だったっちゃ」
「んでも、今日のは不思議だべ。主人公は又三郎だべ。会話さぁでてきたっけか?」
そうなんです。
彼の目線でかかれている場面がないのも、この話の不思議なところなんです。
「彼は一体何のためにこの学校に転校してきたんだろう」
又三郎伝説は、岩手にあるそうです。
この小学校の彼らとは違った感性をもつ少年、又三郎は一体どれだけの疎外感を持っていたのだろう。
又三郎に自分を当てはめてみることのできない酔漢は、この思いを結構引きずっておったのでした。
寺山は、上記のような歌を残しております。
喧嘩でもしたのか、集団の中で孤独感を感じ、海を膝を抱えて眺めている少年を思い浮かべます。
「田園に死す」のポスターだったか、やはり海を見ている主人公の少年が中央にあります。
「あんな感じ」だったのでしょうか。
酔漢が塩竈二小を離れたのが二月初め。
卒業式まで数十日でした。
卒業アルバムを撮り終えた時期での転校でした。
ですから、卒業した「東二番丁小学校の卒業アルバム」に酔漢の姿はございません。
塩竈二小には写っておりますが、ここが、卒業した小学校ではない事実でございます。
この話は、「くだまき」にいたしました。
又三郎ほど、大胆ではなかったけれど、「異様な転校生」には変わりなかったと思います。
昨年、中学校の同期会が開催されて、仙台へ帰省しました。
「お前が小学校の卒業生でおそらく最短在籍者だったんでないかな。百年の間でもおそらくベストには入る」
と、小学校時代からの友人に言われました。
なるほど「酔漢の前に酔漢なし。後にもなし」ってとこだすぺ。
能天気なものですから、さして気に留めたことはありませんでしたが、やはりこの言葉は少し引っ掛かりました。
喧嘩ではないのですが、やはり少しばかり疎外感を感じた時期はありました。
学校の帰り、本塩釜の駅ホームに降り立ちますと、なにやら「ほっと」したのは確かでした。
海の香(言えば格好いいのですが、あの魚臭さが・・)は鼻に入りますと、「けぇってきたっちゃ」と漏らしておりました。
「俺はまだ28日だべ。しかも卒業式にはでられたっちゃ。又三郎は12日だっちゃ」
勝手に考えて納得していた酔漢でした。
又三郎は風と共に、また学校を去っていきます。だれにも知らせることなく、山々の木々を揺らしながら。
一本の電話。
「お前、今度の同期会出るんだろ」
ある友人から。
この電話だけでも、決定的に又三郎とは違う自分があるのです。
今日九月一日。
新学期が始まった関東です。
又三郎転校の日。
年下君が学校へ向かう後姿をみて「風の又三郎」を思い出しました。
「どっどど、どどーどどーどどー」
エツジの声も思い出しました。
とても良い事ですね。
この頃のことは印象深く残っているものですね。
自分が変わったクラスだと思ったのは中3の時でしたかね。
ぐずら君も同じクラスでした。
授業が終わると、クラス全員で歌を歌います。
黒板に歌詞が貼られ、みんなで合唱です。
印象に残っている曲は学生街の喫茶店ですね~
他のクラスの連中が窓から覗いていたものです。
遅刻をした日は、単独で歌います。
それもまた楽しいものでした。
同期会をする時、やはり微妙なタイミングで転校していった仲間は呼びますね。
みんなの心に残っているからです。
しかし、この年になると住所が分かるのは半分以下です。 残念です。
400名近い同学年のうち約200名が集まりました。
この年のタイミングが一番いいのかもしれませんね。
塩竈二小の担任、エツジは生涯一教師で定年を終えたと聞きました。
らしいと思いました。