五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほ ど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るり と云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあら ず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしまし けれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、 殊勝に覚らる。
1689年5月8日。芭蕉の旅を語る「くだまき」は、ここからまだ先には進んでおりません。何度も同じフレーズを語り、堂々巡りの感もございます。はてまた、「彷徨」しているような錯覚さえ、感じます。
「塩竈」、「塩釜」、「鹽竈」。それを取り巻く歴史と人に魅了された。というところなのでしょう。
冒頭は、もちろん「おくのほそ道」。芭蕉は、前回ご紹介いたしました「法蓮寺」境内前に宿を取ります。
「籬が嶋もほど近し」ではないのですが、近くに見えた。この気持ちは、分かります。
潮風が海から入ってくる時間になります。ちょうど、凪の時間が終わった頃ではないか。そんなロケーションを想像しております。
今では、海は遠いところとなってますが、酔漢が小学校の頃、勝画楼の真下、宮町には藤川が流れていて(ドブ川と化してました)、それが、本塩釜駅の真下から海に流れておりました。今の「ひょうたん」(七輪を使ったホルモン焼きが有名なお店)のあったすぐ真後ろがもう海というか、汚いどぶ川と湾の接点ともいうべきところで、観光地とは言えないような場所でもあったわけです。
籬島は、そこからは見えるのでしょうが、(回りに建物がなければ)間近に見えるというか、遠くに見える。そんな感じだと思うのです。
ですが「明日はいよいよ、松島へ行く」という高揚した気持ちでもありますし、その玄関口と言える塩竈「千賀浦」に浮かぶ島が見えるわけですから。
今でも、観光船へ乗りますと、「籬島」が一番最初にガイドされる島でもありますね。
蜑の小舟こぎつれて(あまのをふねをこぎつれて)
「蜑」(あま)です。これは「海女」と同じ発音であって、同じ意味の言葉ですが、蜑はもっぱら男性をさす場合が多いようです。「海人」(=あま)の方がより意味が近いかもしれませんね。「漁師が小舟を操って」とするのが、現代語訳なのでしょうか。そして「肴(魚)を分け合っている声」ですから「水揚げの声」なのでしょう。
夕方の時間ですから、当時はあったのかもですね。でも夕方の漁は当時でも考えるのには無理があろうかと推察する次第です。
この件ですが、芭蕉一流の発想によるところではないか。これはいささか「酔漢の想像」に過ぎませんが、芭蕉の句を紐解き、その宇宙感ともいうべき感性に触れるとき、例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という句の、「古池」を想像し表現する芭蕉の句の特徴でありますから、海風、海から聞こえる人々の声、そしてその賑わう様子。これらを想像、空想して、「肴わかつこえ」としたのではないか。斯様に思うところです。旅の哀愁を感じる文ですね。
つなでかなしもとよみけん心もしられて
このさり気なこのフレーズが案外大きな意味を持ってきます。
みちのくはいづくはあれどしほがまの 浦こぐ舟のつなでかなしも 新古今和歌集 東歌
「つなでかなしも」とは、上記、新古今和歌集からの引用となります。
塩竈情景を詠ったものですが、この歌の意味を紐解いてみます。
「いづくあれど」とは「何処に(他)あるだろうか、いやない」という少し反語がかかった意味に取るのが正しいと思います。
その意を取りますれば「みちのくという地には数多くの土地土地があるのだろうけれど、塩竈の浦で、漕ぐ船が網に曳かれて進む有様ほど心に染み入るものはない」という意味となります。
まさに、この瞬間の芭蕉は、「塩竈ほどの情景」を想像できずにいるのです。
そして、その次の件です。
目盲法師の琵琶をならして奥上るり と云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあら ず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしまし けれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる
「奥上るり」は「奥浄瑠璃」というものです。
今では聞くことのない(というか、少なくなったのか・・)「仙台浄瑠璃」ではありますが、辿りますと「古浄瑠璃又は古浄瑠璃の型を模して作った浄瑠璃を仙台特有の曲節で語るもの」(小倉博氏 「御国浄瑠璃」 昭和七年)と定義されて、これが現在でも通説になっております。
塩竈で浄瑠璃?ということです。そうした文化があったのでしょうね。
夜、法蓮寺境内その周辺で、盲目の法師が奏でる浄瑠璃の語り。
想像するのは難しい。当然、我々の脳裏に真っ先に浮かぶものは「平家物語」的な琵琶法師の語りであろうかと思うのです。
少しばかり掘り下げてみます。
宮城教育大学金澤規雄先生によれば
「この発祥は不明であるが、『奥羽永慶軍記』の『和田安房守牢人智謀の事』の条に、『其比白州ニ座頭有テ尼君物語ノ浄瑠璃ヲ語るル奥州ノ佐藤兄弟共ニ代テ死ストイフ事ヲ聞ク和田落涙スル限リナシ』とあるので、天正年間(1573~91)には存在していた。(略)古浄瑠璃を素朴な曲節で盲人が語り、口伝で伝えたのあるが、そのプロセスにおいて内容や章句に多少の転訛があり、また仙台地方で創作されたとみられるものも加えられている。他方近松門左衛門などの作も語られているが、これは正統的な御国浄瑠璃とは考えられないものである。伴奏楽器にも『おくの細道』には琵琶としているが、天明頃からは三味線になったらしい。この語り物の系譜にも流派ができたらしく、大槻文彦博士の調査によれば、宝暦の頃から城札節(じょうさつ)・かほ一節・重一節の三派があり、天保の頃に城札節から喜右衛門節が分かれて四派になったといういうことである。
上記のようにご解説されておられます。
日本音楽史をたどりますと、奥浄瑠璃「牛若東下がり」 石垣勇栄 31/01/01 昭和6年に収録された日本コロンビアの記録に左記のようなタイトルがあります。矢本町におられました数少ない伝承者のお一人「石垣勇栄」氏の録音です。
その後も一関で保存会が結成されたと記録もありますが、現在では途絶えております。
推察です。
「枕に近い」位置で「やかましい」というくらい近くに聞こえていたわけです。法蓮寺ではそのような法師が居て、奥浄瑠璃を語り、それが伝承されていた。こう考えてよろしいのではないのでしょうか。その声に最初はやかましいと感じていた芭蕉も「文化を伝承させているその態度に関心した?」と言っております。
実際は「伝えている」のではなくて「伝わったものが独自の文化に変貌していった」とするのが正しいのでしょうね。
そうした、法蓮寺境内そばで眠りについた芭蕉と曽良でございました。
早朝、塩がまの明神に詣。国府再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎寄進、と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義中考の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠、「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。日既午後にちかし。船をかりて松島にわたる。その間二里余、雄島の磯につく。
酔漢にとっては、「禁断のネタ」的、鹽竈神社、「しおがまさま」です。この神社の不思議な部分は、多くの人が語ってきたところですし、改めてお伝えする史実も少ないかもしれません。ただ、自分自身でその中身を感じてみたい。こうした思いはあるわけです。
「宮柱ふとしく」
「石の階九仭に重り・・・・」
「神前に古き宝燈有」
古言宇比地邇ハ、猶言煮海也。須比智邇は猶言意鹻(しお)也(略)蓋椎うに、二神始めて魚鹽の利を利し、以て民用をたあらわす。故に名付く」
(新井白石 鹽竈社考 より)
宇比地邇神、須比地邇神のお二人。しかして、その謂れも多々、深い意味があると感じます。
二月二十日。午前十時。式年遷宮の祭事が行われました。
二十年に一度の祭事。
立ち寄ることが出来ました。
1689年5月8日。芭蕉の旅を語る「くだまき」は、ここからまだ先には進んでおりません。何度も同じフレーズを語り、堂々巡りの感もございます。はてまた、「彷徨」しているような錯覚さえ、感じます。
「塩竈」、「塩釜」、「鹽竈」。それを取り巻く歴史と人に魅了された。というところなのでしょう。
冒頭は、もちろん「おくのほそ道」。芭蕉は、前回ご紹介いたしました「法蓮寺」境内前に宿を取ります。
「籬が嶋もほど近し」ではないのですが、近くに見えた。この気持ちは、分かります。
潮風が海から入ってくる時間になります。ちょうど、凪の時間が終わった頃ではないか。そんなロケーションを想像しております。
今では、海は遠いところとなってますが、酔漢が小学校の頃、勝画楼の真下、宮町には藤川が流れていて(ドブ川と化してました)、それが、本塩釜駅の真下から海に流れておりました。今の「ひょうたん」(七輪を使ったホルモン焼きが有名なお店)のあったすぐ真後ろがもう海というか、汚いどぶ川と湾の接点ともいうべきところで、観光地とは言えないような場所でもあったわけです。
籬島は、そこからは見えるのでしょうが、(回りに建物がなければ)間近に見えるというか、遠くに見える。そんな感じだと思うのです。
ですが「明日はいよいよ、松島へ行く」という高揚した気持ちでもありますし、その玄関口と言える塩竈「千賀浦」に浮かぶ島が見えるわけですから。
今でも、観光船へ乗りますと、「籬島」が一番最初にガイドされる島でもありますね。
蜑の小舟こぎつれて(あまのをふねをこぎつれて)
「蜑」(あま)です。これは「海女」と同じ発音であって、同じ意味の言葉ですが、蜑はもっぱら男性をさす場合が多いようです。「海人」(=あま)の方がより意味が近いかもしれませんね。「漁師が小舟を操って」とするのが、現代語訳なのでしょうか。そして「肴(魚)を分け合っている声」ですから「水揚げの声」なのでしょう。
夕方の時間ですから、当時はあったのかもですね。でも夕方の漁は当時でも考えるのには無理があろうかと推察する次第です。
この件ですが、芭蕉一流の発想によるところではないか。これはいささか「酔漢の想像」に過ぎませんが、芭蕉の句を紐解き、その宇宙感ともいうべき感性に触れるとき、例えば「古池や蛙飛び込む水の音」という句の、「古池」を想像し表現する芭蕉の句の特徴でありますから、海風、海から聞こえる人々の声、そしてその賑わう様子。これらを想像、空想して、「肴わかつこえ」としたのではないか。斯様に思うところです。旅の哀愁を感じる文ですね。
つなでかなしもとよみけん心もしられて
このさり気なこのフレーズが案外大きな意味を持ってきます。
みちのくはいづくはあれどしほがまの 浦こぐ舟のつなでかなしも 新古今和歌集 東歌
「つなでかなしも」とは、上記、新古今和歌集からの引用となります。
塩竈情景を詠ったものですが、この歌の意味を紐解いてみます。
「いづくあれど」とは「何処に(他)あるだろうか、いやない」という少し反語がかかった意味に取るのが正しいと思います。
その意を取りますれば「みちのくという地には数多くの土地土地があるのだろうけれど、塩竈の浦で、漕ぐ船が網に曳かれて進む有様ほど心に染み入るものはない」という意味となります。
まさに、この瞬間の芭蕉は、「塩竈ほどの情景」を想像できずにいるのです。
そして、その次の件です。
目盲法師の琵琶をならして奥上るり と云ものをかたる。平家にもあらず、舞にもあら ず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしまし けれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる
「奥上るり」は「奥浄瑠璃」というものです。
今では聞くことのない(というか、少なくなったのか・・)「仙台浄瑠璃」ではありますが、辿りますと「古浄瑠璃又は古浄瑠璃の型を模して作った浄瑠璃を仙台特有の曲節で語るもの」(小倉博氏 「御国浄瑠璃」 昭和七年)と定義されて、これが現在でも通説になっております。
塩竈で浄瑠璃?ということです。そうした文化があったのでしょうね。
夜、法蓮寺境内その周辺で、盲目の法師が奏でる浄瑠璃の語り。
想像するのは難しい。当然、我々の脳裏に真っ先に浮かぶものは「平家物語」的な琵琶法師の語りであろうかと思うのです。
少しばかり掘り下げてみます。
宮城教育大学金澤規雄先生によれば
「この発祥は不明であるが、『奥羽永慶軍記』の『和田安房守牢人智謀の事』の条に、『其比白州ニ座頭有テ尼君物語ノ浄瑠璃ヲ語るル奥州ノ佐藤兄弟共ニ代テ死ストイフ事ヲ聞ク和田落涙スル限リナシ』とあるので、天正年間(1573~91)には存在していた。(略)古浄瑠璃を素朴な曲節で盲人が語り、口伝で伝えたのあるが、そのプロセスにおいて内容や章句に多少の転訛があり、また仙台地方で創作されたとみられるものも加えられている。他方近松門左衛門などの作も語られているが、これは正統的な御国浄瑠璃とは考えられないものである。伴奏楽器にも『おくの細道』には琵琶としているが、天明頃からは三味線になったらしい。この語り物の系譜にも流派ができたらしく、大槻文彦博士の調査によれば、宝暦の頃から城札節(じょうさつ)・かほ一節・重一節の三派があり、天保の頃に城札節から喜右衛門節が分かれて四派になったといういうことである。
上記のようにご解説されておられます。
日本音楽史をたどりますと、奥浄瑠璃「牛若東下がり」 石垣勇栄 31/01/01 昭和6年に収録された日本コロンビアの記録に左記のようなタイトルがあります。矢本町におられました数少ない伝承者のお一人「石垣勇栄」氏の録音です。
その後も一関で保存会が結成されたと記録もありますが、現在では途絶えております。
推察です。
「枕に近い」位置で「やかましい」というくらい近くに聞こえていたわけです。法蓮寺ではそのような法師が居て、奥浄瑠璃を語り、それが伝承されていた。こう考えてよろしいのではないのでしょうか。その声に最初はやかましいと感じていた芭蕉も「文化を伝承させているその態度に関心した?」と言っております。
実際は「伝えている」のではなくて「伝わったものが独自の文化に変貌していった」とするのが正しいのでしょうね。
そうした、法蓮寺境内そばで眠りについた芭蕉と曽良でございました。
早朝、塩がまの明神に詣。国府再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に、文治三年和泉三郎寄進、と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義中考の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠、「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。日既午後にちかし。船をかりて松島にわたる。その間二里余、雄島の磯につく。
酔漢にとっては、「禁断のネタ」的、鹽竈神社、「しおがまさま」です。この神社の不思議な部分は、多くの人が語ってきたところですし、改めてお伝えする史実も少ないかもしれません。ただ、自分自身でその中身を感じてみたい。こうした思いはあるわけです。
「宮柱ふとしく」
「石の階九仭に重り・・・・」
「神前に古き宝燈有」
古言宇比地邇ハ、猶言煮海也。須比智邇は猶言意鹻(しお)也(略)蓋椎うに、二神始めて魚鹽の利を利し、以て民用をたあらわす。故に名付く」
(新井白石 鹽竈社考 より)
宇比地邇神、須比地邇神のお二人。しかして、その謂れも多々、深い意味があると感じます。
二月二十日。午前十時。式年遷宮の祭事が行われました。
二十年に一度の祭事。
立ち寄ることが出来ました。
内野矢矧副長のひ孫様でいらっしゃるのですね。
私の息子と同じ世代ですね。長男は一度大和ミュージアムを訪ねました。第四世代の訪問に学芸さんが、丁寧に説明してくださったそうです。
この戦闘の顛末を後世に伝えることができたようでうれしい限りです。
このブログの左側に「メッセージ」とアイコンがありますが、ぜひお寄せ下さい、私のメールに直結いたします。
矢矧関係の史料もございます。
お渡しできればと思いました。
今後ともよろしくお願いいたします。