地震発生日から二週間目の今日。「くだまき」を毎日語るようになってからと同じ日数が経った。
日増しに増える、犠牲者、不明者の数。
どうやって、心の整理をつけたものか、途方に暮れる。
被災地におり、避難所生活を送られていらっしゃる方々から見れば、大そう恵まれた環境にいる。
「自分に今できることはなんだろう」
自問自答を続けている。
東京都の発表は衝撃的だった。酔漢にとって「衝撃」とは、「水道水からヨウ素が検出され、基準値を超えた」この事実ではない。
この発表により「水の供給が足りるのか」これである。
冷静になってものを見れば「乳幼児(定義→1歳未満)への影響」である。
大人にはなんら影響がないという事だ。
ところが、ようやく落ち着いたと思われてきた「水等の買い占め」であったが、この発表で、再びその騒動が起きてくる。
この状態を一番憂いた。
事実、発表当日の夕方近く。約二時間で2Lサイズの水が788本もの販売数を記録。
売り切れた頃、ある客がこう尋ねて来た。
「赤ちゃんがいて、水・・ないですか」
「もう売り切れました」
神奈川の水にはなんら異常は見つかっていない。
だが、この状態である。
せめて、乳幼児を抱える家族に優先して販売できなかったか。
考えてしまった。
原子力発電所の事故。解決するのか。
「天災はわすれた頃にやってくる」
寺田寅彦の言葉であった。(記録はない模様)
物理学者で東大地震研究所(1925年)の素を築いた人であった。
夏目漱石「吾輩は猫である」の「月島寒月」のモデルとも言われている。
関東大震災の研究に携わった寺田は、日本地震学の祖とも言うべき研究者である。
映画「帝都物語」では地震に強い都市作りの観点から地下鉄を推進した。
こうした設定となっていた。(この史実は未確認)
1939年、東京理化学研究所内に国産初の「サイクロトロン」(核粒子加速装置)を完成させた仁科芳雄は、「これで、日本の核量子力学は世界に肩を並べることが出来る」
こう話している。
日本核分裂研究者としての第一人者であった。
当時、世界最先端の技術を用いて、その研究にあたる。
上記、仁科研究室、寺田寅彦研究室は同じ建物。
「理化学研究所」に存在した。
だが、同じ物理学者でありながら、そのテリトリーは、全く違う。
中谷卯吉は寺田研究室の若手研究員。
廊下で仁科研究室の研究員とすれ違う。
「中谷さん。きょうも、閃光花火ですか。毎日花火の研究ですか。いいなぁ。楽しそうだなぁ」
中谷にとっても世界最先端の物理学に興味がなかったわけではなかった。
中谷は寺田に意見する。
「我々の研究は『物理学』とは言えるのか」
「中谷君、この地球の神秘、自然の神秘。これそのものが我々に問いかけてくる疑問は無限大なんだ。君が研究している『雪の結晶』あれは美しいものだが、それすら意味があって存在する。この神秘を解き明かす。これは我々に与えられた使命とは思わんか」
中谷は北大で、「雪の結晶」研究で世界的に評価を得た。
仁科研究室はその後「二号研」(二はニシナの二から)として原爆開発に邁進する。
原子核分裂による高エネルギーを取り出すことを目的としていた。
これは諸般の事情から未完成に終わる。
アメリカやヨーロッパの研究に比較するとかなりの部分で「基礎にも満たない」との評価だったと聞いた。
日本沈没という小松左京氏の小説はベストセラーとなり映画にもなる。
竹内均が登場している。
「プレートテクトニクス理論」を日本で詳細に研究した第一人者である。
酔漢は、科学雑誌「ニュートン」初代編集長としての記憶が新しい。
竹内は、寺田にあこがれて東大物理を志したと言っている。
寺田が予言した「大陸移動説」(ウェゲナーの提唱)を具現化しての研究は、日本地震学の祖であった。
その竹内は「プレート間で発生する地震は確実に予測できる」と、こう話した。
しかして、仁科は、その理論から先の「東海村臨界事故」の理論を戦前に確立させていた。
巨大地震による原子力発電所の事故。
二人の接点は二十一世紀の今日。再び繋がる。
明治三陸地震の記録を紐解く。
被害は以下の通り。
人的被害
死者:2万1915名
行方不明者:44名 (北海道、6名。青森県m、343名。岩手県、1万8158名、宮城県、3452名)
負傷者:4398名
物的被害
家屋流失:9878戸
家屋全壊:1844戸
船舶流失:6930隻
その他:家畜、堤防、橋梁、山林、農作物、道路など流失、損壊。
遥かにしのぐ、今回の被害である。
最終的にどのくらいになるのか。想像したくない。
明治時代、緊急地震速報も津波警報もなかった時代。さして、現代である。
事の甚大さを改めて実感する。
しかも、当時では全く考えられない原子力発電所の事故が加わる。
寺田寅彦がめざし、竹内均が確立させようとした「地震予測」これもいくらかは可能になった時代。
仁科芳雄がなしえなかった「原子力エネルギーの効果的出力」を可能にした原子力発電。
一つの災害と一つの事故。
複合化された現代社会特有の災害。
千年に一度の災害は、日本が誇る二人の巨頭にしても想定外だったか。
人工衛星を駆使しての「気象情報」である。
しかし、昭和の初期からその予測精度はほんの数パーセントしか上がってないと聞いた。
その「数パーセント」に人類の英知が凝縮され、それは日々進化していることも知っている。
だが、それにしても、千年に一度の災害は予測不可能だった。
「すべては想定外」これだけで済ましてはならない。
千年に一度の目撃者として、また体験者として、後昆に伝えるこそ、使命とも考える。
また、そぞろにいつもの癖が頭を過る。
「寺田が、仁科が今回の災害を目撃したら、何というのか」
追伸
地震発生から毎日更新しておりました。
二週間が経ち、「くだまき」をいつもの語りに戻そうかと考えております。
ですが、酔漢が感じるところがありますれば、吝かではございません。
東北道が一般車両も通行可となった今日。
故郷の惨状を確かめる日も近づいてまいりました。
そして、「今自分が出来る事」を全霊を持って取り組んでいく。
自身の使命として。こう考えます。
親戚が4名亡くなりました。そして行方不明の親戚が1名。
行方不明の友人が釜石で1名。
家が倒壊、流出した知人数十名。
避難所生活を余儀なくされている親戚数十名。知人、友人数十名。
菖蒲田浜の波の音は今でもすぐに聞こえて来そうです。
潮風と共に。
白い灯台が緑映える松林の先に見えます。
穏やかな海。白い砂浜。
夏の情景。
酔漢、砂浜を走り回る「やろっこ」。
日増しに増える、犠牲者、不明者の数。
どうやって、心の整理をつけたものか、途方に暮れる。
被災地におり、避難所生活を送られていらっしゃる方々から見れば、大そう恵まれた環境にいる。
「自分に今できることはなんだろう」
自問自答を続けている。
東京都の発表は衝撃的だった。酔漢にとって「衝撃」とは、「水道水からヨウ素が検出され、基準値を超えた」この事実ではない。
この発表により「水の供給が足りるのか」これである。
冷静になってものを見れば「乳幼児(定義→1歳未満)への影響」である。
大人にはなんら影響がないという事だ。
ところが、ようやく落ち着いたと思われてきた「水等の買い占め」であったが、この発表で、再びその騒動が起きてくる。
この状態を一番憂いた。
事実、発表当日の夕方近く。約二時間で2Lサイズの水が788本もの販売数を記録。
売り切れた頃、ある客がこう尋ねて来た。
「赤ちゃんがいて、水・・ないですか」
「もう売り切れました」
神奈川の水にはなんら異常は見つかっていない。
だが、この状態である。
せめて、乳幼児を抱える家族に優先して販売できなかったか。
考えてしまった。
原子力発電所の事故。解決するのか。
「天災はわすれた頃にやってくる」
寺田寅彦の言葉であった。(記録はない模様)
物理学者で東大地震研究所(1925年)の素を築いた人であった。
夏目漱石「吾輩は猫である」の「月島寒月」のモデルとも言われている。
関東大震災の研究に携わった寺田は、日本地震学の祖とも言うべき研究者である。
映画「帝都物語」では地震に強い都市作りの観点から地下鉄を推進した。
こうした設定となっていた。(この史実は未確認)
1939年、東京理化学研究所内に国産初の「サイクロトロン」(核粒子加速装置)を完成させた仁科芳雄は、「これで、日本の核量子力学は世界に肩を並べることが出来る」
こう話している。
日本核分裂研究者としての第一人者であった。
当時、世界最先端の技術を用いて、その研究にあたる。
上記、仁科研究室、寺田寅彦研究室は同じ建物。
「理化学研究所」に存在した。
だが、同じ物理学者でありながら、そのテリトリーは、全く違う。
中谷卯吉は寺田研究室の若手研究員。
廊下で仁科研究室の研究員とすれ違う。
「中谷さん。きょうも、閃光花火ですか。毎日花火の研究ですか。いいなぁ。楽しそうだなぁ」
中谷にとっても世界最先端の物理学に興味がなかったわけではなかった。
中谷は寺田に意見する。
「我々の研究は『物理学』とは言えるのか」
「中谷君、この地球の神秘、自然の神秘。これそのものが我々に問いかけてくる疑問は無限大なんだ。君が研究している『雪の結晶』あれは美しいものだが、それすら意味があって存在する。この神秘を解き明かす。これは我々に与えられた使命とは思わんか」
中谷は北大で、「雪の結晶」研究で世界的に評価を得た。
仁科研究室はその後「二号研」(二はニシナの二から)として原爆開発に邁進する。
原子核分裂による高エネルギーを取り出すことを目的としていた。
これは諸般の事情から未完成に終わる。
アメリカやヨーロッパの研究に比較するとかなりの部分で「基礎にも満たない」との評価だったと聞いた。
日本沈没という小松左京氏の小説はベストセラーとなり映画にもなる。
竹内均が登場している。
「プレートテクトニクス理論」を日本で詳細に研究した第一人者である。
酔漢は、科学雑誌「ニュートン」初代編集長としての記憶が新しい。
竹内は、寺田にあこがれて東大物理を志したと言っている。
寺田が予言した「大陸移動説」(ウェゲナーの提唱)を具現化しての研究は、日本地震学の祖であった。
その竹内は「プレート間で発生する地震は確実に予測できる」と、こう話した。
しかして、仁科は、その理論から先の「東海村臨界事故」の理論を戦前に確立させていた。
巨大地震による原子力発電所の事故。
二人の接点は二十一世紀の今日。再び繋がる。
明治三陸地震の記録を紐解く。
被害は以下の通り。
人的被害
死者:2万1915名
行方不明者:44名 (北海道、6名。青森県m、343名。岩手県、1万8158名、宮城県、3452名)
負傷者:4398名
物的被害
家屋流失:9878戸
家屋全壊:1844戸
船舶流失:6930隻
その他:家畜、堤防、橋梁、山林、農作物、道路など流失、損壊。
遥かにしのぐ、今回の被害である。
最終的にどのくらいになるのか。想像したくない。
明治時代、緊急地震速報も津波警報もなかった時代。さして、現代である。
事の甚大さを改めて実感する。
しかも、当時では全く考えられない原子力発電所の事故が加わる。
寺田寅彦がめざし、竹内均が確立させようとした「地震予測」これもいくらかは可能になった時代。
仁科芳雄がなしえなかった「原子力エネルギーの効果的出力」を可能にした原子力発電。
一つの災害と一つの事故。
複合化された現代社会特有の災害。
千年に一度の災害は、日本が誇る二人の巨頭にしても想定外だったか。
人工衛星を駆使しての「気象情報」である。
しかし、昭和の初期からその予測精度はほんの数パーセントしか上がってないと聞いた。
その「数パーセント」に人類の英知が凝縮され、それは日々進化していることも知っている。
だが、それにしても、千年に一度の災害は予測不可能だった。
「すべては想定外」これだけで済ましてはならない。
千年に一度の目撃者として、また体験者として、後昆に伝えるこそ、使命とも考える。
また、そぞろにいつもの癖が頭を過る。
「寺田が、仁科が今回の災害を目撃したら、何というのか」
追伸
地震発生から毎日更新しておりました。
二週間が経ち、「くだまき」をいつもの語りに戻そうかと考えております。
ですが、酔漢が感じるところがありますれば、吝かではございません。
東北道が一般車両も通行可となった今日。
故郷の惨状を確かめる日も近づいてまいりました。
そして、「今自分が出来る事」を全霊を持って取り組んでいく。
自身の使命として。こう考えます。
親戚が4名亡くなりました。そして行方不明の親戚が1名。
行方不明の友人が釜石で1名。
家が倒壊、流出した知人数十名。
避難所生活を余儀なくされている親戚数十名。知人、友人数十名。
菖蒲田浜の波の音は今でもすぐに聞こえて来そうです。
潮風と共に。
白い灯台が緑映える松林の先に見えます。
穏やかな海。白い砂浜。
夏の情景。
酔漢、砂浜を走り回る「やろっこ」。
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