弊社、事務所。休憩時間です。以前ここでお話をいたしました。五橋出身のしらいさん(中学2年時まで在席。3年生の時に白石に転校したそうです。48年度入学です)とお昼が一緒になりました。
「しらいさんの頃って合唱コンクールありました?」
「あった、あった、2年生の時、私のクラス優勝したんだ」
「そりゃ、すごいっちゃ」
「酔漢さんの頃は?」
あれは、異常なくらい燃えるイベントでありました。
音楽苦手な人はやはりそうではなかったのかもしれませんが。酔漢も得意な方ではありません。しかしながら、叔母がピアニストでございましたので、手ほどきをうけてございました。弾く方はともかく、曲が好きになるきっかけにはなったのだと思います。(ピアノにまつわる壮大な?話は高校編と共にお話いたします。→「甲殻機動隊」と「ガンダム」。そして安川加寿子大先生。おまけに「ff」と続きます。少しばかり予告編)
さて、その合唱ですが、酔漢が始めて混声合唱を生で聞きましたのは、叔母(母の妹です)が、アマチュア合唱団に入っておりまして、そのステージが県民会館で催されたからでした。
「大中恩とともに」と題された「仙台グリーンウッドハーモニー」(当時)のコンサートです。
小学生の酔漢でも「大中恩先生」のお名前は知っておりました。童謡のレコードに「さっちゃん紙芝居」というのがありまして(レコードの声に合わせて次を見せる方式)その作曲者名にひらがなで「おおなかめぐみ」と書いてありました。こども心に「おなかがなかにあるへんななまえ」と思っておりました(相変わらず変な?子ですよね)ので印象が強かったのです。
そのコンサートの様子ですが、あまり詳しく覚えていないのが事実ではございます。ただ3部構成のコンサートの2部で、「バナナのうた」と同時に数名の団員がステージから客席に降りてきてバナナを一本ずつ配っておりましたのと、3部目で歌われた曲の詩がとても恐いイメージに聞こえましたので、それは覚えております。
「海の若者」という混声四部の合唱曲です。
「わかものは海で産まれた」で始まる出だしもさることながら、曲が変調した後「あのどっしりした足取りで海へ大股で歩みこんだのだ」と繰り返される詩が本当に重々しく脳裏に焼きついたのでした。
叔母は、ソプラノパートでしたが、最前列で歌っておりましたので、余計に日頃笑顔を絶やさない叔母からは想像できない顔つきでございましたので、その迫力が余計に伝わって来たのでした。
そして、中学合唱コンクール。クラスで自由曲の選曲の時期、酔漢のクラスは「海の若者」を選んだのでした。
本当に難しい曲です。どちらかと言えば、男性合唱に向いていると思われる曲だと思います。酔漢、歌うのに、気が進まないのでした。
「なんだや、酔漢、元気ねぇんでねぇか」と友人に言われましても、最後まで気が進まないのでありました。
結果は、賞はいただいたものの、決して出来の良い方ではなかったと記憶しております。
ですが、クラスで何かを全員で結果を出すというこの行事のおかげで、やはりクラス全体の意識はかわりますし、後々考えれば、合唱を経験する機会がなかなかないものですので、それはそれは、いい経験であったと思うのです。
合唱にまつわるお話ですが、下駄の御仁は、あるクラスが「ハレルヤ」をうたいだしましたときに、しっかり直立不動の姿勢をとっておりました。
「先輩、やっぱり立ったのすか?」
「んだっちゃ、あの曲ば聞いたら『直立不動』は礼儀だべ」
下駄の御仁のこだわりでございます。
僕らの学年、「さうら君」(おいしいお酒をありがとう!)は、名指揮者でございました。本人、音楽にも精通しておりましたし、(ピアノの腕はそれはそれはなかなかでございます)解りやすい指揮とも相俟って、彼のクラスは3年間常に上位であったと思います。
再び、弊社食堂。
「合唱コンクール。意外に課題曲も好きだったなぁ」
「しらいさん、課題曲なにっしゃ?」
「わすれたけどね」
「『はずむぼくらーーのうたごえはぁーー』とか」
「うーーん私達の頃とは違うよね」
今はどうなっているのでしょうか。
長男、藤沢市立の中学校におりました。校内合唱コンクールが藤沢市民会館で行われました。酔漢、二度程、聴きに参りました。
「どのくらい、練習したんだ?」
「週に3回と後は、音楽の時間かな」
「それだけか?」
「親父の頃はどう?」
「俺の頃というより、俺のいた中学校って言ったほうがいいんじゃないかな。コンクール2週間前は、朝練と昼休みと放課後。毎日だった」
「部活の人達は?」
「そんなのかんけぇねぇ(少し悪ふざけです)合唱コンクール最優先!」
「反対する奴いなかった?」
「それが、まずは当たり前だった」
「そうよね、五橋だもんね」(いつものように、この話題になると突っ込みを入れてくる家内でございます)
「『おにおゆり』恐かったよね。大会の後かならずミーティングかお説教かやってたもん」
「何で知ってんの?」
「私、八木山中学校合唱部だよ!」
そうか。忘れておった。
それと、息子の中学の合唱コンクール。うーーんどう考えても、俺達の方がレベルが高い。「やっぱり指導者だよね」と再び家内の言葉。本当にそう思う酔漢です。
「しらいさんの頃って合唱コンクールありました?」
「あった、あった、2年生の時、私のクラス優勝したんだ」
「そりゃ、すごいっちゃ」
「酔漢さんの頃は?」
あれは、異常なくらい燃えるイベントでありました。
音楽苦手な人はやはりそうではなかったのかもしれませんが。酔漢も得意な方ではありません。しかしながら、叔母がピアニストでございましたので、手ほどきをうけてございました。弾く方はともかく、曲が好きになるきっかけにはなったのだと思います。(ピアノにまつわる壮大な?話は高校編と共にお話いたします。→「甲殻機動隊」と「ガンダム」。そして安川加寿子大先生。おまけに「ff」と続きます。少しばかり予告編)
さて、その合唱ですが、酔漢が始めて混声合唱を生で聞きましたのは、叔母(母の妹です)が、アマチュア合唱団に入っておりまして、そのステージが県民会館で催されたからでした。
「大中恩とともに」と題された「仙台グリーンウッドハーモニー」(当時)のコンサートです。
小学生の酔漢でも「大中恩先生」のお名前は知っておりました。童謡のレコードに「さっちゃん紙芝居」というのがありまして(レコードの声に合わせて次を見せる方式)その作曲者名にひらがなで「おおなかめぐみ」と書いてありました。こども心に「おなかがなかにあるへんななまえ」と思っておりました(相変わらず変な?子ですよね)ので印象が強かったのです。
そのコンサートの様子ですが、あまり詳しく覚えていないのが事実ではございます。ただ3部構成のコンサートの2部で、「バナナのうた」と同時に数名の団員がステージから客席に降りてきてバナナを一本ずつ配っておりましたのと、3部目で歌われた曲の詩がとても恐いイメージに聞こえましたので、それは覚えております。
「海の若者」という混声四部の合唱曲です。
「わかものは海で産まれた」で始まる出だしもさることながら、曲が変調した後「あのどっしりした足取りで海へ大股で歩みこんだのだ」と繰り返される詩が本当に重々しく脳裏に焼きついたのでした。
叔母は、ソプラノパートでしたが、最前列で歌っておりましたので、余計に日頃笑顔を絶やさない叔母からは想像できない顔つきでございましたので、その迫力が余計に伝わって来たのでした。
そして、中学合唱コンクール。クラスで自由曲の選曲の時期、酔漢のクラスは「海の若者」を選んだのでした。
本当に難しい曲です。どちらかと言えば、男性合唱に向いていると思われる曲だと思います。酔漢、歌うのに、気が進まないのでした。
「なんだや、酔漢、元気ねぇんでねぇか」と友人に言われましても、最後まで気が進まないのでありました。
結果は、賞はいただいたものの、決して出来の良い方ではなかったと記憶しております。
ですが、クラスで何かを全員で結果を出すというこの行事のおかげで、やはりクラス全体の意識はかわりますし、後々考えれば、合唱を経験する機会がなかなかないものですので、それはそれは、いい経験であったと思うのです。
合唱にまつわるお話ですが、下駄の御仁は、あるクラスが「ハレルヤ」をうたいだしましたときに、しっかり直立不動の姿勢をとっておりました。
「先輩、やっぱり立ったのすか?」
「んだっちゃ、あの曲ば聞いたら『直立不動』は礼儀だべ」
下駄の御仁のこだわりでございます。
僕らの学年、「さうら君」(おいしいお酒をありがとう!)は、名指揮者でございました。本人、音楽にも精通しておりましたし、(ピアノの腕はそれはそれはなかなかでございます)解りやすい指揮とも相俟って、彼のクラスは3年間常に上位であったと思います。
再び、弊社食堂。
「合唱コンクール。意外に課題曲も好きだったなぁ」
「しらいさん、課題曲なにっしゃ?」
「わすれたけどね」
「『はずむぼくらーーのうたごえはぁーー』とか」
「うーーん私達の頃とは違うよね」
今はどうなっているのでしょうか。
長男、藤沢市立の中学校におりました。校内合唱コンクールが藤沢市民会館で行われました。酔漢、二度程、聴きに参りました。
「どのくらい、練習したんだ?」
「週に3回と後は、音楽の時間かな」
「それだけか?」
「親父の頃はどう?」
「俺の頃というより、俺のいた中学校って言ったほうがいいんじゃないかな。コンクール2週間前は、朝練と昼休みと放課後。毎日だった」
「部活の人達は?」
「そんなのかんけぇねぇ(少し悪ふざけです)合唱コンクール最優先!」
「反対する奴いなかった?」
「それが、まずは当たり前だった」
「そうよね、五橋だもんね」(いつものように、この話題になると突っ込みを入れてくる家内でございます)
「『おにおゆり』恐かったよね。大会の後かならずミーティングかお説教かやってたもん」
「何で知ってんの?」
「私、八木山中学校合唱部だよ!」
そうか。忘れておった。
それと、息子の中学の合唱コンクール。うーーんどう考えても、俺達の方がレベルが高い。「やっぱり指導者だよね」と再び家内の言葉。本当にそう思う酔漢です。
「しらいさん」、昭和四十八年入学だと、小生の一つ先輩。してみれば小生、それとは知らずに「しらいさん」をお見かけしていたかもしれませんね。生徒会役員に「さとうさん」ブラバンに「たかやなぎさん」「やつやなぎさん」「やまださん」合唱部に「たかはしさん」「おおともさん」がいた学年です(皆さんステキな先輩でした)。部活は覚えてませんが、「あおきさん」もいらっしゃいました(妹さんが酔漢さんの学年にいたのでは?)。
課題曲も自由曲も自分が歌ったのは覚えてます(いずれも正式の題名は失念)。
課題曲は一年から順に「はずむぼーくーらーのー/うーたごーえーーはー」「ひーーろーいひろーーいー/うーみのーかーなーたーにー」「ひーざーしあかーるいー/まーどーーべーにーはー」。一年が二部合唱、二年が混声三部、三年が混声四部でした。大学院の学生だった或る日のこと、仙台市民会館の前を歩いていたら、その日は偶然にも五橋の合唱コンクール当日。思わず入って聴いてしまいました(僕らの頃の会場は県民会館でしたよね、酔漢さん)。その時に聴いた課題曲が僕らの頃とは違ってたのが印象的でした。長い周期では変ってるのかもしれませんね。小生、一年生の時は変声期前だったですが(小生にもさういふ時期があったのですぞ)、酔漢さんの学年の「おばたくん」は一年生の時からバスだったそうです。
自由曲はやはり一年から順に「しらなかったよー/そらがこんなにあおーいとーはー」「貝のファンタジー」(←これだけは題名です)「ゆうだちーがー/すぎさったあとーのーあおぞらにー」。小生三年の時の担任は「けいとく」先生でしたが、「自分が担任するクラスでは自由曲はいつも新曲。審査員が先入観を持っていないからだ」と仰られたのが印象に残ってます。あのころの自由曲で「山のいぶき」「お母さん」なんてのがありましたね。小生が一年生の時、三年生で「美しく青きドナウ」を歌ったクラスがありました。「ハレルヤコーラスの直立不動」を教えてくれたのは「こじま」三兄弟の長兄、「あきよし先輩」です。
修学旅行のバス車内、マイクが回ってきた時に「かめいくん」が歌ったのは、いずれも合唱コンクールの課題曲だったそうです。三年を通じて同じクラスになったことはありませんが、本人から聞いたのですから間違いありません。
ところで話は変るけど、酔漢さん・・・「もんまくん」と酔漢さんの「敵機来襲!!伏せろ!!!」です。あれ、「よしのばっぱ」の授業だからやったんでしょ?「できるから」とか「できないから」じゃなくって、反応が面白いってわかってるから・・・
その一 先生を選ぶ
その二 先生の機嫌を伺う
その三 授業の内容に精通している
その四 やるな一人で
この四つを厳守すると、授業妨害にならないとか。
よしの先生 ごめんなさい。そして、先生のおかげをもちまして、楽しい授業を受けることができました。
「水のいのち」を短大で女性三部合唱で歌った事があります。メロディーもですが歌詞が素晴らしく、色々歌った中では一番心に残っています。(ちなみに、高校・短大と尚絅でした)
あれから二十年たちますが、
♪うつした空の青さのように 澄もうと苦しむちいさなこころ うつした空の高さのままに 在ろうと苦しむちいさなこころ
という部分を、しんどい事があると心の内で歌って、自分を励ましています。
すず様と同じというのも縁でしょうか。
中学校の話をいたしておりますが、すず様が歌った「水のいのち」三女合唱部コンサートで聴いたことがございます。
きれいな詩ですので、酔漢とても印象に残る合唱曲です。コメントありがとうございます。
ちなみに家内昭和57年度の卒業生です
それにしても不思議なものですね。もう三十年近く前に歌ったフレーズが、ふと口をついて出てくることがあるんですから。しかも当時歌ったパートで・・・歌うといえば最近はすっかり寮歌(寮歌祭や山歩きの熊よけ)とカラオケばっかりになってしまいました(寮歌は寮歌で大好きなんですけどね)。時間に余裕が出来たら、またどこかの合唱団で歌いたいと思う今日このごろです。
小生の二期上で五橋から尚絅の合唱部に行った先輩がいます。あのころ五橋で合唱をやって、尚絅や一女、三女の合唱部に行ったひとは多かったんじゃないでしょうか。