「珍答集」の紹介だけのつもりでございました。が、お話はそれだけでは済まなくなってしましました。
丹治氏「けいとく先生は、酔漢の学年では教えてねぇんだおんな」
酔漢 理科の先生だすぺ、なんか先生達って学年ローテーションしてたみたいな感じだ っちゃ」
丹治氏「んだ、酔漢の学年って俺ら1年のときの3年生の担任がほとんどだおん な」
そうでした。ですから、1学年上の教科担任の先生とは、ほとんど縁のない学年なのでした。(僕らの学年だけではありませんが)
ですが、いろいろ「おうわさ?」を聞くわけです。
「濃硫酸にリトマス試験紙をつけると何色に変化すっかわがっか?」
「先生、『濃硫酸』は酸性だすぺ。んで赤さぁ変化すんでねぇすか」
「おめぇ『濃硫酸』だど、変化する前に黒くなんにきまってっちゃ」
「やられた!」と思うわけです。
理科の「けいとく先生」はこんな授業をするんで、人気のあった?先生と聞いてます。聞いてますとなりましたのは僕らの学年には縁のなかった先生だったからです。ただ雑誌「五橋」(年間総集編)の担任の似顔絵がおもしろかったなぁ。
この「けいとく先生」ですが半分「にわとり人間」として描かれていたおんな。
「・・(略)・・このように、名人が万が一、誤りをしてしまう事の例えを何というか?」
「『弘法も筆のあやまり』でねぇすか?」
「んだ。後は?」
「『猿も木から落ちる』だっちゃ」
「んだ。でもう一つあっと!わがっか?」
教室は、静かになります。シーーーーン。
「おめぇ『河童の川流れ』だべ。試験さぁ出っからな!」
で、本当に実力考査に出すところが「国語せいの先生(故)」らしいところです。
「・・この様に、基本的人権という言葉のなかには・・・」と話が続くよしのばっぱ。そこに、上空を飛ぶ飛行機の音が(低空の為か音が異様に大きい)話を中断した、よしのばっぱ。 すると突然
「連合軍だ!全員伏せろ!」と叫びつつ、机の下の潜り込んだ「もんまくん」でした。「もんま。酔漢ふざけるのもいい加減にしろぉぉぉぉ」
酔漢も参加でした。そりゃもんまとアイコンタクトでしょ。
お断りいたしますが、3学期の終わり間近。わきあいあいとした雰囲気の中でのお話です。
こうなってきますと、授業妨害と言われかねませんが、(しっかり授業妨害だよね)そのあたりの呼吸が難しいのでした。悪戯は悪戯でタイミングが難しいのです。
そして、もう一つは、やはり、持っている先生の雰囲気があるかもしれません。どう考えても「のぶなが先生」に、冗談は言えませんし。「ないき」(失礼します)には冗談は言えるのですが「おにゆり」には言えません。
そうだ、「ないき」で思い出しました。授業の終わり、さて帰ろうかと思い、音楽室(第二の方)の前を通りますと「日本シリーズ」の中継の音声が。中を覗くと「ないき先生」他数名が観戦中でした。「ないき先生」広島を応援していたのでした。
いろいろあったとは思いますが、思い出せないでおります酔漢です。
さて、五橋独特の授業と言えば、「相撲」ではなかったでしょうか。
相撲場がありました。体育の授業なのですが、数学の「すずべん」(失礼します)の授業です。
これ意外にきつかった。すり足で土俵を2週するわけです。股がいたくなりました。
相撲部がありましたが、中田中と五橋の2校だけですから、中体連開会式直後に優勝か準優勝が決まるのでした。
今手元には、卒業アルバムはございません。もちろん「五橋」も。実家(塩竈)に置いてあります。
記憶と寄せられる少ない情報をもとに、話しております。
このブログ「酔漢のくだまき」が本日1周年をむかえました。
昨年始めた際、一年後「何語ってんだべなや」なんて考えておりました。
酔漢、まだ中学生です。
もう少し、五橋時代のお話が続きます。
丹治氏「けいとく先生は、酔漢の学年では教えてねぇんだおんな」
酔漢 理科の先生だすぺ、なんか先生達って学年ローテーションしてたみたいな感じだ っちゃ」
丹治氏「んだ、酔漢の学年って俺ら1年のときの3年生の担任がほとんどだおん な」
そうでした。ですから、1学年上の教科担任の先生とは、ほとんど縁のない学年なのでした。(僕らの学年だけではありませんが)
ですが、いろいろ「おうわさ?」を聞くわけです。
「濃硫酸にリトマス試験紙をつけると何色に変化すっかわがっか?」
「先生、『濃硫酸』は酸性だすぺ。んで赤さぁ変化すんでねぇすか」
「おめぇ『濃硫酸』だど、変化する前に黒くなんにきまってっちゃ」
「やられた!」と思うわけです。
理科の「けいとく先生」はこんな授業をするんで、人気のあった?先生と聞いてます。聞いてますとなりましたのは僕らの学年には縁のなかった先生だったからです。ただ雑誌「五橋」(年間総集編)の担任の似顔絵がおもしろかったなぁ。
この「けいとく先生」ですが半分「にわとり人間」として描かれていたおんな。
「・・(略)・・このように、名人が万が一、誤りをしてしまう事の例えを何というか?」
「『弘法も筆のあやまり』でねぇすか?」
「んだ。後は?」
「『猿も木から落ちる』だっちゃ」
「んだ。でもう一つあっと!わがっか?」
教室は、静かになります。シーーーーン。
「おめぇ『河童の川流れ』だべ。試験さぁ出っからな!」
で、本当に実力考査に出すところが「国語せいの先生(故)」らしいところです。
「・・この様に、基本的人権という言葉のなかには・・・」と話が続くよしのばっぱ。そこに、上空を飛ぶ飛行機の音が(低空の為か音が異様に大きい)話を中断した、よしのばっぱ。 すると突然
「連合軍だ!全員伏せろ!」と叫びつつ、机の下の潜り込んだ「もんまくん」でした。「もんま。酔漢ふざけるのもいい加減にしろぉぉぉぉ」
酔漢も参加でした。そりゃもんまとアイコンタクトでしょ。
お断りいたしますが、3学期の終わり間近。わきあいあいとした雰囲気の中でのお話です。
こうなってきますと、授業妨害と言われかねませんが、(しっかり授業妨害だよね)そのあたりの呼吸が難しいのでした。悪戯は悪戯でタイミングが難しいのです。
そして、もう一つは、やはり、持っている先生の雰囲気があるかもしれません。どう考えても「のぶなが先生」に、冗談は言えませんし。「ないき」(失礼します)には冗談は言えるのですが「おにゆり」には言えません。
そうだ、「ないき」で思い出しました。授業の終わり、さて帰ろうかと思い、音楽室(第二の方)の前を通りますと「日本シリーズ」の中継の音声が。中を覗くと「ないき先生」他数名が観戦中でした。「ないき先生」広島を応援していたのでした。
いろいろあったとは思いますが、思い出せないでおります酔漢です。
さて、五橋独特の授業と言えば、「相撲」ではなかったでしょうか。
相撲場がありました。体育の授業なのですが、数学の「すずべん」(失礼します)の授業です。
これ意外にきつかった。すり足で土俵を2週するわけです。股がいたくなりました。
相撲部がありましたが、中田中と五橋の2校だけですから、中体連開会式直後に優勝か準優勝が決まるのでした。
今手元には、卒業アルバムはございません。もちろん「五橋」も。実家(塩竈)に置いてあります。
記憶と寄せられる少ない情報をもとに、話しております。
このブログ「酔漢のくだまき」が本日1周年をむかえました。
昨年始めた際、一年後「何語ってんだべなや」なんて考えておりました。
酔漢、まだ中学生です。
もう少し、五橋時代のお話が続きます。
「おじま」先生は小生が壱年の時のクラス担任。二学期だか三学期だかの席替えで女子を教室の前の方に集めたことがあります。あれ、職員室でも「何なんだ」って騒がれたらしいよ。卒業して随分経ってから先生に直接聞いた話です。
「もんま」先生は、卒業アルバムで担任クラスをいつも同じ並べ方で写してました(小生、教わったことはついぞないのですが、何故かよく存じ上げてました)。場所は南校舎屋上の天文台の前。下に女子を並べて御自分はその真ん中にしゃがみ、男子は天文台に登る階段に並べました。小生たちの二期先輩の学年しかり、小生たちの学年しかり。酔漢さんたちの時もそうだったのでは?
「おにゆり」ですが、小生、三年間を通して音楽を教わりました(「ないき」先生はコンクールが近づくとブラバンの練習を見て下さったので、よく存じております。また「まつもと」先生はブラバンの顧問でしたから、三年間御世話になっておりました。してみれば小生、当時の音楽の先生三人ともかかわりがあったことになるのです)。小生たちの頃は「始めは『ひめゆり』だったけど五橋で生徒たちに鍛えられて『おにゆり』になった」って言われてました。このことを六期上の先輩に話した所、「何言ってんだ、おめえ。あいつが五橋に来てついたあだ名、知ってっか。ケ○ョウ仮面っつうんだぞ」とのことでした。中学を卒業して三十年近く経ってからのことであります。いや、驚きましたネ。
「かんたろー」で覚えていることは三つあります。
一つは小生たちが一年生の時のことでありました。内職か何かしているヤツを見つけた「かんたろー」、そいつを教卓の所まで連れてきてニコニコ笑い、ニャンコみたいにそいつの首根っこをつかまえて(結構上背のあるヤツでしたヨ)、小生たちに向い、「こいつ、どうする?」小生たちが「ビンタ、ビンター」って言ったら、ニコニコ笑いながらそいつの頬っぺたを軽くパシーン(今だったらたちまち問題になりますネ)。
もう一つは酔漢さんの学年の卒業アルバム。バイクのエンジンの説明をしているのにエンジンじゃないとこを指さして「これ以上はない」っていう笑顔で写ってる写真(小生たちの学年のアルバムでは教卓で給食を食べてるとこを下から見上げるアングルで大写しにした写真でした。これも「かんたろー」らしいと言えばきわめて「かんたろー」らしい写真であったと思います)。
三つ目は自転車の分解組立ての話。「技術の授業で自転車の分解組立てをやるから、今日だけは自転車で来てもいい」って、「かんたろー」は或る生徒に言いました(五橋は自転車通学禁止でした)。その生徒は喜び勇んで自転車で登校しました。ところが授業で分解した自転車を何回組立て直してもネジが一つだけ残るんだそうです。それで「かんたろー」、「もう帰ってもいいぞ」ってその生徒に言いました。ところがその生徒が自転車に乗ろうとしてハンドルに手をかけた途端、自転車は音を立てて崩れ落ちたんだそうです。小生たちが授業で聞いたんですから、何年か先輩たちの時の話でしょう。酔漢さんたちはこの話、聞いたことありますか。
珍答といえば予備校時代の話です。国語の試験で「絵空事」の読みを「えくうじ」って答えたヤツがいたこと・・・酔漢さん、覚えてませんか。
「私はこれも趣味でして」と銃を構える格好。
どこからともなく教室後ろから聞きなれた声
「たねがしま。たねがしま」
「ちがぁーーう。そんなんじゃなぁぁい」
「さんぱち。さんぱい」
「そんなんでもなぁぁい」
解説「たねがしま」→「火縄銃」
「さんぱち」→「明治38年式、歩兵銃」
後ろで言ってたのは・・・誰でしたっけ?
ところでその英語教師の名前でネットを検索したら、十何件かヒットしたよ。まだまだ現役。中部地方の大学で教鞭を執っておいでのようです。