愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

五反田柱祭りと「伝統」

2000年09月04日 | 年中行事

松明投げで知られる八幡浜市五反田のお盆(8月14日)の伝統行事「五反田柱祭」の衣装が、今夏の祭から新調された。戦国時代の合戦シーンをイメージした衣装で、関係者は「衣装の新調を機に八幡浜の柱祭を全国にPRしていきたい」(愛媛新聞上でのコメント)と意欲をみせているようだ。柱祭りは、県指定無形民俗文化財で、約400年前の戦国時代に、土佐の長宗我部氏の軍勢と見誤って殺された修験者金剛院の霊を鎮めるために始まったと一般にはいわれている。高さ約20メートルの杉柱の先端にあるじょうご形の直径約30センチのかごを目がけて、麻木を束ねた「ガラ」に火をつけて放り上げ、かごの中で燃えるまで続けられる。衣装は火入れ競技に参加する選手が着用するもので、柱祭保存会(木綱貞道会長)が宝くじ助成金などを受けて作ったとのこと。従来は半てんにヘルメット姿だったが、これは昭和40年代始めに青年団の意向により始められたもので、それまでは普段着で特にヘルメットも着用していなかったという。この柱祭りは現在、戦国時代と結びつけて考えられているようで、また、今後も「戦国の祭り」的なイメージで売り出そうとしているように見受けられる。
私は実はこの五反田の生まれであり、幼き頃より柱祭りの歴史には興味があった。(大学生の時には実際に火投げに参加したこともある。)私が子供の頃に聞いた話は、こうである。戦国時代に元城という城が元井の山にあって、そこに仕える山伏がいた。名前は金剛院。彼が九州に修行に行っている最中、土佐の長宗我部氏が攻めてくるというので、急ぎ元城に白馬に乗って帰還したところ、味方に敵方と間違えられて射られてしまった。その後(この期間が射殺後すぐというよりも、少し時代が経てから、つまり江戸時代になってからと子供ながらに認識していたが)、五反田に悪い病気が流行り、地元の人はこれは金剛院の祟りに違いないといって、彼の霊を供養するために、柱祭りをはじめた。以上。
柱祭りはよく400年の伝統のある行事といわれる。それは、この祭りが戦国時代に始まったと認識されているからだろう。ところが、先日、五反田の氏神である湯島神社の倉庫の中に入る機会があり、そこに、昭和30年代の五反田区の文書箱があり、種々の区内の行事に関する記録を見ることができた。中でも興味深かった文書を一つ紹介しておく。
昭和36年8月2日五反田区長文書より
柱祭は「全国的にも珍しい行事として、漸く脚光をあび圧倒的な人気を博しております。然しながら御承知の様に多くの故事が時代と共に忘れさられて居ります現状をみて一抹の淋しさを感じて居ります」、「さて、130年の伝統をほこる奇祭”柱祭”本年も愈々8月14日五反田河原において」云々
この文書からは、昭和36年の段階で、すでに祭りの伝統が忘れられかけている危惧が見受けられることと、柱祭りの伝統が400年ではなく、130年となっているところが面白い。130年とは具体的な年数であり、江戸時代後期にはじまったことを示している。この昭和36年段階では、明治時代初期生まれの人も生きていたわけで、もう聞くことのできなくなった柱祭りに関する古い話も伝わっており、起源についても明確だったのかもしれない。ところが、柱祭りは昭和40年前後に県の指定文化財となり、ますます脚光をあび、昭和50年代からは場所を本来の五反田川原ではなく、公園グランドで行うようになり、競技化、観光化されていった。この過程で、正確な起源伝承は途絶えてしまい、新聞やテレビなどのマスコミが伝える「400年」、「戦国時代」の言葉に影響されて、「柱祭りは、400年前に始まった」という新たな伝統を創出していったのだろう。
こういった祭りの伝統が近年になって創出される事例は数多い。例を挙げればキリがない。上記の内容を今、五反田で声高く言ったら・・・。衣装を戦国風に新調した今、実は戦国時代ではないんじゃないですか、なんて言えない、言えない。実家の親にも窘められてしまった。史実と伝統の相違はよくあること。史実至上主義の立場はとらず、伝統が創出されていっている現在を客観的にとらえて、今の柱祭りの状況を長期的に観察してみようという立場に私は立とうとしているのだが・・・。

2000年09月4日