「Traditional Shikoku Pilgrimage in the Modern Context」(現代に息づく伝統としての四国遍路)という遍路ドキュメンタリーを綴ったCD-ROMが、このたび創風社出版(愛媛県松山市)から刊行された。撮影者はKeith Kenney(キース・ケニー)。アメリカ・サウスカロライナ州立大学ジャーナリズム学部準教授で、フォトジャーナリストとしても活躍している人物である。TextとTranslationはJunko Baba(馬場順子)。同じくサウスカロライナ州立大学助教授である。
内容は、各約2分程度の遍路に関する映像(撮影・キース・ケニー)15編で構成されており、それぞれに詳細な英文解説(文・馬場順子)が加えられている。また、和文英文併記のテキストも付属しており、その中に用語解説も含まれているが、外国人から見た眼を通して、「日本人にとってはあたり前になってしまて見落としてしまいそうな」遍路の世界を捕らえ、「もう一度外から見た日本の再発見をして頂きたい」という意図のもと制作されたものである。
さて、15編の映像それぞれを見てみた雑感をここで記しておきたい。
1 四国遍路 Introduction to Shikoku Pilgrimage
四国遍路に関する様々な事象を静止画のコマ送りで紹介。寺に向かう歩き遍路、寺で鈴を鳴らして合掌する姿、納経帳への授印、接待をする人々、顔を朱で塗られた地蔵菩薩、寺の近く(もとの神宮寺か)の拝殿に飾られた注連縄から垂れた幣、札所前に止められた一台の乗用車とその中に置かれた菅笠、高野山奥の院に奉納された巨大なコーヒーカップなどの画像が流れ、本編への導入として、伝統的な遍路の姿と現在の四国遍路の様相を描き出そうとしているように見える。
映像中で流れる音は般若心経、寺の鐘の音、鶯の鳴き声のみ。静寂さを意識しているようだが、これは全編を通していえることである。
2 敬虔な祈り Reverential Prayer
71番札所弥谷寺にある洞窟内の堂で、お経を唱える遍路の一団の映像。涙を流しながらお経を唱える姿に、敬虔な信仰というあるべき姿を垣間見たという。映像からは何の涙かはわからない。しかし、弥谷寺は、死者の霊が集まる山中他界の観念があり、弥谷参りといって死者供養のための参拝が盛んである。涙を流す遍路も亡き人の供養のため必死にお経を唱えているのかもしれない。そういったことを示唆させてくれる映像である。
導入の次にこの映像を持ってくることは、撮影者がこれを遍路の本来の姿であり、また核心部分であるととらえているのだろう。
3 「笑い」の接待 "Laughter"Settai
徳島一国参りをするバス遍路が薬王寺の宿坊に泊まった折りに、夕食後の余興として、バスのツアーガイドが「オカマショー」を披露し、遍路達は爆笑の渦となる。ガイドはこれを遍路に対する「笑い」の接待と考えているらしい。「笑い」は多忙でストレスの多い現代社会では心の癒しとなるとともに、新たなエネルギーを人に与えてくれるもの。解説では「リストラ等で笑顔が消えつつある現代の日本社会の中で、笑顔や笑いは最高の形での『お接待』なのかもしれない」と述べている。また、日本人は生真面目一辺倒と国際社会では一般的なレッテルが貼られているが、我を忘れて阿呆になりきって楽しむというのが日本人気質ではないかとも述べ、このオカマショーも一見モダンなパフォーマンスに見えるが、実は日本の伝統に根付いたものなのではないかと言っている。
儀礼的に笑いと遍路が結びついている事例を私は知らない。しかし日本の伝統的な旅である寺社参詣、たとえば伊勢参り、金毘羅参り、大山参りなどは、神仏祈願だけではなく、寺社周囲の街に滞在して遊興に浸ったり、はては乱痴気騒ぎをしたりと、旅には遊びの側面が必ず見られるものである。ところが例外的に伝統的な四国遍路には遊びの要素が少ないというか、見られないと思っていた。それは遍路が修行、死者供養などを元来の目的とし、その側面が強調されたためなのだろうか。現代の遍路にも「遊び」は見えず、遍路の「笑い」は表立って出てこないように感じるのだが、映像を見ていて、この「ように感じる」がクセ者に見えてきた。遍路はそのように見せる仕掛け(というより、「遊び」や「笑い」を表に見せない仕掛け)があり、実体はそうとは限らないののではないか。儀礼的に遊びや笑いはなくとも、個々の巡礼中にはそれなりの遊びがあり、笑いがあるのかもしれない。ただし、その実体については、私自身、遍路の旅に出たことがないのでよくわからないのだが・・・。
4 清水の癒し Healing with Sacred Water
映像は水面から始まる。(水面には蓮の葉が浮かんでいる。)次に水の張られた田んぼでの田植えのシーン、1番札所の霊山寺境内にある滝、手水鉢に流れ込む水を取る遍路が紹介される。
田植えのシーンが出てくるが、私はなぜここで田植えを紹介するのか最初不思議に思った。解説文によると、仏教で悟りを象徴する蓮は、池の泥水を吸ってもなお、純白の花を咲かせる。昔は托鉢をするお遍路さんにお接待として一握りの米を施すのが習わしであったが、このお米は、蓮のように泥に水を張った水田で育つと説明されている。この蓮と米を結びつけて考えているようだ。
ただし、泥を世の中の悪になぞらえているように思えるが、田んぼの泥についてもそのようにとらえることができるのだろうか。泥という悪と、清水という善の中から育まれて稲は成長するという解釈だろうか。正直、「西洋っぽい」感覚だとも思ったが、否定もできないところもある。「顔に泥を塗る」の泥は明らかに悪、恥、罪、汚れをイメージさせるし、民俗儀礼の中でも、御田植祭りにおいて、ダイバンという鬼が田んぼの中に、周囲の者を落として泥まみれにさせるという例(つまり、ダイバンという鬼が泥=悪のシンボルという解釈が成り立たないわけではない)があるように、この「西洋っぽい」感覚で解釈できる事例も探せばありそうだ。本編の主題は清水であるが、むしろ泥に対する感覚に興味がひかれた。
5 遍路儀式 Pilgrims' Ritual
遍路が札所に着いてからの参拝の儀礼を順を追って紹介している。
このCD-ROMの内容は先日、フィンランドで行われた国際学会International Conference of the European Association of Japanese Studiesでも発表されたというが、本編は四国遍路の巡拝方法の紹介であり、外国人が遍路を知る上で最もポピュラーな映像となったのではないか。(実は、これも日本人感覚で、実際はそうではなかったりして・・・。)
6 洞窟からの悟り Enlightenment Through the Cave
映像は暗から明へというコントラストが印象的。洞窟という闇の空間に一度行き、そして洞窟から出て、再びこの世に戻ってくる。死と再生をイメージさせる映像。まさにエリアーデが解説した世界のようだ。
映像は洞窟から出てきたシーンで終わっているが、解説文では最後に「この洞窟を通り抜けるという宗教的経験を経た後、お遍路さん達を待ち受けているものは、交通騒音という世俗の世界。これが現代の悟りへの道なのだろうか。」と付け加えている。
7 山門への遍路道 Narrow Passage to the Mountain Temple
歩き遍路が岩屋寺の山門まで歩いて登るシーンを紹介しているが、映像の中ではまず遍路のお経の声が流れ、次に鈴の音、そして山門前の松の枝を剪定している庭師のハサミの音、山門で僧侶が拍子木を叩く音、という具合に、音のリレーとなっている。
この映像に限らず、全編とおして言えることだが、撮影者は音を遍路にまつわる音を、かなり意識しているように思える。いや、意識せざるをえないほど、遍路に関する音が印象的だったのかもしれない。馬場氏がまえがきで、「A narrow pilgrimage path stretches into nature and Japanese pilgrims walk in silence on their quest」という文章を紹介しているように、遍路のキーワードを「自然」、「静寂さ」ととらえている。その静寂さを強調してくれるのが遍路の鈴の音であったり、鶯の鳴き声であったり、流れる水の音であったりするのだろう。
さて、遍路はなぜ「静寂さ」をイメージさせるのだろうか。これは先に述べた遍路には遊びや笑いの要素を表に見せない仕掛けがあると推察したこととも関連してくるのだろう。今、ここでは結論は導き出せない。今後、考えて行くしかない。
8 自然とのふれあい In Touch with Nature
浄瑠璃寺の住職が、自然の草木を用いて生け花をしているシーンが流れる。「花屋で買ってきた花を花瓶にいける西洋式のフラワーアレンジングになれ親しんでいるキース・ケニーにとって、自然のありのままの素材を取り入れて花器に生けていく日本の生け花は新鮮な発見だった」(解説文より)
自然の素材を生かしながら生きている日本人の姿を見たのだろうか。自然とふれあい、脳裏の中で自然をイメージするだけでなく、一体化することができていると見たのだろう。ステレオタイプな西洋・日本の自然との接し方の違いの紹介ではあるが、遍路のキーワードである「自然」を実感する感覚は、現代の日本人ではなく案外、西洋人の方が強いのかもしれないとも思った。
9 室戸岬 Cape Muroto
弘法大師空海が虚空蔵求聞持法を行い、悟りを開いた場所である室戸岬から海を眺めたシーンが流れる。海に沈みゆく夕日の映像がまず流れるが、これは空海の悟りを象徴したものだろう。次に岸に打ち寄せる波が撮され、その後、海岸で遊ぶ子供の姿が撮される。打ち寄せる波は「時」を、子供は「現代」を意味しているのだろうか。空海が悟りを開いてからの千年以上の年月を映像で紹介しているようにも見える。
10 三味線の集い Shamisen Lesson
島四国で有名な愛媛県大島の民宿で、女将や近所の主婦が三味線の練習をしている場面の映像である。大島は春に島四国に訪れたお遍路さんに接待を行ったり、宿を提供する善根宿の風習がいまだ行われているところである。その接待を行っている女性達が、三味線を練習しているところを見て、大島の人達が「お接待」だけではなく、日本の伝統芸能の伝達者であるかに見えたようだ。
ただ、「お接待」は、地元において世代を越えて伝承されてきた文化であるのに対し、「三味線」は地域間で伝承されてきた伝統ではなく、言ってみれば外からもたらされた伝統である。
「伝統」という言葉の中身は複雑であるが、英語の「tradition」の意味するものと同じなのか、相違しているのか知りたいところである。
11 横丁の伝統芸能 Traditional Crafts Around the Corner
香川県の善通寺近くの古い町並みに残る伝統産業(伝統工芸)を撮った映像である。こういった伝統工芸の類が、「現代化、西洋化が進められる前の『古き良き日本の姿』に郷愁の念を抱くお遍路さん達の心を満たしてくれる違いない」(解説文より)と述べている。ただ、私の感覚からすると、遍路の心を満たすのは、伝統工芸よりもむしろ、接待などのような地域内で伝承されてきた伝統の方ではないかと思ってしまう。前編の「三味線の集い」と同じく、「伝統」という概念について深く考えてみたくなるのだが・・・。
12 お接待再考 Another Meaning of Settai
タイトルがAnother Meaningなので、お接待の「別の意味」ということか。
本編では、室戸岬の海岸で、磯焼きを楽しんでいる一行を撮した映像が流れる。この一行は、長くつき合いのある会社のお得意さんへの「接待」だという。ビジネス上の接待(接待ゴルフなど)なのだが、このようなものでも、労をねぎらってもてなすという本来の「接待」の精神があり、そのまま四国の地に根付いているように思えると解説している。
13 夜空の鯉のぼり A Prayer to Carp Flag
漁港の海岸線に沿って空高く泳ぐ鯉のぼりの映像が流れる。この映像と遍路を結ぶものは何なのか、この映像の意図しているものは何なのか、最初に見たときには正直言ってわからなかった。解説によると、鯉のぼりには漁師達の大漁への祈りと、息子が末永く健康で家業を継いでいってくれるようにという祈りが込められているが、漁師の仕事は常に自然と向き合っており、自ずと宗教心がはぐくまれ、中には弘法大師信仰にあつい人も多く、遍路への接待をする人も多い、ということらしい。鯉のぼりが大漁祈願というのにはしっくりこないところもあるが、外国人の眼からは、魚の造形を空中にかかげる鯉のぼりの光景が、自然と向き合っている人たちの信仰の所産と映ったのか。自然と信仰の調和という意味で、遍路と鯉のぼりを関連づけて見たのだろう。
14 お接待今昔 Settai Past and Present
20秒という短い映像だが、霊山寺で、20年にわたって「お接待」をしている老婦人の様子を映し出している。一つ一つ丁寧にお遍路さん用の賽銭袋を手で編み、縁起物の5円玉をつけてお接待の品とする。今日では珍しくなった手づくりの品の接待である。解説ではこれを「次の世代にも残していって欲しい四国の風土が生んだ心の遺産」と言っている。
確かに、これほど心のこもった接待はないのだが、こういった姿は現代では稀になってきているのだろう。近年、地域おこしの一環として接待を復活させた事例があると聞くが、こういった接待は、自らの信仰心が一義となっているわけではない。
この映像を見て、信仰心を端に発した接待がいつかは消えてなくなり、イベントとしての接待が多くなって、四国遍路の姿が見た目は変わらなくても、中身が少し味気ないものになってしまうのではないかという危惧を感じた。
15 ノスタルジアへの誘い Commercial Invitation to Nostalgia
最後の映像は、遍路ではなく、京都大覚寺で行われた白拍子の舞の様子である。白拍子が灯された蝋燭の火を扇であおぐシーンで映像は締められるが、それは伝統的な四国遍路の姿が、現代においても揺られつつもなお、火を灯しているかのように生き続けていることを表現しているようにも見える。
この15編の映像の主題は「現代に息づく伝統としての四国遍路」である。では、何を伝統と表現しているのかというと、集約すると「自然との調和」、「接待の心」の2つになるのではないか。観光化され、現代的イメージの強くなっている四国遍路ではあるが、キース・ケニーと馬場順子両氏は、四国に根付いた遍路の伝統文化を、日本人とは違った側面から見て、我々に気づかせてくれる。しかも、この映像とテキストが、この四国の出版社(創風社出版)から刊行されたことは貴重であり、地元の文化を、内からの眼と外からの眼の両面で見るきっかけを与えてくれたのではないだろうか。
2000年09月11日