愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

入道雲を「伊予太郎」と云うこと

2008年05月18日 | 口頭伝承
南予の気象に関する方言で、入道雲の事を「伊予太郎」と呼ぶ。松山でも、昔から高校野球の頃、つまり堀之内に松山市民球場があった時代、そこで夏の甲子園の県予選が行われる頃に、球場から松山城方向の空に出る雲を「伊予太郎」といっていたそうだ。

岩波文庫に『物類称呼』という江戸時代の全国の方言集があるが、その14頁を見ると、類例が出ている。

「夏雲 なつのくも 江戸にて坂東太郎と云(坂東太郎といふ大河あり)、大坂にて丹波太郎と云、播磨にて岩ぐもといふ、九州にて比古太郎と云(比古ノ山ハ西国の大山なり)、近江及越前にて信濃太郎と云、加賀にていたちぐもといふ、安房にて岸雲と云。今案に、これらの異名夏雲のたつ方角をさしていひ又其形によりてなづく」

以上のように記載されています。この記述から考えると、
江戸=坂東太郎(利根川方面から出る入道雲)
大坂=丹波太郎(丹波方面から出る入道雲)
近江・越前=信濃太郎(信濃方面から出る入道雲)

これを見ると、愛媛で「伊予太郎」と呼ぶのは、何かおかしな気もする。「伊予方面から出る雲」と考えれば、大分や広島や高知あたりの方言なのだろうかと思えてしまう。インターネットで検索すると、やはり広島県の沿岸部や山口県の島嶼部では「伊予太郎」の方言があるようだ。

この事例を見ると、日韓の「日本海」名称論争を思い浮かべてしまう。「日本海」呼称は、日本の領海だから「日本海」というのではなく、「向こうに日本が位置する海」というように、朝鮮半島主体で成立した呼称なのかもしれないという勝手な仮説。近代の国家・国境意識の高まりとともに、日本海=日本の領海起源説が一般化したのかもしれない。あくまで推測であるが・・・。

大分県に「愛媛街道」があったり、畿内から阿波国に行く途中に「アワジ(淡路)」があったり、津島町畑地(ハタジ)も、幡多郡へ通じる路という説もある、という具合に、名称成立過程と主体の位相、そして、その後の認識変容には興味深いものがある。

ただ、松山の「伊予太郎」は城山という伊予のシンボルで語られるので納得できるが、南予で「伊予太郎」と使うのは不思議な気もする。昔は南予は自分たちの住んでいる土地を「伊予」とは強く意識していなかったのだろうか。(これもあくまで推測です。)


竹に虎の瓦

2008年05月18日 | 自然と文化
八幡浜市保内町の神社の瓦をもう一つ紹介。
「竹に虎」。虎の吼える様子が「猛虎」のようで迫力がある。
「竹に虎」といえば、唐獅子に牡丹、梅に鶯、紅葉に鹿などと同じで
関係の深い植物と動物を組み合わせた縁物で、昔から様々な図柄として
使われている。

竹と虎が描かれている図柄といえば、法隆寺・玉虫厨子の「捨身飼虎図」。
シャカの過去世である薩捶(サッタ)太子が、飢えた虎に我が身を与えよう
として、崖の上から飛び降りる場面が描かれている。

その虎の周りは竹林が表現されていて、まさに「竹に虎」。
ただし、これは後世の着物の柄や家紋など縁物での図柄とは
分けて考えた方が良い。後世の「竹に虎」には捨身の思想は含まれない。

ちなみに、この「捨身飼虎」は、根拠となる経典が存在する。
それは『金光明最勝王経』である。
この経典は、日本書紀・続日本紀にも頻繁に登場する。
「金光明経」とか「最勝王経」と略されて出てくることも多いが、
この経典の巻第十が「捨身品第二十六」。
ここに「捨身飼虎」の話が具体的に説かれている。

宇和の遍路道標

2008年05月18日 | 信仰・宗教

宇和の清沢を自転車で走っていた際に、路傍に遍路道標があったので、

驚きました。実際の遍路道から約1キロは離れている通りです。

普段、お遍路さんが歩く道でもありません。

未発見?未報告?の遍路道標は、探せば、まだまだありそうです。

保内の社叢3

2008年05月18日 | 自然と文化
三島神社の社叢には、スギが一番多くて、クスノキもありました。

あと素晴らしいと思ったのが、この写真。ケヤキです。

一瞬、もし、これを加工すれば、

どれくらいの大きさの板がとれるんだろう?と、

鎮守の森で不敬なことも考えてしまいました。