愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

遍路道と「八幡浜新道」

2008年05月26日 | 地域史

宇和の下松葉の国道56号交差点。

ここに明治40年に建てられた遍路道標がある。

右側を示す指印が陽刻され、「へんろ道、八幡浜新道」と刻まれる。

左側面には、「左、八幡浜旧道、津布理道」とあり、

八幡浜旧道・新道の併記が興味深い。

実は、この道標が建立された8年前の明治32年に、

八幡浜と宇和を結ぶ県道が開通している。

この道は、双岩地区と多田地区を結ぶ鳥越峠を通るもので、

それまでの双岩地区と石城地区を結ぶ笠置峠は、歩道のみ。

新県道は、車道として、その後、八幡浜・宇和を結ぶ主要道となる。

宇和・宇和島方面から、八幡浜・西宇和方面への道の変遷を知る上で、

貴重な歴史資料といえる。

松葉城3

2008年05月26日 | 地域史

松葉城の頂上部からみた宇和の様子。

手前右が下松葉。左手が卯之町。奥が久枝。

左右に大きな道が走っているのが国道56号。

国道56号からも松葉城は岩肌むき出しで、よく見えます。



松葉城2

2008年05月26日 | 地域史

松葉城の頂上部は、このように平坦になっている。

ここから一段下がったところに「松葉城碑」が建てられている。

時代は慶応3年。碑文は上甲振洋の撰である。

上甲振洋は、宇和教学の祖ともされ、申義堂の名づけ親、左氏珠山の師。

珠山は、宇和島藩校明倫館で上甲振洋に学び、宇和に漢学塾を開く。

中世から江戸時代まで、松葉城は宇和に関する歴史遺産の宝庫。

松葉城1

2008年05月26日 | 地域史

松葉といえば、西園寺氏の居城だった松葉城。

実は、篠山神社から松葉城まで歩道が整備されている。

この間は急な坂道も少なく、歩きやすい。

かつては、松がかなり生い茂っていたというが、

松喰い虫の被害にあって、かなりの松が枯れたらしい。

ここ数十年でも、景観は随分変わっているようだ。


坪ヶ谷新四国8

2008年05月26日 | 信仰・宗教
江戸時代初期には、卯之町は松葉町と称していた。

名前から、山々に松が数多く生い茂っていたと思われるが、

現在は、スギ・ヒノキの人工林と、雑木林が混在。

ただ、松もところどころに残っており、

「松葉町」の名残りともいえるか・・・。

坪ヶ谷新四国6-篠山神社-

2008年05月26日 | 信仰・宗教

坪ヶ谷新四国の第37番岩本寺を過ぎて、第38番金剛福寺、

第39番延光寺にさしかかる場所に、篠山神社がある。

これは実際の本四国でも位置としては正しく、

この篠山神社が坪ヶ谷新四国と関連して勧請されたと

考えられる。事実、伊予・土佐境にある篠山に遍路が参詣している。

ちなみに、この「篠山神社」と刻まれた石碑の脇に、

明治30年に神領の者が寄進したものと刻まれた碑がある。

神領は県社三島神社が鎮座するところ。

坪ヶ谷新四国1-「地四国」の呼称-

2008年05月26日 | 信仰・宗教
宇和のミニ四国88ヶ所である坪ヶ谷新四国霊場。

第一番は、卯之町の光教寺の境内にある。

この境内の手水鉢。嘉永年間に中之町から寄進されたもの。

そこに大きく「地四国」と刻まれている。

坪ヶ谷新四国の創基は、天保2(1831)年。明治28年に再興され、

現在にいたるまで、道が整備されている。

歩くと1時間半程度で88ヶ所まわることができる。

嘉永年間において、ミニ四国霊場を「地四国」と称していたことを示す一史料。

愛媛に双体道祖神?

2008年05月26日 | 日々雑記

宇和の開明学校の脇に、双体道祖神があります。

四国に双体道祖神?双体道祖神は、東日本のもので、

愛媛にはないはず・・・と思いきや、

開明学校が、長野県松本市の開智学校と姉妹提携している関係で

松本市から贈られたもの。

笠置峠のモロイ岩

2008年05月26日 | 自然と文化

3月下旬に、岩木地区の方々と笠置峠を宇和町岩木側から散策。

その峠道から少し離れたところに「モロイ岩」という大きな岩があり、

その上に登ることができました。

石城公民館で年配の方に話を聞くと、昔はよく遊びに行って

登っていたとのこと。

ただ、岩の向こうは絶壁で、危険。子どもだけで遊ぶ場所ではなく、

私も足が震えました・・・。