urauranus(ゆり)のあけてびっくりおもちゃ箱

「枡野浩一のかんたん短歌blog」にトラックバックで投稿するためのblogでしたが…??? 日々の記録……記憶。

今日は日曜日

2005-05-22 10:05:45 | Weblog
小学三年生くらいから中学生まで、日曜日は教会へ行っていました。行かない時もありましたが、だいたい行っていたと思います。
隣に住んでいた人が一家でクリスチャンだったので、誘われて行くようになりました。わたしと弟だけ。
迎えのバス(というかワゴン車)が回って来て、それに乗って行きました。が、自転車でも行けるくらいの距離でした。わざわざ迎えに来てくれるので、予定がない日は行っていたのかもしれません。
午前十時から十一時までの一時間、神父さんの話を聞いたり、賛美歌を歌ったり、お祈りをしました。後半はグループに分かれて(子どもの年代ごとに)聖書を読んだり、お祈りをしたり、この聖句を来週までに憶えましょう……といった感じでした。
神父様は「神父様」ではなく「神父さん」と皆読んでいたと思います。日本人で奥さんも子どももいる普通のおじさんでした。かっこうも法衣ではなく普段着でした。
大人は十一時以降も教会で色々何かしていたようでしたが、子どもだけで来ている人はまたバスに乗って帰りました。
弟が、神父さんではない大人の人に「クリスチャンはお酒を飲まないんですか?」と聞くと「ビールは大人のジュースだ」と返ってきたそうです。
また、大人通しが「兄弟」と呼び合っているので「親戚なのですか?」と聞くと「人類はみな兄弟なのだ」と教えてくれたそうです。
そのうち弟は、クラスメイトに家族で毎週教会に行く友だちがいて、そちらに連れていってもらったら隣の隣の市にあるその教会は大きくて立派でそっちの方がいいと、そちらへ行くようになりました。
あまり憶えていることはないけれど、クリスマスには聖書や賛美歌の本がもらえてうれしかったです。
一度、平日の夜、映画「塩狩峠」が教会で上映されるというので、母親も隣人に「来て下さい」と言われて、一緒に教会へ行きました。
中学生の時に、神父さんに「イエス様を信じているでしょう? 洗礼を受けましょう」と言われ「はい」と答えたものの怖くなりました。
洗礼を受けたら、自由ではなくなるような気がしました。教会に縛られて生きていくような感じがしました。(イエス様を信じてはいたと思いますが。)
それに、人が洗礼を受けるところを見たことがなかったので、聖書を読むと川で洗礼を受けたとあるので、どこの川に入るのだろうと思いました。
「どこで受けるのですか」と尋ねると「ここです」と答えられました。皆の前で、水槽に入るのかなぁと思いました。見世物のようになるのはイヤだなぁと。
今でもよく分かってはいないのですが、たぶん聖水を少しかけられるだけなのだと思います。で、洗礼名がもらえるのだと思います。
その頃読んだ本の著者が、生まれてすぐに洗礼を受け、洗礼名は〇〇だと書いていました。それがその時のわたしには、なんだか自慢気な書き方に取れました。(まぁ、誇りに思っていただけなのかもしれないですが。)で、洗礼を受けると偉いのか? と思いました。
それから、なんとなく教会には足が向かなくなりました。

隣の人の家で一緒に食事をいただいたことがありますが、食べる前にはお祈りをし、車に乗せてもらったことがありましたが、運転前にもお祈りをしていました。
わたしもお祈りをするのはすきでした。
コメント (2)
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