あたしが見た柏崎は報道で伝えられている以上に大変な状況でした。
道路は一見、普通にみえても歩きにくい、全体が波打っていて端が沈んでガードレールや縁石がくずれています。
あちらこちらに亀裂もあります。
各家全部に「調査済み」という張り紙と危険度に合わせて赤、黄と色分けされ玄関に紙が張られています。
カーテンがとじられた家は見た目はわかりませんが、出来てしまったすき間から部屋の大変な様子がうかがえます。
下が車庫だったのでしょう、車の上に家がぐしゃぐしゃになって被さっています。
ある家は全体が、不気味に傾いています。
ある路地には通行止めのテープが張られ、町並み全部がゆがんでいます。
ボランティアでさえ危険で入れない地区もあります。
まず、柏崎災害ボランティアセンターで受付をすませ、テントで待ちます。
ボランティアは被災者のニーズに合わせて、コーディネーターにより作業が振り分けられます。
例えば・・・
コ「男性2名、タンス及び家具の移動。
ここより約15分ほどの場所」
ボ「ハイ!行きます。」
コ「男性4名、土砂の撤去。
車での移動が可能な方一名含む」
ボ「ハイ!」
作業を終わらせると休憩をとり、またテントで待つわけです。
次々と依頼はあります。
終了は16時と決まっています。
コ「事情ありで大急ぎ、時間厳守で現地に到着。
室内片付け、女性4名、」
「はい!行かれます」
あたしを含め、その場でメンバーがすぐ決まりました。
ボランティア会員のステッカーをもらい、詳しい依頼内容と心得と地図の書かれた紙を渡されます。
リーダーを決めます。
ヘルメット、土嚢袋、手袋などを資材置き場所から必要な物を選び、車に乗ります。
依頼者は入院中に被災され、今日はじめて自分のお店(スナック)に入りかなりショックのようです。
待ち合わせジャストに到着。
体調をくずされ、手術をひかえ入院中の女性の方で(Sさん)一時外出で戻られたそうです。
お店の中は・・・あの揺れのあったその日のまま。
とにかく、カウンターの向こうは24インチのテレビや棚から落ちてきたお酒やグラス、雑誌小物等で床が見えません。
奥のキッチンに至っては、落ちてきた食器、調味料、ストック品で入る事が出来ません。
地震の揺れのすごさが想像できます。
その時、Sさんがこの場にいらっしゃらなくて本当に良かった。
とにかく足を入れる場所作りからスタートです。
小さなお店ではありますが被害のひどさに、テレビの移動を含め男性2名を応援要請しました。
割れ物以外はこちらの勝手な判断で捨てるわけにはいきません。
ご本人に確認していただきながら6名で作業をしますが、お店ということもありビン食器などの破損物が多く、とても危険、なかなか進みません。
もし今、余震が来たら・・・。
よけいな口は誰もきかず、ひたすら作業を続けました。
「すみませんねぇ・・・」Sさんは申し訳なさそうに言います。
本当は誰だって家の中はみられたくないし、気がひけるもの。
「だいじょうぶですよ、心配されないでお座りになって処分品の確認だけして下さいね」
今あったばかりの6名だけれど、同じ気持ちでないとSさんの心の負担も大きくなってしまうからね。
後から来た若い男の学生さんも本当によく動きます。
「普段、自分の家じゃやらないっすけど・・・」と照れ笑いしていました。
使えるもの、処分品の袋詰めが終わり、床を拭いたのはもう終了時間の16時近く。
さあ、本部にもどらなければ。
あたしは「お元気で。お体をおだいじに。」としか言えなかった。
被災地において、そのすざましい光景はカメラがあっても撮る気になれない。
ルールにもあるけれどね。
被災された方々の今の気持は計り知れない。
復興のメドがたち今後が考えられるようになるまでにはまだまだ時間が必要。
プレハブ仮設住宅もすごいピッチで進められていましたが、まだ危険で荷物の整理が出来ないお宅もたくさんあります。
来週くらいには解体まえの荷物の運び出しが出来そうなのだけれど・・・行き先、生き先も不安でみなさん疲れはてています。
まだまだ暑い夏はこれからです・・・
前回の新潟中越地震の時は心のケアの時期にMJで長岡と千小谷の仮設住宅と老人施設をうかがい、山梨での合唱活動で集めた義援金とゆずと歌をもってお見舞いしました。
義援金は生徒数の一番少ない太田中学校の受験生一人ひとりに直接渡しました。
残りは通学用のウィンドブレーカーが必要とされていたのでその費用に。
手を合わせ拝むように涙ながらに受け入れていただいたのが思い出されます。
心の痛みが伝わります。
元気をもらったのは、私たち。
暮れもせまった本格的な冬に向かう頃でした。
今朝は8時半から教室。
・・・筋肉痛ではありますが今後「私たちに出来る小さな一歩・・・」考え中です。
一緒に行った仲間も今頃同じ事を考えているような気がします。