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二回目になるがつづけて、大東亜戦争(太平洋戦争)のことを書く。ここでの話題は、つらく悲しくて厳しい話だが、愛国心に燃える二十歳代前後の若きの特攻隊(特別攻撃隊)のことである。初発は、昭和19年、フィリッピンでおこなわれ、日本軍は次第に追い詰められて九州の飛行場に移っていく。これは後年、共産主義国家の北朝鮮、それにイスラム教のアラブ諸国のジハード(聖戦)、捨て身の攻撃パターンにとりいれられるようになる。最近の顕著な例はご存知のようにニューヨークの9.11である。
戦争ということについて、わたしは文学の大岡昇平や島尾敏雄、古山高麗雄の戦記で知った。もっと若いころには高校時代に読んだのだが、あのベストセラーになった学徒動員の遺言の手紙集「きけわだつみの声」がある。
たまたま見た雑誌「中央公論2011 -12」にあった次の文章を転載する。
早坂隆の鎮魂の旅--特攻隊発祥の地を歩く-敷島隊員・谷暢夫の生涯を追って
十月二十日の朝、予定通り、「体当たり攻撃」に関す
る編成が通告された。「体当たり攻撃」を実施する部隊
「神風特別攻撃隊」と命名され、さらに隊「敷島隊」
「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」という四つに分けら
れていた。これは本居宣長の「敷島の大和心を人問わば
朝日に匂う山桜花」という歌に因んだものである。
谷暢夫の名前は、敷島隊の四名の中に含まれていた。
神風特別攻撃隊の隊員たちは、第二〇一航空隊本部の
前庭で大西長官から訓示を受けた後、飛行場で出撃待機
となった。
死を目睫にした谷は、辞世として幾つかの和歌を詠ん
でいる。
身は軽く 務重きを 思ふとき
今は敵艦に ただ体当り
遺書としては次のような言葉を綴っている。
「何一つ親孝行できなかった私も最初で最後の親孝行を
します。ご両親の長命を切に祈ります」。
幾多の自問の末、深甚なる想いの氾濫を最後まで両親
に捧げる息子であった。
午後三時過ぎ、マバラカット飛行場で出撃を待つ隊員
たちのもとを、大西長官が自ら訪ねた。飛行場の脇を流
れるバンバン川の河原で、大西長官と隊員たちは別れの
水盃を交わした。
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