18年にもなりますか

感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

ワールドカップ2006ドイツ大会のつづき

2006-06-14 02:03:46 | 
 昨日に引き続いてワールドカップ2006ドイツ大会の話題。この試合を振り返って思い出すひと言がある。「攻撃は最大の防御である」と言う言葉だ。

 ラグビーにせよ、サッカーにせよ、やはりボールポゼッションが試合を優位に運ぶ大原則だと思う。故に相手チームの選手がボールを持てばプレッシャーをかけに上がる。ボールをもったらどんな風に攻めるかは、まさにボールを持った者次第。プレッシャーが無い状況下ならなおさら、冷静に攻め方をあれこれ考えられる。攻めても攻めてもディフェンスを破ることができなくても、ボールを持っている限りにおいては、優位なのは変らないのだ。

 Yahooのトップページのトピックスのワールドカップ2006ドイツ大会の記事はSportNaviにリンクされている。そこで「4パーセントの望み」と題して宇都宮徹壱氏が描いた、アマチュアのようなくだらない記事、どう考えてもシロウト記事、にも、ジーコの試合後のインタビューでも言っていたとおりの事が書かれてある。つまり1-0でリードしている時に、守るのか攻めるのかという点だ。「守ってもよかったし攻めることもよかった、豪州はまえがかりになるのはわかっていたから、チャンスをつくって追加点も狙いたかった」と。

 ちょっとまって欲しい。そういう状況で、小野を柳沢と交代させて入れた意図は何だったの?試合が後半あと10分で、0-0ではどうなるの?守ってもよかった?攻めても良かったの?ジーコともあろう人が、そんな事を考えていたというのに少々驚いた。ある意味において、選手に信頼を置いていないとも言えるのではないか?

 また、今回の結果について、あるところでは、サッカーは11人でやるものというジーコと、戦略的に選手の入れ替えをはかって戦うものだという考えだったヒディングとの差とも言われている。

 30度を超す暑さの中で上背のある豪州の選手に自由に仕事をさせない為に、プレッシャーをかけ続け、早いパス回しで中盤のボールポゼッションを保つ日本の戦い方は、スタミナ勝負のところがある。豪州の選手だって、高位置からどんどんプレッシャーをかけて来ていた。日本の選手達は、大きなパスミスもなく瞬時に判断を下していた。そういう状況下ではどうしても変えづらかった筈だ。そもそも11人でやれるならそれでやりたいと考えていたからだ。最初から13人でやるぞという戦略プランなら躊躇はしなかった筈だ。

 しかも、そういうリズムだった試合運びの途中の選手交代の意図が見えないとなると、糸が切れた凧のようになってしまうのは仕方がない。一つの意思、意図に基づいてそれぞれがそれぞれの仕事をし、お互いの穴を埋めあう、それは得点する為にどうするのかという一つの意思が共通認識としてあったからだ。

 その共通認識を崩してしまった今回の交代は、かなり罪が重い。宮本選手も、中澤選手も、中田選手も、中村選手も、「ジーコ、あれはなんだったの?」とまずジーコ自身に問いたいのではないか?試合直後の宮本選手のTVインタビューで、「いまは何も考えられない」という中に、ジーコに対する疑問、不信とまではいわないが、それがあったのではないかと思う。

 あとに引きずらない為にも、選手はジーコに問い、確認すべきだ。中田選手も今大会がおそらく自分自身にとって最後のワールドカップになるだろうと言っている。その大会を予選敗退で終わらせていいなどと思っている筈がない。中村選手も、屈辱を跳ね返してここまできたのに、こんな結果でいいなどと思っている筈がない。宮本選手も、アジア予選のPKで、主審にPKをやるピッチを変える要求をしたくらい、ワールドカップへの執念があった。

 みんなのそんな思いが4年の歳月を積み上げてきたはずだ。”後に引きずらない”、それはつまり、済んだことを、無かったことにするのではなく、前に進むための踏み台にしなければならない。それはつまり、例え相手がジーコであろうとも、疑問は疑問として投げかけ、そして、そういうやりかたを止めてもらうなり、変えてもらうなりすることを要求すべきだ。

 躊躇している時間は無い。




今日の試合・・・サッカーワールドカップ2006ドイツ大会

2006-06-13 00:28:51 | 
 結果はご承知のとおり、1-3で日本の敗戦。試合残りあと10分まで1-0で日本がリードしていた試合。だれが悪いのか・・・とつい考えたくなるのも無理はない。

 あくまでも、私見だけども、いやそんなことわりをいれなくても現地にいて指揮をしていたわけではないから、ジーコと11人のピッチ上の選手以外はすべて第三者でしかないが、どう考えても、今回の敗戦のきっかけはジーコの采配としか思えない。

 小野が悪いわけでは決してない。殆どの選手は大きなミスもなく、あくまで私見だけども、サントスのプレイの荒さから来るミス以外は殆ど気にならなかった。アグレッシブさゆえ、時に危ないミスをやる中田でさえ慎重に、プレイしていた。

 であるにもかかわらず、たったの10分で3得点させてしまった。

 どう考えても、安定していたフォーメーションを、ジーコが替えたからとしかいいようがない。

 柳沢に替えて小野。

 「え?」だれと交代って?小野?え?

 FWを高原一枚にして、しかも、中盤に小野?

 まあ、プロ中のプロからみればそういう采配もありなのだろうけども、あーあーやってくれるわ。その結果、しっかり守っていた中盤やディフェンダーが落ち着きがなくなって、オーストラリアにいいようにやられてしまった。たったの10分で3得点はどうかんがえても選手だけの責任ではない。

 試合直後のインタビューで、キャプテンの宮本選手も、ことばが見つからなかったようだ。

 選手の4年間を生かすも殺すも、ジーコあなたの采配なのだ。ピッチにいる中村はじめすべての選手はしっかりとプレーできていた。その証拠に80分まではリードしていたではないか。

 ある新聞で、日本の弱点は、監督だという記事もあったのを記憶しているが、まさかそれが本当になるとは。

 残念な試合である。選手は胸をはってもいいプレーをしていた。高さがあるオーストラリアに負けていなかった。

 試合をつぶしたのはだれよりもジーコである。と思う




楕円の球のコアなファン

2006-06-11 20:03:09 | スポーツ

▲日本の国家斉唱は、平原綾香さんだった。ハーフタイムに”Jupiter"も披露してくれた


 6月11日(日曜日)東京:雨、この日はラグビー日本代表とイタリア代表とのテストマッチ。

 サッカーもラグビーも雨だからといって試合が中止になることはない。Jリーグやフランス・日韓・ドイツの3つのワールドカップのおかげもあってサッカー専用の競技場も充実し、少々の雨天でも客席は雨がしのげるような設備ができていたりしている。

 日本中がこれほど世界と戦う舞台に出ることが報じられるのは、オリンピックかサッカーワールドカップかというぐらいの盛り上がりだし、マスコミの熱の入れようも相当である。

 それにくらべてラグビーの地味なこと(^^ゞスポーツそのものは全く地味ではないし、面白いのだけども、なにせルールがややこしい。そこそこルールをわかっているつもりで見た自分でさえも、今日の試合で「あ、そんなルールあったの?」というありさまである。

 ラグビーにももちろんワールドカップがあって、ほらメジャーでしょ?、日本はずっと出場しているのに、世界レベルから見れば、弱いし、どんどんと取り残されていって、その差が毎年広がっているというのが現状である。プロ化を容認した各国のラグビーはやはり強くなっている。だからといって単純なプロ化=強化というものではない。プロ化には、Jリーグが歩んだ道を、つまり、しっかりとした理念と、粘り強さ、堅実な運営を踏まなければならない。バレーボールのVリーグは理念欠如で中途半端に終わっているし、ラグビーもまだまだ夜明け前である。

 しかしである、この雨の中、コアなラグビーファンは秩父宮に集まるのである。もちろん代表戦ということもあるが、日本中がサッカーワールドカップドイツ大会に盛り上がっている最中であるにもかかわらず、傘をさして、日本代表の戦いぶりを観戦するのだ。40分×2の約2時間弱。傘をさしながら、雨に濡れながらである。

 こんな雨の日にラグビー観戦なんて、よほどのコアなファン。だから自然とまったく見ず知らずのお隣さんと会話も弾んでしまうのだ。「イタリアのキックは正確だねー」とか、「トンガ戦以上の点差で負けてしまう」とか・・・。

 コアなファンに支えられているうちに、日本のラグビーが大きく変ることを期待したい。理念と現実面の両方をしっかり見ながら全体の強化、レベルアップを図る。

 ラグビーに関係するひとたちは、みんな日本のレベルアップを望んでいる。世界と対等に戦うことができることを望んでいる。グラウンドを芝生に、楕円のボールを抱えて走る楽しさに、多くの人たちが、共感してくれることを望んでいる。

 それまで前進あるのみ。一歩ずつ一歩ずつ、ラグビーらしく、状況を打開していつの日かワールドカップで戦い、勝利する日を夢見て。

 ちなみに、今日の日本代表対イタリア代表は、6-52でイタリア代表の勝利でノーサイドの笛が吹かれた。ノートライはあかんなぁ。せめて1つか2つは欲しかった。まだまだ熟成されきっていない日本代表であることがわかった試合だった。



雨も必要!

2006-06-08 20:15:18 | 日記
 とうとう近畿地方も梅雨に入りました。そういえば昔、”雨がいやや”といって親に怒られたことがあったなぁと思い出した。

 何を隠そう、いや隠すほどの物ではないが、昔々まだ父親が現役だった頃、父は傘のメーカーに勤めていた。商売としては地味なのだけども、ボタン一つで開く折りたたみ傘とか、超軽量の傘とか、長さたった15センチほどしかない!傘だとかを家に持ち帰ってきていた。

 だから、ずーっと実家では傘をお金を出して買ったことがなかった。所帯を持つようになってから初めて!傘を買ったように思う。だから傘の値段なんて正直なところ全然わからなかった。

 そんな家庭に育ったので、”雨はいややなぁ”というと、”あほっ!”と言われた。なかなか因果な商売。たかが傘、されど傘である。

 もちろん、傘以外にも雨が必要なのは当然だ。農作物や、ダムの貯水、水道水、街中の気温上昇。豪雨はこまるけども、やはり定期的に降ってもらわないと困る。

 ”なんだか日本の気候もだんだん熱帯地方になってきたみたいだね”と、この間の昼食時の雨上がりに話をしていたが、確かに台風の数や雨の降り方などからみると、穏やかさよりも激しさに象徴される熱帯地方の感を帯びてきたように思う。

 さて、この雨だけども、確かに雨具やレインコートなど普段よりも1つか2つ持ち物が増えるし、足下も濡れたりするので正直敬遠したい気持ちになるが、無いなら無いで困るのなら、クールビズも流行ったことだし、レインビズのようにおしゃれしてしまうのもいいかもしれない。

 普段、男性諸氏はあまりレインコートを羽織るようなことは少ないけども、敢えて挑戦してみるとか、帽子なんていうのも、よほどの理由がない限り被ったりしないものだけども、おしゃれついでにコーディネートしてもいいじゃないかと思う。

 LEONだとかで特集を組んでもらって、メンズノンノでもいいけど、「チョイ悪オヤジの梅雨のファッション。敢えて雨に濡れる。」っていうのも面白いんじゃないだろうか。

 でも風邪を引いて鼻を垂らすのは、かっこわるいのでくれぐれも風邪を引かないように気をつけてやってみてください。




めちゃくちゃ

2006-06-06 22:23:00 | 風景
 ヤフーのトップページに宮崎勤死刑囚が、絞首刑は残酷なので薬による執行を望んでいるということが報道されていた。

 『勝手なことを言うな!』怒りすら出ないくらいに呆れてしまった。

 自らの欲望の赴くままに、まるで愉快犯のごとくに幼い命をもてあそび奪い、しかもその親族に対して神経を逆なでするような言動。さらには罪を逃れたいが為の虚言、狂言。
なにをいまさら言っているのか?と思う。

 当たり前の社会性、普通に普段の生活を、良識をもって営むことが出来ないから仕方がないとも言えるが、被害者の親族にしてみれば、宮崎死刑囚がどんな境遇で育とうが、やったことは絶対に許さないし、怒りも消えはしない。

 ましてや、自らその死刑執行について、”楽な方法で執行”すべきとまで言う。この死刑囚のどこに反省の色が見られるのであろうか。このニュースを耳にした被害者の親族は改めて怒りと悔しさがこみ上げてきたに違いない。

 法律が許すならば、自らの手で犯人の息の根を止めたいとさえ思っているだろう。想像もしたくないが、自分だったら間違いなくそう思う。

 きたないゆがんだ欲望で、純真な心の幼い子供がその命を奪われてしまった。その命は戻らない。絶対に戻ってこないのだ。戻ってこない命を、人がその感情や欲望から、奪って良いはずがない。もしもそういうことがあったなら命を奪った犯人は、自らその命で償わなければならない。

 池田小学校事件の宅間守は自らの人生に未練は無いがごとくに早期の死刑判決を望んだ、また奈良小1女児事件の小林薫も同様に死刑を望んでいるという。

 彼らが何を望もうが、何にも希望を持てなかろうが、そういう事と、幼い命に手をかけるのとを一緒にするというのは断じて許せない。

 幼い命という殆ど無抵抗な存在を狙う卑怯さ、言い訳がましく早期の死刑判決を望むという破廉恥さ、そこまで腐りきれるものかと思う。30代の大人であるはずなのに、心の幼稚さがそのまま見えて来て、さらに憤ってしまう。

 そして、また幼い命が奪われた。しかも普段付合っている隣人の子供が歯牙にかかったのである。

 もう、鬼畜としか言えない行為だ。

 主婦による子供の殺人は虐待を除くと、今年の2月の滋賀県長浜市の園児殺人事件の鄭永善、平成11年の文京区の山田みつ子、などが思い出される。そして今回の事件。

 表向きの動機は違えども、やはり”幼稚な”ものの考え方。狭量な心があるとしか思えない。自分を正当化するためにじゃまになる物を排除する。その時、幼い子供達の命は、彼女たちにとっては命ではなく、物でしかないのだ。

 何度も何度も繰り返される、大人という、子供からすれば圧倒的に力の強い存在による、子供の殺害。顔見知りの大人からの、考えられない行為。その時、幼き命は何を思っただろうか?

 大人はいとも簡単に子供の存在を消しうる事が出来てしまう、だからこそ、心が子供のまま、幼稚なままであっては行けないのだ。耐えられない事だが、こういう事件はまだまだ続いてしまうように思う。

 最大の防御策は、大人達がしっかりとしたオープンなコミュニティを作り、人を排除せずにつながりを持つことぐらいしか無いのではないだろうか?

 命を奪われた幼い子供達がその苦しみから逃れ、安らかに神の元へ行かれますように。